Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 1/17

 あの日、薔薇の咲く茂みの下に
 決して赦されることのない恋を埋めた
 薔薇よ薔薇よ美しき薔薇よ
 この想いを糧に咲き誇れ
 そしてどうか――――

 ***

 その日、イーリスの聖都は喜びに沸いた。
 それもその筈、長らく姿を見せなかったある人物がようやく帰還したと、聖王直々に発表があったのだ。
 前王エメリナが存命の頃より、当時はまだ王子であった聖王を支え続け、ペレジア、ヴァルムと聖王国に襲い掛かる脅威を幾度も退けた天才と名高い軍師。そして遂に伝説の彼方より蘇った邪竜を聖王と共に滅ぼした英雄の片割れ。
 だが後世その不確かな素性から史学者の悩みの種であり続けたその人物は、邪竜の脅威が過ぎ去った後、しばらく国民の前に姿を見せなかった。失われた記憶を探す為に旅に出たのだと聖王は民に伝えていたが、一向に音沙汰のない軍師を訝しむ声も出ていたのだ。
 そこに今、ギムレー消滅より三年を経ての救国の英雄の帰還である。聖王の口からその旨が発せられるや人々はこぞって祝いの言葉を述べ、お祭り騒ぎとなった。城下はすぐに華やかな喧騒に包まれる。
 そして聖都の中心にあるイーリス城でも、それは同じだった。

 ***

 母が、戻ってきた。
 それを伝えられた時、マークが真っ先に感じたのは喜びではなく不安だった。
 勿論、嬉しくない訳ではない。未だ記憶が戻らないマークにとって自分以外に唯一はっきりと覚えているのが母のルフレだ。この時代、まだマークは生まれていない。不安定な存在のマークの、己が寄って立つよすがとなるべき相手が三年もの間不在だったのだ。母の様な軍師になりたいと慕っていた彼にとってルフレの帰還は確かに嬉しい報せであった。
 しかし同時に、足下に開いた大きく虚ろな穴に引きずり込まれていくような、昏い不安を感じずにはおれない。
 原因は分かっている。
 マークはちらりと宴の開かれている大広間の中央、人だかりに囲まれた母に目を向けた。そして母の傍らを離れようとしない聖王、クロムにも。
 互いを半身と呼び、自警団時代から苦楽を共にしてきた二人はその親密さから男女の仲を疑われることもあったが、母もクロムも笑ってそれを否定していたのでこれまで大きな噂になることはなかった。
 ペレジアとの戦が集結すると彼は周囲の勧めに従って妻を迎えていたし、共に戦った仲間達も、二人は性別という枠を超えた親友同士なのだと理解していたのだ。
 
(でも……今は)

 マークの視線の先で談笑するルフレを見つめるクロム。彼はこの三年、まるで片翼をもがれた様だった。公務の際は政治は苦手だと言いながらも皆が英雄と讃える声に応え、戦災からの復興に全力を注ぎ、フェリアやペレジア等周辺諸国とは友好な関係を維持しようと努めていた。
 けれどふとした瞬間に見せる、すべての感情が抜け落ちてしまったかの様な表情は彼の喪失感の深さを窺わせた。聖王には既に妻も幼い娘もいるが、時に彼女達すら寄せ付けず、ひとり自室に篭ることもあったという。その姿に口さがない者たちが何と噂し合ったのか。それはとても母に聞かせられる話ではない。彼女は何よりもクロムの道行きが平らかであるようにと願って自ら邪竜と共に滅びる道を選んだのに。……少なくとも、それが理由の大部分である筈だ。
 だがその幸いを願った相手は、むしろその噂を助長しかねない、狂おしいまでの熱情を隠し切れぬままの眼差しで母を見ている。他の誰でもなく母だけを。
 聖王自身は隠せていると思っているのかもしれない。だが少しでも敏い者ならばすぐに気付く。半身と呼び合った片割れを一度喪い深く深く傷付いて。そうして今、ようやく戻って来たルフレを見つめる聖王の視線に含まれる感情の色が以前とひどく様変わりしていることに。

