王の女
ある朝マークはいつもの通り、与えられた子供部屋にある大きな本棚の脇に、両手を身体の脇できっちり揃えて立ち、部屋付きの侍女の手で頭の上のところに印を刻んでもらった。
マークの侍女はころころと変わるが、今回の彼女は随分と無口だ。今までと違って、毎朝飽きもせず、古びていようと王宮の財である本棚に傷を付け続ける彼を諌めることもしない。
ただ淡々と、癖のある青い髪に覆われた頭に定規を乗せ、小刀の先で小さな印を付ける。
「ありがとう、ろーざ! ねえねえ、ぼくこんどはおおきくなった?」
「そうですね……雪柳が咲き始めた頃よりは、少し背が伸びられたのではないでしょうか」
抑揚のない声で返す侍女の言葉に、だがマークは顔を輝かせた。「とうさん、きょうはかあさんにあわせてくれるかなあ」と期待を隠し切れない表情と声で尋ねてみる。
毎日のように繰り返されるやり取り。一度も叶ったことがないけれど、それは自分がまだ『大きく』なっていない所為だとマークは思っていた。
だって、父は毎回言うのだ。母に会いたいとねだるマークに、『お前が大きくなったらな』と。
しかしひと月前に彼の侍女になったばかりのローザは、いつもはほとんど表情が変わらないのに、そこで困ったように眉根を下げた。
「……それは陛下にお伺いしてみませんと、私では何とも。ほら、お見えになりましたよ」
「あ、とうさんっ!」
侍女たちに頭を下げられながら部屋に入って来た長身の人物。少し髪や着衣が乱れているのは、剣の稽古でもしてきたのだろうか。
待ち望んでいた人の来訪にマークはぱっと駆け出す。この国の聖王であり、マークの父であるクロムは突進してきた息子を難なく受け止め、高々と抱き上げてくれた。
「とうさん、おはよう!」
「ああ、おはよう<マーク>。今日も元気がいいな。昨夜はまた、いつものように遅くまで本を読んでいたんじゃないのか?」
「そうしようとおもったんだけど、ろーざにとりあげられちゃったの。だから、すごーくはやくねたんだよ」
「ははっ、今度のお前の侍女は容赦がないな」
穏やかな笑顔と共にわしわしと頭を撫でられ、マークは気持ちよさに思わず目を細めた。父は時偶とても怖い時があるけれど、こういう時は優しくて大好きだ。
もっと甘えたくなって抱き着くと、汗のにおいに混じって、微かに父のものではあり得ない甘い香りがした。
かあさんのにおいだ、と思う。誰に聞いた訳でもないけれどそう知っていた。
身の回りの世話をしてくれる侍女の誰とも違うし、時折訪れる叔母のリズとも違う、とても慕わしく懐かしささえ感じるにおい。
するといつも、顔も知らない母に会いたくて堪らず、泣きたくなってしまう。
(とうさん……かあさんのところにいってたんだ)
この香りを父がさせている時は、父が母と会っていた後なのだ。それも誰に尋ねた訳でもなく知っていた。大抵朝、朝食の前にマークを訪ねて来てくれた時は同じにおいが香る。
それがどういう意味なのか、幼過ぎるマークにはまだちっとも分かっていなかったのだが。
「ねえとうさん。かあさん、ぼくのことなにかいってた?」
滲みそうになった涙を堪えて尋ねると、ぴくりと父の肩が震えた。凛々しい顔立ちに浮かんでいた柔らかな笑顔が、ほんの少しだけ硬くなる。
雲行きが怪しくなってきたことを察知した侍女等は身を強張らせ、主君の反応を固唾を飲んで見守っていた。
にわかに緊迫感を増した周囲の空気に、マークは気付けない。いや、聡い子供なので父の様子の変化を感覚的に察知してはいるのだろうが、日々彼の言うとおり『大きく』なっているのに、一度たりとして母に会わせてくれず、独占してばかりのクロムをずるいと思い、むくれる気持ちの方が強かった。
「……<マーク>。どうして、俺が母さんのところに行っていたと思うんだ?」
「だって、あまくていいにおいがするよ」
「…………そうか」
短く応じると、父はマークを自分の肩から長椅子の上に下ろしてしまった。すると甘い香りは遠ざかってしまい、母からも遠ざけられたようで寂しくなる。
いつもそうだ。父は、母のにおいがすることを指摘すると、よくよく注視していなければ分からないほど微かに、機嫌が悪くなる。
