Under the Rose第二部【サイト連載版】 - 18/22

 

 <ルキナ>は走っていた。身に着けているのは剣の稽古や乗馬の時に着る動きやすいものではなくて、生成りの簡素なドレス。その裾を大胆に持ち上げて、幼い頃から慣れ親しんだイーリス城の回廊を軽やかに駆けていく。
 部屋付きの侍女達に見られたらまたお小言を頂戴してしまうだろう。王女たるもの、衆目に足を晒すとは何ごとですかと。

(でも、そんなの構わないわ)

 だって『彼』が帰って来たのだ。その嬉しさに比べたらお小言の一つや二つどうということはない。
 息を弾ませ、頬を紅潮させながら<ルキナ>は走る。退屈な歴史の授業を抜け出して本当によかった。抜け出したことがばれないようこっそり人目を憚って歩いていたら、騎士団長のフレデリクと、そこへ慌てた様子で走ってきた兵士との会話が偶然聞こえてしまったのだ。
 城門に現れた黒い外套を羽織った青髪の青年。名前は出さなかったけれど、<ルキナ>にはすぐに分かった。彼女がまだもっとずっと小さかった頃、この城に住んでいた彼。男の人にしてはやや大きい瞳を優しく細めて笑うマークが、やっと戻って来たのだと。
 だから<ルキナ>は走っている。長い間想い焦がれ続けた彼との再会に胸をときめかせて。
 来客があった際に通常使われる応接間や父の執務室等、主だった場所はほとんど見た。それでもマークどころか、彼と一緒にいると思われる口うるさい騎士団長の姿も見当たらない。ならば仕方ないと、今は城中を見て回っているところだ。
 まさか城門で追い返しはしないだろう。
 確かにマークと、彼の母である女性が姿を消してから父は一時期荒れに荒れて、とても怖くて近寄れなかった。その当時は分からなかったけれど、父とそのルフレという女性は王と軍師というだけでなく、男女の間柄であったらしい。少なくとも、おしゃべりな侍女たちや、社交界に出るようになってから付き合うようになった貴族たちの間では、それがまことしやかに囁かれていた。
 <ルキナ>はそれで、ああ、お母さまがいつも悲しい顔をされていたのはこの所為だったのだわ、とすんなり納得したのだが、王城でのマークの立場は微妙なものかもしれない。それでも、何も告げずに出て行った彼をすぐさま追い返すような真似をするほど、フレデリクはひどい人間ではないと思う。
 そんなことを考えながらひた走っている内に、城内でもとりわけ人気のない一角に足を踏み入れていた。居住区からも、政務関係の部屋がある区画からも離れたこの辺りは普段ほとんど使われていない。その人気のなさが幸いしてか、逢引きに使う人間もいるというのをふと思い出す。

(駄目だわ。くだらないことを考えていないで、早くマークを探さなくちゃ)

 あらかた走り回ったのだから、可能性があるとすればあとはこの辺りだろう。ちょうど今の通路の突き当りは左右に分かれている。どちらに曲がるべきか思案しつつ<ルキナ>は走る速度を緩めた。
 そうして曲がり角に差し掛かったところで、微かに人の話し声がしたのではっと息を呑む。王女らしからぬ格好で駆けているところを見られるのを躊躇ったからではない。漏れ聞こえたその声が、探していた人物のものとよく似ていたからだった。
 逸る心を抑えきれず、一度は緩めた速度を今度はより一層早めて声の聞こえた方へと急ぐ。果たして、角を曲がれば前方には騎士団長と真剣な顔で向かい合う、探し求めていた青年の姿。記憶の中の彼とほとんど相違ないマークに、一際鼓動が高鳴った。
「っ、マーク!!」
 ありったけの声量で叫んだ<ルキナ>の呼び声に、二人はこちらを振り返る。幾度夢に見たか知れない青年の青い瞳が自分を確かに認識したことに、喩えようのない喜びを感じながら<ルキナ>はそのまま勢いを殺さずマークに抱きついた。
 もうすぐ成人間近だとはいえ、細身の少女である<ルキナ>と成年男子の彼とではかなり体格に差がある。それなのに抱きついた彼女を支えきれず、マークは僅かによろめいて数歩後ろに下がった。それでも<ルキナ>はますます強く彼にしがみつく。
「会いたかった。会いたかったわ、マーク。ずっと、ずーっと、会いたかったの!」
「ル……キナ、さん」
 掠れた声で名を呼ばれた。ルキナ、と。それは勿論両親に名付けられた彼女の名前だったが、幼い自分を抱き上げて彼が口にしていたのとはまったく違う響きを含んでいる。彼の中で、腰より下の背丈しかなかった幼女と今の姿が重ならないから戸惑っているのだろうかと思ったが、即座にそれは違うと思い直した。
 彼にルキナと呼ばれるべき人物はあともうひとりだけいる。
 <ルキナ>と同じ名を持つ『姉』。左の目に同じナーガの聖痕を持ち、父譲りで癖のある長い青い髪も、少し薄い唇以外にも顔の細かな造作、爪の形まで何もかもそっくりな。

