Under the Rose ifルート「王と寵妃」【サイト連載版】 - 2/9

青の虜囚


 

 その日、夕刻が近付くと普段は眠ったように静かな部屋は途端にざわつき出した。室内に常時交代で詰めている侍女達は慌ただしく動き始め、一日何をするでもなくぼんやりと気怠い身体を寝台に横たえていたルフレも、寝間着からゆったりしたものではあるがドレスに着替えさせられた。そのことで、「彼」が来るのだと知る。
 緩く背中に流したままだった髪は丹念に梳かれて結い上げられ、先日贈られたばかりのひと目で最上級の品だと分かる耳飾りも取り出された。その間ルフレはずっと人形のように寝室の、王の庭を眺められる位置に置かれた籐椅子に腰を下ろし、無駄のない動きで身支度を整える侍女達のされるがままになっていた。
 けれど、こんなことをしても無駄なのに、といつも思う。

(だって、結局……――――――)

 寝室と隣の部屋を行き来する女性等は表情も変えず、淡々と己の仕事を遂行している。主君に忠実過ぎるほど忠実なフレデリク辺りが選んだのだろうか。皆勤勉で、かつ優秀だった。必要な口以外は決して利かず、何の前触れもなくこの部屋の主となった元・軍師を丁重に丁重に世話している。
 あれからずっと小鳥の餌ほどしか口にしないのに、腹部ばかりが膨らんでいくルフレにも、彼がここを訪う度身体の至る所に付けていく決して薄れることも消えることもない朱い印にも、何の感情も表に出すことはない。
 まるで出来の良い人形みたいだ、と麻痺してしまった心は思考する。だが人形のようなのはルフレも同じで、だとすればここは人形が人形を世話するおかしな牢獄なのかもしれない。
 手枷を嵌められた訳でも、足を鎖で繋がれた訳でもないけれど、確かにここは檻だった。夜毎彼に与えられる甘い囁きと熱は澱のように降り積もり、その澱を糧に育った目に見えない荊が絡み付いて心を麻痺させる。少しずつ少しずつ。
 彼の傍を離れなくてはならないと思うのに、身も心も侵していく毒はそんな思考すら絡め取って、溺れてしまえと抗い難く誘うのだ。どうせもう手遅れなのだから、と。

 ざわりと隣の部屋が一際騒がしくなった。この部屋に詰める侍女達のまとめ役らしき女性の静かな声に重なって、扉を隔ててもよく通る低い男性の声がする。聞き間違えようのないその響き。この部屋に足を唯一踏み入れることを許される男。神竜の加護を受ける聖なる国の主。神剣の英雄として讃えられる王。そして、今はルフレの運命をその手に握る彼女の半身の声が。
「陛下、お食事はいかがなさいますか」
「ああ、いつものように運んでくれ。夜もこの部屋で休む」
「かしこまりました」
 薔薇の季節はもう終わってしまった。代わりに王の庭を彩るのは濃淡は様々だが一様に青色をした花だ。
 古の昔、今はもう伝説として語られる英雄王も、イーリスを興した初代聖王も蒼海を思わせる青い髪をしていたという。それにちなんでか今のこの時期、花園は一面の青に埋め尽くされる。この光景もまたルフレの心を麻痺させるもののひとつだ。何故なら青は、彼の色でもあるから。
 ノックもなく、やや性急に扉が開かれる。ぎぃと乱暴な扱いに抗議を上げるように軋んだ音がしたがその行為の主を咎めるものは誰もいない。
 ルフレは扉の方角へ振り返ることも意識を向けることもしなかった。ただ籐椅子の背もたれに身を預け足早にこちらへと近付いて来る彼の足音を感じながら、僅かに開いたままの窓から外へと視線を彷徨わせている。逃れようもなく青に埋め尽くされた世界。
「……ルフレ」
 逞しい腕が後ろから回され、力強く抱き竦められる。既に隠しようのない熱をはらんだ吐息が飾りの揺れる耳朶を擽ると、ルフレはびくりと肩を震わせた。
 侍女達は衣擦れの音をさせながら相変わらずの無表情で、主君と、彼とともに神に祝福を受けた聖王妃ではないのに、その腕に抱かれる女を残し去って行く。今度は至極静かに扉は閉められたが、空気を押し込めたような重い音がして、それが却ってひどく愛おしげに、甘く甘く彼女の名を呼んだ男とこの閉ざされた空間に二人きりなのだと思い知らされる。
「へ……い、か」
「今日も起きていて大丈夫なのか?」
「……はい……」
 嘘だった。身篭ったのは当然初めてのことなので比べようがないが、一向に体調は安定せず、柔らかなクッションが敷き詰められていても身体を起こしているのはつらい。
 けれど王の――クロムの訪いがあると知らされれば美しくルフレを装わせるのは侍女達の役目のひとつ。それがこの部屋、代々の聖王の側室が彼女達の王と愛を交わした部屋に詰めるということなのだ。抗う気力は胎内に宿った命の芽吹きを知らされた時からとうに失われていた。
 だからルフレは、クロムが彼女の為だけに誂えた青いドレスを差し出されるままに纏い、かつて贈られたそれより遥かに高級な、けれどどこか冷たい青い石の付いた飾りで耳元を飾って、ただ彼女の王を待つ。青で埋め尽くされた花園を臨むこの部屋で。
 掌中の宝石を慈しむような、愛おしむような手付きでクロムは結った髪を撫ぜていく。何度も何度も。片方の手はきつくルフレを抱いたままだ。
 やがてその手は首筋にくっきりと刻まれた朱い印をなぞり、そこを始点として肩や鎖骨、開いた胸元にある痕を確かめるようにひとつずつ指先で触れた。たとえ使用人であってもクロム以外の男性の立ち入りを禁じたのは他ならぬ彼なのに、まるで見せつけるように布地では隠せない場所へ付けられた所有の印が薄れていないことに、ひとまずは安堵したらしい。満足そうに笑みを漏らす気配がした。
 ふわり、とやはり彼に贈られた肩掛けで包まれ――これも他のものと同じように青い――クロムは膨らみが目立ち始めた腹部を撫ぜ「あまり身体を冷やすなよ」と、優しく優しく告げる。
「は、っん……」
 ルフレが答える前に彼は頤を捉え、後ろを振り向かせて口を塞ぐ。触れるだけの口付け。けれど、永遠のように思われるほど長い。ぎゅっと目を瞑り、触れ合った箇所から溶かされてしまいそうなクロムの温もりを感じながらルフレはずっと小さく震えていた。寒いのではなくただただ恐ろしさゆえに。
「……顔色が悪いな」
「平気、です……」
「前もそう言って倒れただろう。夕食まで少し休め。……今、寝台まで運んでやる」
 こちらを覗き込む彼の青い瞳にあるのは腕の中に閉じ込めた女への愛しさだけだ。それはルフレの自惚れでも何でもなく、あの冬の夜からずっとクロムの瞳に宿る狂おしいまでの熱は彼が他の誰よりもルフレを欲し、求めていることを突き付けてくる。ルフレにはそれが恐ろしい。