まるで、マークがその香りを共有することを嫌がるように。
「ねえねえ、とうさんったら」
「ああ……そうだな。お前が元気にやってるか、気にしていたぞ」
毎回同じ、おざなりな返事だ。けれどマークはめげなかった。ぴょん、と軽やかに長椅子から飛び降りて、今度は本棚の脇を指し示す。
「みてみて! ぼく、おおきくなったよ!」
「ほう、どれどれ」
本棚の側面に刻まれた成長を自慢する我が子に、クロムの硬かった表情は穏やかなものへ塗り替えられた。
そのことに安堵したのは、主君がこの部屋を訪う度、無邪気な王子の言動に肝の冷える思いをしている侍女たちだろう。
寵愛深い側室から生まれた王子を、やはり王は目に入れても痛くないほど可愛がっている。そんなマークの部屋付きの侍女になるということは、傍目から見ればかなりの栄達だ。
しかし三月以上、長続きした試しはない。幼い頃から王子を手懐けておこうという思惑を持って送り込まれてきた者を、聖王の側近たる騎士団長が目敏く気付いて解雇させてしまうからでもあるし、母を恋しがるマークに絆された侍女が、王の目を盗んで母に会わせてやろうとし、彼の怒りを買うからでもある。
近頃では事情を知っている者は皆、マークの侍女になりたがらない。
偉大な英雄として讃えられる聖王クロムの影の一面――かつて己の軍師であったルフレという女性を寵愛するあまり、身の回りの世話をする僅かな人間以外の目には触れさせず、王宮の奥深く囲って決して外へ出さないという――をまともに実感してしまうのが、王子付きの侍女という役割だからだ。
だがマーク本人はそんなことは露ほども知らず、にこりと笑って父へ自分の成長を訴える。
「ね、おおきくなったでしょ」
「そうだな。どうりでさっき抱えた時、前より重くなったと思ったよ」
「えへへ。これなら、かあさんにあえるくらいおおきくなった?」
また、硬くなる表情。先ほどマークの背を測ってくれていたローザより、部屋付きになって長い別の侍女がしきりに目線で駄目だと言っているのだが、マークはやはり気付かない。
いたって純粋に、今日こそは大丈夫かと期待に満ちた顔で父を見上げる。
二人の子持ちとなっても未だ若々しく男らしい聖王は、しばらく無言で息子を見つめ続けた。
彼が正妃との間に儲けた長子のルキナより、この王子を可愛がっているのは誰もが知るところだ。
だが同時に、マークはクロムが鳥籠の鳥の如く閉じ込めているルフレを奪っていきかねない『男』だった。
いかに、今は幼くとも。自分の子であろうとも。
王子と同じ名で呼ばれていた青年と、聖王の密偵の頭領格だった男が、ある時王の逆鱗に触れて放逐されたことを、覚えている人間はまだ多かった。
我が子にすら嫉妬する、それほどまでに深く己が半身を愛する王に、母に会わせて欲しいなどと願い出ることすら無謀なことだ。
しかし侍女たちの憂慮を他所に、クロムは息子の申し出へ、今度はしゃがみ込んで優しく頭を撫でてやる。自分と同じ癖のある深い藍の髪を。
その目が見つめているのは――彼と揃いの濃紺の瞳だ。
否、正確にはその中に浮かび上がっているある印。それを見ると、聖王の態度が和らぐことに何人の人間が気付いているだろうか。
「……まだまだだな。今のお前じゃ、母さんに会ってもぎゃあぎゃあ騒いでまた寝込ませるだけだ」
「ぶー。とうさんのけち。じゃあどれくらいおおきくなればいいの?」
「焦るなよ。お前は俺の息子だからな、すぐ大きくなる」
「すぐって、いつ?」
マークは大きな瞳をさらに大きく見開いて父に尋ねたが、直接の答えはもらえなかった。
ただ一瞬ひどく苦しげな表情をした父は、マークの右の目蓋にそっと触れてもう一度、こう囁いたのだった。
「お前は俺の……俺の子供だから」
ふわりと再び漂う甘い香り。父が触れている目蓋の下には、マークがこのイーリス聖王国の王子である何よりの証、姉姫と対になる、ナーガの末裔たる聖痕が、くっきりと顕れていた――――。
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