それから、彼は誰も居ないところで、ひっそり本ばかり読んで過ごすことが多くなった。人の話し声や、自分に向けられる好意がすっかり怖くなってしまったのだ。
何かまた、よからぬことを聞いてしまうのではないか、表面上は優しい笑顔でも、裏では彼を手懐けようとしているのではないか――あの後フレデリクに尋ねて意味を知った――そんな風に思ってしまう。
天真爛漫を絵に描いたような王子の気落ちぶりに、周囲は訝しがったがマークの口は固かった。
父のクロムは視察等で近頃城を空けることが多く、すると必然的に側近であるフレデリクもこなすべき公務が増え、幼い王子ばかり構っている訳にもいかない。
他に上手く聞き出せる人間はおらず、一番懐いている二人以外には、それこそ貝のように黙ってしまう彼に皆手を焼いていた。
結局、誰も原因を突き止めることができないまま、ひと月近くが経過しようとしていた、ある日のこと。
「……こんにちは」
その人に声を掛けられたのは、マークがいつものように王城内にいくつかある中庭の隅で、隠れるようにして持ち込んだ本に目を通していた時だった。
陽の光が遮られ影ができるまで接近に気付かなかったことに驚き、同時に激しい警戒心を顕にして本で自分の身を守るように後ずさった彼に、頬に大きな傷の有る男性は困ったように眉根を寄せてそう言ったのだ。
「こんな人気のないところで、君みたいな小さい子がひとりでいると危ないですよ」
「だれ……ですか」
それだけ口にして、目の前に唐突に現れた男性を見上げる。
黒い外套を羽織ったその人物は、多分父と同じか少し高いくらいの背丈で、年齢的には父より若そうな、青年と言えるくらいの年格好だった。
頬にある傷は何か鋭利なもので切り裂かれたようで、目に見えるところにそんな大きな怪我をしている人物を見たことがなかった為に、最初は恐ろしく感じてしまう。
けれどその人の瞳も髪も自分と同じ、そして父と同じ色だと思った所為かすぐに恐怖心は霧散した。
ただ青年はマークが警戒しているのを頬の傷が原因だと思ったらしく、大きな手で片側の頬を覆うようにして困ったな、と呟く。
「やっぱりこの傷じゃあ怖いですよね。うーんまいったな、僕、決して怪しい者じゃないんですよ」
「……すごくあやしいです」
「あれれ、言われちゃいました」
間髪入れず突っ込んだマークにもその人はへらりと笑うばかりで、どこか緊張感が足りなかった。
今まで見たことがない人だ。もしかしたら泥棒か、下手をしたら人攫いかもしれない。
だというのに、一番初めの警戒心は彼を怪しいと思う気持ちに反して次第に薄れ始めていた。
むしろ初めて会う筈なのに、何故か懐かしいとさえ思っている自分に驚く。不思議な感覚だった。今まで出会った誰に対しても、こんな風に感じたことはない。
今日読んでいた本は、生き別れの兄弟が大人になってから再会し、一緒に悪い魔女を倒しに行く話だった。
本の中では、どんなに長い間離れていたとしても、たとえ一度も会ったことがなくとも、同じ血は呼び合うのだと書かれていて、そういうものなのかと思ったけれど……もしかして、青年は自分と何か関わりがあるのだろうか。
「まあ、いきなり叫んだり、逃げ出さないでくれたのは助かりました。僕、君のお父さんに嫌われてしまっているから……。実はここにいることを知られると、とってもまずいんですよ」
「とうさんに? どうして?」
いつの間にか口調も普通のものに戻っていた。マークの父に嫌われているのだと、そう口にした青年の表情がどこか暗く、悲しげであったからかもしれない。この人が悲しい顔をしているのは、どうしてか嫌だった。
無意識の内に慰めたかったのか、ひらひらとした外套の裾を握って尋ねたマークに青年は答えない。
代わりに「君のお母さんに、会いたくないですか」と静かな口調で囁き。息を呑むと父がそうしてくれるようにそっと頭を撫でてくれ、あることを告げたのだ――――。
***
その人が教えてくれたところによると、決して近付いてはいけないと厳しく言い含められていた王の庭、そこに誰にも見咎められず入れる場所があるのだという。
何でも、マークくらいの背格好の子供でなければ通り抜けられない、茂みと茂みの間の隙間のような箇所らしい。
『君のお母さんは、今の時間帯は大抵、そこにいますから……きっと会えますよ』
青年の言葉をまるまる信じた訳ではない。けれど頭を撫でてくれた手はとても優しく、やはりどこか懐かしくて。
母を恋しがる気持ちも手伝い、駄目で元々、彼の言う通りにしてみようと決めたのだった。
「わあ……!」
教えてもらった通りの狭い隙間をくぐり抜けると、そこは先程までマークがいた中庭など比べ物にならないくらい、様々な花が咲き乱れ、芳しい香りに満ちた美しい花園が広がっていた。
髪の毛や服を緑の葉だらけにしながら降り立った途端、そのような光景が飛び込んできたものだから、立ち入りを禁じられている場所だということも忘れ思わず歓声を上げてしまい、慌てて両手で口を塞ぐ。
(えーっと、あっちにあるのはもくれんで、こっちははなみずきかな。あ、むこうにはもっとある)
図鑑で眺めていた草花があちこちにあるので、近頃の気鬱も忘れマークは観察に熱中した。
一番綺麗な花を摘んで、母にあげようと思ったのである。薄紫のリラの花もいいし、サンザシの清楚な佇まいもいい。あまりに色々な花がありすぎてなかなか決められない。
そうこうしている内に、彼がいる小道と背の高い植え込みをひとつ挟んで向こう側の方から、ざわついた気配が近付いて来た。
複数の足音と、幾人かの女性の声に混じって聞こえた、柔らかく澄んだ響き。
それに何かを感じ取って、周囲に散らばっていた煉瓦を積み重ね、急いで上に乗った。不安定だが気をつければ問題ないだろう。
ぴたりと茂みに張り付き、生い茂る葉の隙間からあちら側を覗く。心臓の音がうるさくて、聞かれてしまわないか心配になるくらいマークの鼓動は早くなっていた。
そして、彼の心を一瞬で捕らえてしまった声が再び響く。
「……しばらく、ひとりにして頂けませんか」
(あ……!)
