そして、不思議な青年と出会ったその日から、マークと母の秘密の時間が始まった。
午後、彼女が王の庭でひとりきりになる僅かな間。その時間帯を狙って抜け穴から庭へ入り込み、他愛ない話をしているだけで、身体がふわふわ浮き上がってどこかへ飛んで行ってしまいそうなほどはしゃいでしまう。
時折、浮かれ過ぎて大きな声を出してしまい、母の侍女が様子を見に来ることがあるのだが、そういった時は長いドレスのスカート部分の下へ隠してもらって、どうにか誤魔化した。
母はとても博識で、マークも本を読むのが好きだと知ると嬉しそうに色々な本を薦めてくれる。
だから母に甘えられない時でも、図書室に行って薦められた本を読んでいると、彼女の膝の上に乗って読み聞かせられているようで、以前のように寂しくない。
この間はお礼に、庭で一番、とびきり綺麗な花を探して髪に挿してあげた。そうしたらとっても優しい顔で微笑ってくれて。
「でも、どうしてかあさんは、そとにでちゃいけないの?」
……だから、まだ母が父に囲われ、自分が生まれるまでの経緯を知らない子供が、以前から疑問だったことが気になり出したとしても、致し方ないところではあるだろう。
何故、マークは先日まで、生まれてから一度も母に会えなかったのか。
何故、どこにも悪そうな場所はなく、健康そうな母を、父は病弱だと言っていたのか。
何故、母は自分の部屋と王の庭だけしか行動の自由を許されず、まるで閉じ込められているような状態なのか。
けれどマークがその疑念を口にする度、母は悲しそうな顔をして目を伏せ、こう言うだけだった。
「……私が……私が、いけないんです。私があなたのお父様を、とても、とても傷付けてしまったから。何度も約束を破って……悲しませて」
言われていることの意味は半分も理解できなかった。それでも母が、父のことを誰より大切に思っていること、そしてそれ故に、我が子に自由に会うこともできない状態を受け入れていたことは辛うじて分かって。
だから次第に、その質問を母へすることはなくなっていった。それよりも、話したいことがたくさんあったのだ。母に会うことができてから、マークは毎日が楽しくて仕方がなかった。
これまで共に重ねることのできなかった時間を埋めるように、ほんの短い間でも、一緒にいられる時は彼女にべったりだ。
以前はあれほど、毎日のように母に会わせて欲しいと父にねだっていたのに、今では見つからないよう注意する必要はあったが、天気の悪い日以外は毎日会えるから、とその願いを口にしなくなった。
浮かれていたのだ。生まれて初めて知る母という人の優しさ、自分のすべてを包み込んで守ってくれるような抱擁、心から安らげる温もりを、ただ味わうだけで満たされ、他のことに気を配るのを忘れていた。
王子と言っても幼い子供だ、仕方のないこことではあるが、後から顧みればやはり配慮が足りなかったと言わざるを得ない。
ぴたりと母への恋しさを口にしなくなったのに、前にもまして楽しそうな息子が、父の目にどう映るかなど、この時のマークは少しも考えずにいたのだった。
***
春が過ぎて初夏を迎え、また薔薇の季節も終わろうとしていたある日。
あいにくの雨だったのでいつものように我が子と会うことができず、ルフレはひとり与えられた部屋で書を読み進めていた。
勿論ひとり、とは言っても控えの間に侍女たちが常に詰めている。部屋の主に呼ばれればすぐ駆けつける為、というよりは彼女が万一でも逃げ出すことがないようにする為だ。
侍女たちは王の――クロムの命に、忠実だった。
以前はそれを息苦しく感じ、気鬱になっていたものだが、王の庭で<マーク>と再会できてからは、気持ちが穏やかになっている。
既に正妃も、世継ぎとなるべき王女もいたクロムと、自ら望んでのことではないとはいえ赦されない一夜を過ごし、身篭ってしまった子。
けれど産み落としてすぐ、ろくに顔も見せてもらえないまま引き離され、それきり一度も会えずにいた我が子。
(いつの間にか、あんなに大きくなって……)
しかも、数年離れている間に赤子の姿からすっかり成長した<マーク>は、王の庭に入り込む秘密の入り口を、頬に傷のある青髪の青年から教えてもらったのだという。