(ああ……そう、そうね、マーク。マークはお姉さまがお好きだったものね)

 彼の激しい動揺の訳を悟って<ルキナ>はうっそりと微笑んだ。
 <ルキナ>はもうすぐイーリスでの成人年齢に達する。少し差異はあるが、彼が出会った頃の姉とほぼ同じ年だ。かつて恋した女性と寸分違わない姿で現れた少女に、心乱されぬ訳がない。
 そしてそれは、<ルキナ>にとってとても都合のよいことなのだ。幼い頃の仄かな憧れは、十年あまりの歳月を経て確かな恋情に育っていた。マークが未だに姉を想っているのかどうかは分からないが、自分の恋を叶える為ならば彼の想いの残滓ですら利用するつもりだった。

(だってわたしはお姉さまとは違うもの。欲しくて欲しくて堪らないものを諦めてしまった、臆病なお姉さまとは)

 <ルキナ>の欲しいものは今目の前にある。後はそれに手を伸ばすだけだ。自分の望みを諦めて王城を離れ、竜の住む谷へ行ってしまった姉のように躊躇わずに。

「……<ルキナ>様。もうすぐ成人の儀を迎えられる淑女が、そのように軽々しく異性に抱きつくものではありませんよ」
 久々に感じる恋しい相手の温もりに恍惚としていたところで、脇から邪魔な横槍が入った。もう彼女にはマークしか見えていなかったが、彼は声の主である父に仕える騎士と話していたのだった。
 名残惜しかったが仕方がない。フレデリクは一見温厚そうだが根に持つとしつこいのだ。渋々といった体で身を離す。それでようやく、マークの意識も過去から現在へと戻って来たようだ。
「もう、フレデリクったら相変わらず小姑みたい。いいじゃあないの。だってマークに会えて嬉しかったんだもの」
「……相変わらずお転婆さんなんですね、<ルキナ>さんは」
「マークはお淑やかな方が好き? それならもう少し大人しくするわ」
「いいえ、<ルキナ>さんは<ルキナ>さんらしくしていた方がいいと思いますよ」
 上目遣いに見上げて問いかけても、もう激しい動揺は穏やかな青い瞳の奥に隠されて<ルキナ>からは見て取れない。幼い彼女を優しく包み込んでくれた眼差しに懐かしさを感じながら、つまらないわ、と<ルキナ>はむくれた。だがすぐに気を取り直して微笑む。
「ねえマーク、戻って来てくれたのよね。またどこかに行ったりしないでしょう? ずっとお城にいてくれるのでしょう?」
「そう……ですね」
「ふふふ、よかった!」
 綺麗な青に憂いの影が落ちたが返されたのは望んだ答えだった。それを得られたことに満足して、弾む気持ちのままくるりとその場で一回転。眩しそうに目を眇める彼の大きな手を引きながら、<ルキナ>は心の中で遠く別の大陸にいる筈の姉へ語りかけた。

(お姉さま。まだマークがお好きなの? でもそうだとしても関係ないわ。だってお姉さまはマークを追い掛けなかったんですもの。そんなお姉さまに、マークに想われる資格なんてないわ。絶対……渡さない)

 ***

 久しぶりに感じる祖国の風は、甘く濃厚な香りを孕んでいた。そういえば今イーリスは薔薇の季節でしたね、と記憶の底に沈めていた光景を呼び起こされ、痛む胸をそっと抑えたルキナは、唇の端を歪める。

(ずっと、忘れたつもりでいたのに……)