「……何をそんなに見ているの」
「わわっ?!」
 背後から囁くように耳に落とされた声。驚かせようとした訳ではないのだろうが、母とクロムのことばかりに意識が向いていたので、首筋へ急に冷たいものを押し当てられでもしたように飛び上がってしまう。
「さ、サーリャさん……! びっくりさせないでくださいよ〜」
「何もつままないで突っ立っているからよ……食い意地の張った輩に食べ尽くされる前に、少しくらいお腹に入れておきなさい……」
 にこりともせずに差し出された皿。その上には料理が彩りよく盛りつけられている。おそらく彼女が取り分けてくれたのだろう。好き嫌いせずに食べろと言わんばかりに、これでもかとマークの嫌いな野菜ばかりが乗せられてている気がする。だがこれも彼女なりの気遣いなのだ。
 サーリャはルフレが消えてしまってから、夫と共に、途方に暮れるマークをよく訪ねてくれた。呪術師ということもあって嫌厭されがちな彼女だが、その実優しい人なのだということをこの三年でマークは知ったのだった。
「うわあ、ありがとうございます! そういえば僕、お腹が減ってたんでした。いただきますね!」
「……残さず食べなさい。でないと呪うわ……。それと」
 そこでいったんサーリャは口を噤む。視線をマークから外した。ゆっくりと辺りを彷徨わせた後に、先刻までのマークと同じ様に宴の中心になっている二人へと辿り着く。母と、クロム。ひやりとした。側近くまで近寄られても気付かないほど見入って、何を考えていたのか――聡い彼女に見破られはしないだろうか。
「空腹を忘れるくらい見ていたのは……あの男ね……」
 違います、とは咄嗟に言えなかった。
 平時ならばいくらでも作った笑顔を浮かべて、相手を煙に巻く為の嘘やごまかしを並べ立てられるのに。勿論必要があれば、だが。
 それなのにこちらへと視線を戻したサーリャの、黒曜石の様な漆黒の瞳にひたと見据えられて、笑みの形を取ろうとした口元が強張る。らしくない。言葉に詰まるマークに、彼女は僅かに形の良い柳眉を逆立てた。途端、纏う空気がひどく剣呑なものになる。

「……どの面を下げてルフレの側にいるのかしら……あの男」
「サーリャさん、あの……」
「ルフレがどんな気持ちでいたか知りもしないで……半身だからと勝手なことを言って縛り付けておいて。そのくせ自分だけはさっさと……」
「サーリャさん!!」
 思わず声を荒げた。サーリャが紡ぐ言葉は、ひどく危うい。母がひた隠しにしてきたものを暴いてしまう様に思われた。母をずっと見続けていた彼女だからこそ分かってしまったのか。
 母の……ルフレの、秘密。
 誰にも、息子であるマークにすら告げることなくひとりで抱えたまま葬り去ろうとしていたひとつの想い。
 けれどそれは、誰にも知られてはならないものだ。
 微かに青褪めたまま周囲に視線を走らせたマークに、サーリャがぽつりと呟く。
「……安心なさい。この会話はあなたと私だけにしか聞こえないようになっているわ」
「それも呪術、ですか」
「ええ……まあね……ルフレの不利になるようなことをする筈ないでしょう……」
「そう、ですよね……。すみません、大声を出したりして」
 俯くマークの頭を伸びた白くほっそりとした手が撫ぜた。……サーリャだ。表情は変わらず笑みすら浮かべていないのに、その手付きは優しかった。ルフレと同じ色ね、と以前彼女に言われたことがある。深い深い青。瞳も同じ。母と揃いのその色彩が、血の繋がりの証の様で嬉しかった。
「……いいわ。それより……ルフレは、しばらくこの城にいるのかしら」
「ええ……そうだと、思います」
 何より聖王自身が母を離さないだろう。
 けれど、ルフレは?
 母は……このままイーリスに留まりたいのだろうか。とうの昔に妻を迎え、子まで成しているクロムの側に。

「私は……あの男が赦せない……」

 マークから視線を移してある一点を凝視すると、すうっとサーリャの目が細められる。取り囲む顔ぶれは変わったが、やはり母の傍らにはクロムがいた。彼の手には金無垢の指輪が光っている。遠目でよく分からないが、きっと王族の指を飾るのに相応しい品の良いものなのだろう。
 続けて完璧な微笑を崩さないままのルフレを見た。グラスを掲げる左手。その薬指に指輪はない。外しているのではない。誰かに預けているのでもない。今まで一度も、母の手に指輪が嵌ったことはなかった。
 それなのにマークは存在している。
 不確かな記憶の中、ルフレのことを確かに自分の母として記憶している。
 この、どうしようもない矛盾。
 大勢の人間でごった返す大広間は人の熱気で熱いくらいだが、マークは思わず身震いをする。
 母の帰還は何より嬉しい筈なのに、やはりひどく暗い予感に捕らわれるのを止めることは出来なかった。

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