その青年が、未来から来たもうひとりの我が子、けれどクロムの鳥籠に繋がれたルフレを逃がそうとして、彼の怒りに触れてしまったマークであることは間違いない。
あれからどうしているのかずっと気に病んでいたが、少なくとも、密かに<マーク>の様子を見に来られる状態ではあるらしい。
二人の息子の存在を、彼等の気遣いを感じ取れることはルフレにとって何より喜びだった。例えばそう、この花のように。
「ふふっ、ほとんど毎日庭に出ているのに、こんな素敵な花が咲いていたなんて気付きませんでしたね」
彼女が見つめているのは、純白の可憐な花を押し花にした細長いカードだ。
数日前、また<マーク>が『おにわでいちばんきれいなはなだよ!』と言ってルフレの髪に挿してくれた。
この他にも、これまで彼がくれた花はすべて押し花にして大切に取っておいてある。
ただ、あまりおおっぴらには飾っておけない。クロムが勘付いてしまう恐れがあるからだ。その為、こうして本の栞代わりに挟んで目立たないようにしていた。
そういえば、先週くれた淡い黄色の小さな花も愛らしかったと思い返し、眺めたくなったルフレは今まで開いていた本を閉じて本棚の前に立った。
歴代聖王の側室の部屋として使われていたというこの室内には、古びた背の高い本棚がある。
おそらく、ずっと前から置かれているものなのだろう。埃を被っている書物も多く、<マーク>からもらった花を隠しておくには最適だった。
背表紙の題名でもう中身も位置も把握しきっていたので、目当ての栞を挟んでいる本をすぐに見つけて引き抜く。
けれどぱらぱらとめくっても、可愛らしい花の姿は視界に入ってこなかった。
(おかしいですね。私の記憶違い、なんでしょうか……? でも確かにこの本に挟んで……)
ほとんど軟禁状態で頭を働かせることも少ないとはいえ、記憶力はまだ衰えていない筈だ。それなのに、何故見当たらないのか。
そう思ってルフレが首を傾げた時、隣の部屋がざわついた。……クロムだ。
彼が来るのは大抵あと少し後、日が暮れかけた頃なのに、今日は随分と早い。しかも毎度のことだが、先触れも何もない。
そのことに、彼女の心はざらりとしたもので撫で上げられたような嫌な予感を覚えた。
<マーク>と会っていることを、クロムに知られてはならないと表情を改める。
未来から来た我が子と違い、右目にはっきりと聖痕が浮き出ている<マーク>のことを、クロムは自分の息子として可愛がってくれているようではあるけれど。
それでも、彼以外の『男』に意識を向けるルフレを、クロムは許さない。この数年で我が身をもって実感していたことだ。
あの冬の夜、彼女の吐いた嘘に縛られたままの彼は、愛する女――ああ、何より残酷なことにそれは自分なのだった! ――に受け入れられず、苦しんで。
<マーク>の出産直後、ルフレが再び逃げ出そうとしたこともあり、今やその情愛はただ甘やかなものではなく、ひどく歪んでしまっている。
それでも、そこまで執着されることに、喩えようのない悦びを覚えてしまっているのもまた、事実だった。
「また本を読んでいたのか。本当に飽きないな」
ノックもなく室内に入って来たクロムと、二言三言言葉を交わした後、彼は卓の上に置かれたままだった本に目を留める。<マーク>から貰った栞の挟んであるものだ。
いつもならば頭が痛くなると言って、先頭の方をぱらぱらとめくりすぐ閉じてしまうから、ひやりとしつつもそこまで構えずにいて――けれど彼は何か目的を持っているように頭から一枚一枚頁をめくってゆき、すぐに栞を見つけてしまう。
止める間もなく、つい、と長い指先が、近頃彼女の心の慰めとなっている、花の姿を閉じ込めた細長いカードをつまみ上げた。
「あっ……!」
「……どうしたんだ、この花」
表情は一見、優しいとも言える笑顔だ。声だってやわらかい。
それなのにルフレは、クロムの様子に、彼女の秘密が容赦なく暴き立てられそうになった、あの夜と同じものを感じ取った。
心臓がどくどくと早鐘を打ち始める。背中に冷たい手が差し入れられたようだ。けれどまだ、まだだ。うまく説明すれば、きっとクロムも気付かずにいてくれる筈。
「それは……あの、庭に綺麗な花がたくさん咲いているので、何かの形で残しておきたいと、思って」