(……ああ、違う……もっと、怖い……のは……)

 一度腕を離し、籐椅子の前に回りこんでそっと彼は青い布地に包まれた身体を抱え上げた。そのまま、紗幕が開いた寝台へと丁重に運ばれて、静かに静かに柔らかなそこへ横たえられる。
 また、啄むように唇が触れた。器用に耳飾りを片手で外しながら、クロムのもう片方の手のひらは優しい手付きで形よく結われた髪を解きそのままゆっくりと梳いている。こんな風に触れて欲しいと何度浅ましくも願ったことだろう。その度に赦されないことだと振り払ってきた筈の密やかな望みは、考えられうる限り最も最悪の形で叶えられた。
 そして甘く甘く名を呼ばれる度、愛おしげにこうして触れられる度、正直な身体は悦んでもっともっととねだろうとする。いっそ呪わしいまでに。何もかもつまびらかにしてしまえばよかったのだろうか。ずっとあなたを愛していたのだと。
 大切にするとの言葉通り、今はこうして優しく労るようにしてくれるクロムだが、余すところなく全身に刻んだ朱い印が少しでも薄れる兆しを見せると途端に豹変する。
 ましてほんの少しでも他の男の名など出そうものなら、どんなに拒んでも声が嗄れるまで叫んでも朝まで解放してくれない。けれど瞳の深い藍色は貪り尽くされるルフレよりもずっと苦しそうなのだ。
 彼は未だにあの夜の偽りを信じ続けている。ルフレが、そう信じさせた。私はあなたを愛していないのだと怯えを顕にした表情で、かたかたと震える身体で、冷たい拒絶の声で告げた。
 クロムは何よりもまず王であり、そして彼には愛すべき家族がいる。それを思えばこそだったが、もしずっとひた隠しにしてきた想いを明かしていたらどうなっていたのだろうと考える。少なくとも、こんな顔を彼にさせなくて済んだのだろうか。
「……愛してる。愛してるんだ、ルフレ。……だからどこにも行かないでくれ」
 耳元に切なげな囁きを落としながら、クロムはルフレを抱き締めた。掠れた声はどこか泣いているようだった。
 彼に塞がれていた唇がほんの僅か震えたが、音として空気を震わせることはなく。
 視界の端に映る深い藍色の髪、どんな時でも彼に抱かれているような気がする青いドレス、花立に活けられた青い花。
 青に取り囲まれていつかすべてその色に侵されてしまうのではないかと恐ろしげな予感に怯えながらルフレはそっと長い睫毛を伏せた。

 

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