マークは、物心ついてから一度も母に会ったことがない。
勿論、生まれた時は母のお腹の中から出てきた訳で、その時にはきっと一緒だったのだろうけれど。少なくとも思い出せる範囲の記憶ではまったくない。
父が言うことには、母は身体が弱く、病がちで、部屋からほとんど出られないのだという。
お前に会うと、興奮して病気が悪くなり、また寝込んでしまうかもしれない、と言われれば我儘を通すのも気が咎めた。
だからマークは母に会ったことがない。母がどんな風に微笑うのかも知らないし、どんな声で話すのかも知らない。
ただ父から香ることがある、甘いにおいだけが彼女が実在しているのだと教えてくれる。
何しろ、何故か皆、母のことを自分に話してくれないのだ。その話を持ち出すと、誰もがそそくさと逃げるように去ってしまう。
幼い子供は母が父の愛妾、と呼ばれるべき立場であることも、半ば軟禁同然の状態で父に囲われ、常軌を逸していると噂されるほどの寵愛を受けていることも、何も知らない。
王子と呼ばれているのに、姉である筈の美しい少女に疎まれている理由も、何も。
何も知らず、母を恋しく思う日々だけが、ひたすらに過ぎていく。
***
その時、城の図書室へ行く為にその回廊を通ったのは本当に偶然だった。
一冊の本を大事に大事に抱えて歩いていると、馴染みのある声が聞こえてきて――――すぐ声を掛けようとしたのだけれど、何かがマークの足を踏みとどまらせた。
しばし思案した後に、こっそり柱の陰に隠れて様子を伺う。
声がした方角には、二人の壮年の男性がいた。ひとりはマークもよく知っている人物で、図書室で初めて出会ったのを機に、色々と話をするようになった人だ。
会う度にこの本を読むといい、それが読み終わったなら次はこの本を、と助言をくれて、偶にはこっそりお菓子をくれたりもする。
いつもにこにことした笑みを浮かべていることもあり、すっかり懐いていた。
けれどもう一方の人物は見たことがないので、忙しい父に代わってまめに面倒を見てくれるフレデリクから、『よく知らない方と無闇に親しくしてはなりません』と口を酸っぱくして言い聞かせられていたマークは、少々尻込みしてしまう。
しかし、漏れ聞こえてくる会話の内容から察するに、二人は随分と親しいようだった。
これならそう警戒することもないだろうと、挨拶だけして通りすぎようとしたのだが、その前にマークの知らない男の方が周囲を伺う動作をしてから、にやりと笑った。
それが何故だか嫌な感じがして、隠れたまま耳をそばだてる。
「……ところで、陛下の小鳥はまだ夢の中ですかな」
「いえいえ、夢すら見ておらぬでしょう。また、朝方近くまで啼かされ続けたそうですし」
「ははっ、陛下はなかなか、お盛んでいらっしゃる」
会話の中に父のことが出てきたので驚いたが、同時に首を捻ってしまう。父は、小鳥など飼っていただろうか。
飼っていれば多分マークに見せてくれると思うのに、今まで話に出たことすらなかった。
それに、男たちの話しぶりは、もっと違うことを指しているように感じられた。
一体何なのかは分からないが、もやもやとしたものが胸の中に広がっていく。
そんな中、マークが聞いていることも知らず会話は続いていた。
「ルキナ様がお産まれになるまでは我々も随分と気を揉みましたし、陛下はそういったことには淡白な方なのかと思っておりましたがねえ……」
「よほど具合がよいのでしょう。今や妃殿下のことなど見向きもされぬ。部屋にはたとえ使用人であろうと、ご自分以外の男を近付けさせない寵愛ぶり。陛下をここまで籠絡するとは、なかなかどうして大した小鳥だ」
「しかも、見事印のある男児を産み落としましたからな。身篭っている最中も陛下のご寵愛が深すぎて、子が流れるのではないのかと思いましたが。いやはや、欲のないふりをして、まんまと娘を陛下に娶らせたあの公爵にやっと一泡吹かせてやれそうです」
聞いている内に、胸の中に広がるもやもやはますます大きくなっていった。いっそ、気持ちが悪い。
小鳥の話をしている筈なのに、何故姉のルキナや、彼女の母――けれど自分の母ではない――のことまで出てくるのだろう。それに、印のある男児というのは……。
未だ幼くとも、未来から来たもうひとりの自分のような聡明さを覗かせているマークだ。小鳥というのが何かの暗喩だとそろそろ悟り始めていた。
彼らの下卑た笑みからして、きっといいことではない。そして、これ以上聞いていてはいけないということも。
親戚の子供に接するように優しくしてくれる人が、見たことのない表情で、何かよくないことを話し続けているのを聞くのが耐え切れず、そっと気付かれずに元来た道を戻ろうとした。
図書室には、また時間を置いてから行こうと、そう思って。
しかしその前に、知らない男が次の言葉を続ける方が早かった。
「それにしても……また随分とあの王子を手懐けたものですな、あなたは」
(え……ぼく……?)
今このイーリス城で、王子と呼ばれるべき存在はマークしかいない。男たちの話題が自分に移ったことで、場を離れかけていた足がぴたりと止まる。
本を読むのが好きでも、まだあまり彼の語彙は多くない。だから男が口にした『手懐けた』という言葉の意味がよく分からず、それでも決して良い意味ではないということだけは理解できて、幼い心はすうっと冷えていく。覚えのある感覚だった。
母のように甘えさせてくれていた侍女が、実は王子である自分に気に入られることで、父の覚えをめでたくしようとしていたのだと分かってしまった時。
あるいは姉に当たるルキナに『るきなねえさん』と呼び掛けたら、きつく睨み付けられ姉と呼ぶなと言われた時。
その時と同じように、まだやわらかく、脆い心を守る為の本能的な自己防衛反応が働いているのだと分からぬまでも、聞いては駄目だとどこかから声がするのは感じていた。
もう、既に手遅れだったのだけれど。
「手懐けたとは人聞きの悪い。私はただ、母君から遠ざけられている哀れな王子殿下を、お慰めして差し上げていただけですとも」
「ご自分に都合の良い書物ばかり薦めておいて、何を言うやら」
「ははは、これも投資ですよ。殿下には将来、よき傀儡となって頂かねばなりません。私の考えに近しいものを予めお伝えしておくのは、悪い話ではないでしょう」
笑い合いながら、二人は図書室の方角へ向かって歩み去って行く。耳を塞ぎたいような笑い声も、大人二人分の靴音もすっかり遠ざかりしばらく経って。
それでも、マークはその場から凍りついてしまったように動けなかった。
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