青いドレスを纏った儚げな印象を受ける女性。彼女の姿を一目見て、胸の辺りがきゅっと苦しくなる。
今日出会った青年と同じく、初めて目にする人だ。声も、今まで一度として聞いたことがない。なのに泣きたくなるほど懐かしかった。
(かあさん、だ……)
何の理由もなくそう思った。
髪の色が自分と似ているからだとか、子供の目でもはっきり分かるほど仕立てのよいドレスを着ているからだとか、そんな理由からではない。
ただ知っていた。この人が、ずっと会いたくて会いたくて、恋しくて堪らなかった母なのだと。
母は後をぞろぞろと付いて来る侍女たちを振り返り、ひとりにして欲しいと告げていたが、彼女等もそうそう引く気はないようだった。
「それは……陛下がご不在の間に、万一のことがあっては困りますので」
「万一? そんなこと、ある筈ないじゃありませんか。だってここにはあなた方と陛下と、私以外出入りができないんですから。……それとも、私がまだ逃げ出すと思っているんですか?」
最初の印象はほっそりした肢体と、元から病弱だと聞いていたことも相まって儚げな人だというものだった。
しかし、こうして侍女たちとやり取りする場面を見ていると少し違ってくる。儚いというよりは、芯がすうっと通った凛々しさと、一度決めたら動かないような頑固さがあるように感じたのだ。
父の話と随分印象が異なる。確か、病がちでほとんど部屋から出られない、と聞いた気がするのに。
今目にしている母は、遠目でも分かるくらい透き通るような白い肌はしていたものの、決して虚弱そうには見えない。淡々と紡がれた言葉に、侍女たちのほうが怯んでいる。
「私はもう、どこにも行きません。陛下にもそうお約束したのですから。ただ少しくらい、ひとりの時間を要求しても罰は当たらないと思います」
「……かしこまりました。では、一刻だけ」
渋々、といった様子で侍女たちは頭を下げ、静かに離れていった。彼女たちの姿が完全に見えなくなると、母は疲れたように肩を落として、そうするとまた今にも消え入りそうに感じられる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
彼女がそんな風にしているところを見たくなかった。駆け寄って、元気を出してと慰めたかったが、もう見咎める人間はいないと分かっていても急に怖くなる。
来る日も来る日も会えることを心待ちにしていた母が、目の前にいるのに。手を伸ばせばすぐ抱き着けそうな距離に。
飛び出して行く決心がつかないまま無意識に身を乗り出すと、当然ながら煉瓦を重ねた、不安定な支えの上に乗っていたのでぐらりと均衡が崩れる。あ、と思った時には既に遅かった。
「わっ、わわっ!」
「きゃあっ?!」
頭から茂みに突っ込み、顔だけ反対側へ飛び出る形になる。ちょうどぽかんとしている母と目が合って、ああ、瞳も同じ青なのだとぼんやり思った。
ただ少しだけ、彼女の方が淡い。まじまじと正面から見つめると、こっそり覗き見ていた以上に綺麗なひとだと見とれて……いるどころではなかった。
「あ、あの……えっと、」
怪しい。この庭への入り方を教えてくれた青年より今のマークの方が百倍怪しい。
多分母にとっては見ず知らずの子供が、彼女曰く限られた人間以外立ち入れない場所にいる。怪しいことこの上なかった。
いきなりあなたの息子ですと名乗っても、信じてはもらえないだろう。どう言い訳したものか。
焦ってなかなか良い案が浮かばないでいる内に、マークを見て母の目はたちまち潤み、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「え、あの、その……な、なかないでくださいっ」
ああ、やっぱりこの人が病弱だと言った父の言葉は、嘘ではなかったのかもしれない。唐突に現れた子供に驚くあまり泣いてしまうなんて、何て脆い人なんだろう。
けれど、マークのその推測はまったくの見当違いだった。大粒の涙を零す母は、ドレスが汚れるのも構わずマークが顔を出している茂みの側に跪くと、そっと彼の頬を包み込んだのだ。
そしてやさしく、やさしく囁く。
「<マーク>……<マーク>でしょう……?」
「かあさん……?」
ふうわり、甘いにおいがした。いつも父を通してしか感じることのできなかった、彼女の存在する証。
マークが馴染み深いその香りに呆然と呟けば、ますます感極まったようで、母はマークの頭を胸元に抱き寄せた。
「かあさん……かあさんっ!」
いつの間にか、茂みから無理矢理這い出し、懐かしい香りのするひとにしがみついて、マークは声を上げて泣き始めていた。
あまり大声を出してはさっきの侍女たちが戻って来てしまう。そう思ったけれど、次々溢れてくる涙を止められない。
ようやく出会えた母のにおいを感じながら赤ん坊のように泣き続けるマークを、彼女は涙が止まるまでずっと抱き締めてくれていた。
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