手遅れだった幸福の話
深い青を湛えた空はすべてを祝福するかの如く澄み切っていた。初夏の緑の匂いを運ぶ風はイーリスの城下町を優しく吹き抜け、門番の兵の生欠伸をした鼻先をくすぐり、城内の隅々までうららかな日差しが喜ばしい春から、青々とした新緑の盛りである初夏へ移り変わる気配を伝えていく。
だがひとつだけ――滅多に人の立ち入らぬある場所だけは、辺りに満ちる香気に阻まれて爽やかな初夏の兆しは侵入することができなかった。
王の庭、と人は呼ぶ。
その名の通り代々の聖王の為の庭園であるそこは、色とりどりの花々を愛した先代女王エメリナがとりわけ心を砕き王室付きの庭師に手を入れさせて、今では季節ごとに実に多様な花達が艶やかな姿を見せる壮麗な花園となっていた。
もっとも、エメリナが非業の死を遂げた後、聖王の位を継いだ王弟クロムは花を愛でるような繊細な感情は持ち合わせていなかった為、この数年庭師以外は訪れる者もない寂しい場所であったのだが。
しかし、今その王の庭に人の気配があった。手入れに訪れる園丁ではない。彼ならば仕事道具を片手に庭園内を忙しなく動き回る筈だが、気配は四阿にじっと留まって動かない。高く昇った陽の光が四阿を照らすことで影ができた。影の主は一人……否、二人の人物。
ひとりは男。
遠目で見てもよく分かる最上級の布地で織られた、政務を執る際の軽装に身を包むのは言わずと知れたこの国の聖王クロム。
因縁の深い隣国ペレジアとの戦に勝利し、海を超えて侵攻してきたヴァルム帝国軍を退け、そして時の彼方から蘇った邪竜を滅ぼし。必ずや後の世に英雄として語り継がれるであろう数々の偉業を成し遂げた生ける伝説。
では彼がその腕に抱いているのは数年前に婚儀をあげた聖王妃かといえば違った。聖王が自らと同じ色彩の柔らかな髪に指を絡め、このまま溶け合ってひとつになってしまえればと思ってでもいるかの如くきつく抱き竦めているのは、このイーリスにおいてある意味彼よりも華々しく語られるもうひとりの英雄。
戦時中、軍師として聖王を支え続けたルフレだった。
庭園内に他に人影はない。当然だ。聖王の為の庭であるこの場所は、余人が立ち入るには許可がいる。だがもし、何者かが今の光景を見たならば、二人の間に漂う濃密な、決してただの王と軍師とは言い切れぬその空気に眉を顰めたことだろう。
そして確かに、二人はただならぬ関係にあった。
だからこそクロムは空気すら入り込むことを許さないように隙間なく、妻ではない女性を抱き。ルフレはただ瞳を閉じて、己がひた隠しにし続けた秘密をすべて暴き立てた男へと身を預けている。
忙しい政務の合間を縫っての、ほんの僅かな間。そうして密かに訪れたこの四阿で互いの温もりを確かめ合う。口付けは交わさない。きつい抱擁、ただ、それだけ。それ以上は、きっと箍を外してしまうから。
***
王の庭では今を盛りと、様々な色の薔薇がその美しさを誇示するように辺り一面に咲いていた。四阿の周囲も例外ではなく、近くの茂みから伸びた蔦が支柱に絡み付いて、そちらにも華麗な姿を見せている。立ち込める、むせ返るような薔薇の香り。まるでこの四阿だけが世界から隔絶されたようで、ルフレは脳髄を痺れさせる甘い香りと、久々に感じるクロムの体温に酔いしれた。
庭園内を風がそよいでいく。穏やかなものではあったが薔薇の茂みを揺らすのには十分で。がさりと音を立てた傍らの茂みに、それまで陶然とクロムへ身を任せていたルフレの華奢な身体が何かに怯えるようにびくりと跳ねた。押し殺していた息を吐き出し、伏せていた睫毛を持ち上げる。顕になった色素の薄い瞳は不安に揺れていた。ここに来て、どれくらい経っただろう。それほど時は過ぎていない筈だが、あまり長い時間、二人揃って姿を見せないでいると怪しまれてしまう。
そっと、微かに震える手で滑らかな布地に包まれたクロムの厚い胸板を押した。無言で彼は僅かに腕の力を緩める。その深い藍色の瞳に見つめられ、ルフレは一度上げた視線を再び戻してしまった。
「もう……戻りましょう。でないと……」