 厳しい自然の中で、竜たちと共に暮らした歳月で薄れたと思ったものが、こうもあっけなく蘇ってしまったことに嗤わずにはいられない。前方を歩くジェロームには伝わらなかっただろうが罪悪感でいたたまれなくなり、思わず俯いてしまう。
 今まで、薔薇の季節に帰郷したことはなかった。無意識に避けていたのかもしれないが、何にせよ今回が初めてだ。
 『彼』と小さな<ルキナ>と過ごした最後の記憶。はしゃぐ幼い声、王の庭に咲き誇っていた美しい薔薇たち。雨。何も告げずに姿を消した青年。残されていた一輪の白い花。
 一度呼び覚まされた記憶は次々とそれに繋がるものまでルキナの前に引き出し、その度に胸は刺されるような痛みを訴えた。
 自らの選択の結果とはいえ苦しいことに変わりはなく、唇をきつく噛み締める。

 彼が――マークが、母のルフレと共にイーリスから姿を消して半年ほど経った頃。未来から来た仲間、ノワールの母である呪術師のサーリャが城に喚ばれた。その彼女を追って引き止めて、ルキナはマークの居場所を問うたのだ。恐らく、ルフレと懇意にしていた彼女、二人がいなくなったのと同時期に国を出て祖国へ帰っていたという彼女ならば知っている筈だと推測して。
 サーリャにあまりよく思われていないのは知っていた。何しろルキナは、父の軍に合流したばかりの頃、ルフレが母から父を奪おうとしているのではないかと勘ぐり、随分ひどい言葉もぶつけてしまった。
 同性としては些か行き過ぎな友情をルフレに抱いているとも言われるサーリャが、友人にそのような仕打ちをした人間にそうやすやすと求める答えを与えてくれるとは思えず。ひたすら言葉を尽くそうとしていたルキナだったが、サーリャはじっとルキナを見つめた後、あるものを手渡してくれたのだった。
 それはルキナの求めるものが記された紙切れで。けれど何もかも捨ててマークを追い掛けて行く覚悟がなければ文字は浮かび上がらないと説明された。その場ですぐ開いてみることはできず、悩みに悩み抜いて――――結局ルキナは、伝承にあるアカネイアの姫のように、すべてを捨てて行くことを選ばなかった。
 父がルフレという女性への恋故に、否それ以上の激しい執着故に変わっていくのを間近で見続けたこと。父に顧みられず気落ちする母、両親の不仲を感じ取って不安にか暗い顔ばかりしていた小さな<ルキナ>のこと。今、数歩先を無言で歩く竜騎士に指輪を渡されたこと。それを受け取らずに返しても、ならば飛竜の谷に来てくれるだけでもいいと言われたこと。
 どれがルキナの心を躊躇わせたのか分からない。もしかしたらこれらのことすべてが、かもしれない。
 どちらにせよ、ジェロームに付いて飛竜の谷へ行くと決めた時にルキナは薔薇の香りを忘れ、代わりに吹き荒ぶ風に交じる乾いた匂い、高地の冷たい空気の匂いを覚えようとした。そしてそれはすっかり馴染んだと思っていたのに。

「ルキナ? どうした、気分でも悪いのか」
 気が付くと俯きがちに歩くルキナを振り返り、ジェロームが横に並んで顔を覗き込んできた。最近の彼は仮面を外している。以前、ヴァルムのロザンヌ領にいる彼の両親の間に生まれたこの時代の<ジェローム>の妹に泣かれたのが堪えたらしい。
 だから涼しげな瞳の奥にある、気遣わしげな色までしっかりと感じ取れてしまい、慌てて何でもありませんと首を振った。
「少し……薔薇の香りがきついな、と思いまして」
「ああ、そうだな。城下でこれなら城はもっとひどそうだ。大丈夫か」
「ええ、すみません。でも、ジェロームは薔薇は好きではなかったのでしたっけ」
「……ああ。薔薇は好かん」
 短く答える彼の調子は吐き捨てるようだった。意外な思いがして思わず目をぱちぱちと瞬く。普段寡黙で、滅多に感情を露わにすることのないジェロームがこういった物言いをするのは珍しい。
 だが戸惑っている間に彼は再び背を向けて歩き始めてしまった。少し小走りになってその後を追う。予告なしの帰還だったがすんなりと通され、ルキナはそれほど時間は経っていないのに懐かしさすら感じる城内をジェロームと共に進んで行く。
 まずは父に帰城の挨拶をしたかったのだが、皆城内のどこに父がいるのか分からないという。何でも、いやに切羽詰まった様子の騎士団長がその前に父を探していたらしいので、きっと彼と一緒だろうとは言われたのだが。
 仕方なしに心当たりのある場所を見て回ろうと、一緒に行くと言ってくれたジェロームと連れ立って歩く。本来なら母にも挨拶をすべきなのだろうが、彼女は数年前に身体を壊して静養の為実家へ帰っていた。おそらく心労の所為だと思う。娘からすれば哀しいことだけれど、婚礼の前には言葉すら交わしたことがなかったこの時代の両親の間には、愛や恋といったものは存在しない。それでも母は、夫となる人との間に良好な関係を築こうとしていたし、ある一時期を除けば父もそれに応えようとしていた。
 しかし父の心が行方知らずになって十年あまり経つ、かつて父の軍師であった女性ただひとりのものであることは明白で。いかに聖痕のある世継ぎを産んだと言っても、王女一人のみしか聖王に与えられなかった母を口さがなく言い立てる貴族も多く、母にとって聖王妃となったことは幸せではなかったのかもしれない。