説明する自分の声は、震えなかったと思う。だが彼は黙ったままだ。……あの夜と、同じように。
すうっと深い藍色の目が細められた。頭の中で激しい警鐘が打ち鳴らされている。駄目、駄目……駄目! でもルフレにはどこにも逃げる場所がない。逃げられない。
彼女はクロムの鳥籠に閉じ込められた鳥で、青で埋め尽くされたこの檻の虜囚だから。
静かな靴音を立てて彼が近付いて来る。恐ろしくて後ずさっている内に、気が付くと壁際まで追い詰められてしまっていた。
ルフレがとうとう震えてしまった声で「へ、い……か?」と呼び掛けると、どこか苦しげに笑った。
「近頃、庭の散策から戻ると機嫌がいいことが多いらしいが、何かあったのか」
「いえ、そんなこと、は……」
心臓の鼓動がますます早くなっていた。気付かれては駄目だ。そうしたらもうあの子に、<マーク>に会えなくなってしまう。やっと再会できたのに。
辛いことがあっても、一度として抱き締めてさえあげられなかった自分を、それでもかあさん、かあさんと慕ってくれる愛しい我が子。
必死に弁明しようとするが、ゆるゆると首を振り、そんなことはないのだと口にし終わる前に――――だん! と乱暴に壁へ押し付けられたルフレの顔の脇へ、何かが突き刺さる。
「お前は本当に……俺に嘘ばかり吐く」
「あ、あ……っ」
短刀だった。多分、護身用に忍ばせているものだろう。小型でも十分殺傷能力をそなえたその刀身は、彼女を傷付けることなく、代わりに別のものを貫き壁へ突き立てられていた。
(あの子に貰った……!)
ルフレの視線の先で、クロムはその鋭い刃をぐりぐりと動かし、可憐さを留めていた花を潰すようにしてしまう。
<マーク>が『かあさんには、いちばんきれいなはながにあうよ』と言ってくれたばかりの。
押し花にしていつまでも大切に取っておこうと思ったのに、今や無残な姿になってしまった。
知っていた。気付かれていた。
クロムは知っていたのだ。何故かは分からないけれど。だから迷うことなく本を手に取って、栞をつまみ出したのだ。もしかしたら、他のものも……?
「……ルフレ……」
静かに、静かに囁いてクロムはルフレの頬を片手で包み込んだ。外はまだ大粒の雨が降り続いていてうるさいくらいなのに、彼の声は心まで染み込むようにはっきりと耳に届く。
視界いっぱいに映るのは青。深い藍色。何より誰より愛しい青。その色の視線と、あからさまな意図を込めた指先が、頬をなぞり、唇をなぞり、ゆっくりゆっくり同じ色のドレスの襟元をくつろげていく。
そこには、彼の訪れる間隔が近頃あいた所為で、大分薄れてしまった印のひとつがあった。
「しばらく、城を空けることが多かったからか? 俺の言ったことを忘れたらしいな……」
「っあぁ……っ!」
焼け付くような痛み。血も出たかもしれない。クロムが唐突に、歯を立てて首筋に噛み付いたのだ。
そしてかたかたと震えだしたルフレへ、獲物に狙いを定めた獣を思わせる荒々しい笑みを向ける。
最大音量の警鐘はもうずっと鳴り続いていたが、彼の身体と腕で壁に押し付けられている為に逃れることができない。
「い、や……やめて……」
「俺以外の誰も見るなと、お前は俺のものだといつも教えてやっているだろう。忘れたと言うのなら――――何度でも、思い出させてやる」
かつてルフレへの深い信頼と、優しい気遣いを映していた澄んだ藍色には、自分を見ない、自分を拒み続ける女への憎しみと絶望と……それでも消えない愛念がある。
「ルフレ……俺のルフレ……」
これは罰だ。彼との約束を破り続け、嘘を重ねて。傷付けた。傷付けてしまったのだ、このひとを。そして今も苦しめ続けている。
それなのに、ひとりだけ我が子との優しい時間に安らぎを見出そうとした、身勝手な女への罰。
奪うように、縋るように与えられた口付けに、ルフレは抗えなかった。どこからか薔薇の香りがしたのは錯覚だろうか。
雨音が一層激しさを増す中、ひらりと花の残骸が床に舞い落ちる。クロムが無慈悲に踵でそれを踏み潰すのが、快楽でか悲しみでか分からぬ涙に滲む視界の端に映った。
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