囁く声音は次第に掠れ、終いには辺りの空気に溶けて消えてしまいそうなほど小さくなってしまう。だが彼には伝わったらしく、やはり黙ってクロムは名残惜しそうにルフレを解放した。急いで距離を置き、背を向ける。
あの夜――抵抗するルフレを無理矢理クロムが組み敷いた夜。拒むべきであったのに、知られてはならなかったのに、懐から転がり出た青い簡素な耳飾り。自分がかつて贈った物だと直ぐに気付いた彼は信じられぬ様子でしばし呆然とし、我に返るとルフレを詰問した。
もう隠し続けることなど不可能で。それでもと強情を張るルフレに彼は焦れ、青い石を掴み寝室の露台へと続く大きな窓を開け放つ。雪は止んでいたとはいえ刺すような冷たい空気が室内に吹き込んだ。冷気に全身を晒しながら、手にしたそれを外へ放り捨てようとしたクロムに、思わずルフレはやめて下さいと縋りついていた。
『どうして……どうしてですか……っ。もういいでしょう……? どうして……わたし、私はっ……ずっと……!』
大粒の涙を零してクロムを詰る。これまでひた隠しにしてきた秘密は、すべて暴き立てられてしまった。一度この世界から消え去ってもなお、血を流し続けるルフレの傷口にクロムは触れてしまったのだ。もう為す術はなかった。力強く抱き寄せる彼の腕に抗えずに――――そうして与えられた口付けを、同時に落とされた苦しげな囁きを、今度は目を閉じて受け入れる。
ずっと、望んでいた。欲していた。けれど赦されないことも知っていた。
それでも。
……誰より何より愛しいひとに求められて、この夜、とうとうルフレの仮面は粉々に砕け散った。
あれから二人はこうして時折、密やかな逢瀬を重ねたが、ルフレが弱々しく拒めばクロムはひどくもどかしげではあったがそれ以上触れることなく解放してくれた。ルフレの中にある怯えと後ろめたさが伝わるのだろうか。
だが今日は、彼に背を向け歩き出そうとすると伸びた二本の腕が絡み付き、背後からルフレを拘束した。思わず、強張る体。咄嗟のことで声も上げられないでいるルフレを抱き竦めたまま、クロムは耳元で低く囁いた。
「……ルフレ」
「……っあ……」
名を、呼ばれる。ただそれだけなのに身体がじんわりと熱を持つ。彼の声音はひどく苦しそうで、けれど同時にこの上もなく艶を帯びて。それで何を求められているのか迷いなく察知できるほどには、ルフレはクロムによって「女」にさせられていた。ルフレの中の女は愛しい男に切に望まれて疼き出す。
「で、も……」
それを押し止めようとする理性が、儚い抵抗として拒絶の言葉を紡がせようとする。震える唇から切なげな吐息と共に発された声。しかしクロムの拘束はむしろ煽られたようにますます強くなってしまう。
「もうどれだけ……お前に触れていないと思ってる」
「……くろむ、さ……ん……」
耳朶に落とされた囁きは熱く、ルフレはただうわ言のように彼の名を呼ぶことしかできない。
確かに、この外界から隔絶されたような庭園での逢瀬ですら片手で数えられるほどなのだ。それ以上の触れ合いともなれば尚更だった。消え入りそうな理性は必死にやめなさいと叫んでいる。もう幾度も、堪えきれなくなったクロムにこうして求められる度こんな関係は終わりにしなくてはならないといつも思うのに、ルフレはついぞ彼を拒絶できたことがなかった。
「……今晩だ……いいな?」
限界ぎりぎりまで抑制された彼の声。けれどその奥に垣間見える熱情が脳髄を侵していく。クロムから与えられるものはすべて毒のようだった。ルフレを狂わせる、甘い甘い毒。もう、彼なしではいられないほどにルフレはクロムのものだった。
ルフレが本気で抵抗すればきっと彼は解放してくれるに違いない。けれどルフレはクロムのまるで荊のように絡み付く腕を振り払うことをしない。否、どうしてもできない。ただ、声もなく喘いで長い睫毛を伏せるだけ。
それが、何よりの彼への返答だった。
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