(どうして……人のこころというのは、ままならないのでしょうね……)

 すべての人が、想う相手にまた想いを返され、皆の祝福を受けて結ばれる。そんな優しい世界は無理なのだろうか。
 そんな物思いに耽りながら歩いていたから、ルキナは前方の曲がり角を曲がって現れた人物にはじめは気が付かなかった。
「お姉さま!」
 すっかり大人びた<ルキナ>の驚いた声に、やっと視線をそちらに向けて――――――時が、止まった。

「まー、く……?」

 ぽつりと強張った唇から漏れ出た名。久しく紡ぐことのなかった青髪の青年の名前を囁いて。彼も青褪めた様子でルキナを見ている。ただルキナだけを。彼の唇が音もなくルキナの名を象った。距離は離れていたのに何故か彼女にはそれが分かった。薔薇の香りが一層強く香ったように感じたのは錯覚だろうか。
 ここは慣れ親しんだ城の筈なのに、ルキナはここがどこなのか今がいつなのか分からなくなった。すべての景色と音が遠ざかって、マークのことしか見えなくなる。選ばなかった。ルキナは彼を選ばなかった。彼女の家族、故郷、友人、それまでの彼女を形作ってきたものすべてと彼を引き換えにはできなかった。だから忘れた。気付かないまま忘れようとしたのに。
 瞬きすら忘れてルキナはマークを見つめ続ける。
 どれくらいの時間そうしていたのかは分からないが、先に息が詰まるほどの静寂の空間へ音を取り戻したのはマークだった。
 二人以外が一様に動きを止め、無言のままの中、彼は深い藍色の瞳をすっと細め、口元を笑みの形にしながら数歩、こちらへ歩み寄る。
「……お久しぶりです、ルキナさん」
「あ……は、い。本当に……」
 平坦な口調で告げられた挨拶に辛うじて頷いた。片方が腕を伸ばしても届かないが、二人で手を合わせようとすれば指先が触れ合う、微妙な距離で立ち止まった彼。実に十年近い間、まったく音沙汰のなかった間柄の人間に向けるにはあまりに素っ気ない言葉。思いもよらない再会にルキナはまだ混乱していた。
 そんな彼女に向かって、マークはまた不思議な表情で微笑んだ。
「まだ、薔薇は好きですか?」
 息苦しさに微かに喘いだ。ああ、この香り。これはどこから香ってくるのだろう。ルキナが纏おうとしたどんな香りも消し去ってしまいそうな、濃密で甘い香りから、自分は逃れたいのか、それとも……。
 どちらともつかぬままルキナは唇をゆっくりと動かそうとしたが、それが音となって空気を震わせる前に広い背中が彼女の視線を遮った。
「今更この城へ何をしに来た」
 ルキナを後ろに隠すようにしたジェロームが前に進み出たのだ。低い声音で問うその響きに含まれるものは、城下を歩いていた時に薔薇は好かんと吐き捨てるように言ったものと同一で。
 そして口を挟もうとしたその時、鋭い視線に表皮に痛みすら覚えて周囲を見渡すと<ルキナ>がこちらを見ていた。初めて見る、こちらを射竦めるような眼差しで。まるで恋敵を嫉視するのと同じだった。
 幸せになって欲しいと願い続けたもうひとりの自分。妹のようにも思っていた彼女にそのような視線を向けられたことで、喉の奥に張り付いたように言葉が出ない。
 あの薔薇が咲き誇る花園で、無邪気な笑みを浮かべて花冠を差し出してくれた幼い<ルキナ>と、優しく笑っていたマークと過ごした時間はあまりに遠い。
 こちらを睨み付けてくる少女からルキナは目を逸らすことができなかった。

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