Under the Rose第二部【サイト連載版】 - 20/22

 袖を頼りなげに、けれど無視できない強さで引かれて<マーク>は我に返った。
 目の前には自分を抱いて涙を溢していた聖王が、何故かより青褪めた、というよりは白過ぎる面を天井へと向けて、力なく横たわっている。
 だがその相貌はこの僅かな時間で一気に齢を重ねており、そのことが彼に先刻までの光景が、昔を思い出していた白昼夢のようなものだと悟らせる。

(ああ、そうです。今は……)

 一瞬だけそっと目を伏せ、また開く。聖王が身を横たえているのはこの国で至尊の地位にある男の為に選びぬかれた最上級の寝台で、寝具も何もかも一級品だがまったく彼を安らがせるのに役立ってはいないようだ。
 視線を脇に流せば、今にも倒れそうな様子の王女が<マーク>に縋らんばかりにしてやっと立っている状態だった。無理もない。父王がこのような状態では、いかに気丈な彼女といえども平静でいるのは難しいだろう。むしろ、寝台に近づいたその時に気を失わなかったのが不思議なほどだ。
 神竜に愛されし聖なる王国は、今偉大な王を失おうとしている。
 それを、聡い彼女はひと目で理解してしまったに違いない。自分の父がもう手の施しようもない病状であることを。
 隣国の脅威から、帝国の侵攻から、邪竜からすらも自国を守り抜いた後、長くイーリスの玉座に在った英雄クロムはひと月前、病に倒れた。突然だった。その時は会議の最中で、議論が白熱する中言葉尻が途切れたと思うと、その場で気を失って倒れたのだ。会議には宰相である<マーク>も出席していたからすぐ対応できたのだが、侍医に診せても原因は不明で、大人しく静養しているほかにできることはないと匙を投げられた。
 その時、自分の心に湧き上がった痛切な衝動を何と表現したらよいのか分からない。
 この城に来たあの日からずっと、王と臣下でありつつも公務を離れれば我が子のように可愛がってくれた人の喪失による悲しみなのか。それとも別の理由によるものなのか。
 それから病状は一進一退を繰り返してきたが、今日、人払いをしてまで寝室にわざわざ<ルキナ>と<マーク>だけが呼ばれて。室内に足を踏み入れた途端、おそらく<ルキナ>よりも早く分かってしまった。

(この人は……もう)

「そこに……いるのは、<ルキナ>か……?」
 寝台の脇で立ち尽くす二人を気配で感じたのか、王はまず公式には唯一の娘、彼が見罷れば聖王の位と神剣を継ぐ王女を呼び、手を差し伸べようとする。なんということはない動作だが、それすら今の王には叶わないらしく、ほんの僅かしか持ち上がらなかった手のひらを、<ルキナ>は駆け寄って握り締めた。
「はい……っ、はい、お父さま! わたしは、<ルキナ>はここにいますっ」
 触れた手の冷たさに絶望したのだろう。<マーク>が少し離れた所で見つめている中、とうとう<ルキナ>は堪え切れずぽろぽろと涙を零している。その雫を拭うこともできず、ただ言葉少なにクロムは色々済まなかったという謝罪と、次の聖王はお前だという譲位の意を告げた。長い時間を掛けてやっと娘が頷くのを見届けると、次に彼は何を言い出すのかと思えば、自分と二人だけにして欲しいと言い出したのだ。
「クロム様、僕はただの一介の宰相です。言葉を交わされるなら僕よりも<ルキナ>様と……」
「いいや、お前に……お前だけに、どうしても頼みが……ある」
 途切れ途切れだがそこに込められた意志は固かった。涙で濡れたうつくしい青い瞳、片方に聖痕を宿した瞳を持つ王女は<マーク>と同じように躊躇っていたが、<マーク>に視線を移ろわせ、やがて静かにかぶりを振って退出する。
 そうしてとうとう二人きりになってしまい、薄暗い室内で佇む<マーク>はいよいよ困惑した。だが近くに来てくれと懇願されてはいつまでも突っ立っている訳にもいかない。ゆっくりと歩み寄って「クロム様」と小さく囁きかけると、どろりと濁った青い瞳がぼんやり声の主を探してか彷徨う。

(……もう、目もほとんど見えていないんですね……)

 おそらく、姿形だけはぼんやりと認識しているのだろうが、はっきり判別できるほどではあるまい。死神がもうすぐこの人を連れて行こうとしている、そんな感覚に襲われて震えずにはいられなかった。
「<マーク>……」
「……はい」
「頼みが、二つ……ある。聞いてくれるか……?」
「僕にできることでしたら、何なりと」
 そう答えつつも、どうか決定的な――自分の半ば確信に近い推測を裏付けるようなことだけは言わないで欲しいと、祈るような気持ちだった。……いいや、それとも自分はこの人に明言して欲しいのだろうか?
 怯えか期待か分からぬままに<マーク>は王の言葉を待つ。
「ひとつは……<ルキナ>のこと、だ」
「大丈夫です。<ルキナ>様のことは、微力ながら僕が補佐させて頂きます。聡明な方ですから、お父上にも負けず劣らずの名君になられるでしょう」
「そう、だな……。お前がいれば……<ルキナ>は大丈夫だろう。だが頼みは……そうではない。<ルキナ>と結婚しないで欲しいと、それを……頼みたいんだ……」
 そして始めに発された請願はある意味予測通りであり、だがそれでも衝撃だった。咄嗟に言葉を返せないでいるとクロムは更に続けた。
「……<ルキナ>、は……お前を好いている。宰相として、実績を示したお前なら……王配の地位も無理な話ではないが……頼む。どんなに<ルキナ>に望まれたとしても……それだけは、それだけは……」
「クロム、様……」
 ようやっと声を捻り出すことができたが、意味のある単語として口にできたのは彼の名前だけだった。
 うつくしい王女<ルキナ>から好意を寄せられていることを、<マーク>はもう随分と前から気付いていた。気付いていて、敢えて知らぬ振りを装ってきたのだ。そうすることが一番いいと、そうしなくてはならないとどこか強迫観念めいたものを感じていた。
 <マーク>をこの城まで連れて来た『父』は、あの後しばらく宰相として留まっていたが<マーク>が成人すると速やかにその地位を自分に譲って隠棲し。その時に聞いてしまったのだ。父と、父と因縁浅からぬ関係であったらしい、王女と同じ名と聖痕を持つ女性の間に交わされた会話を。

 ――――僕は……世界で唯一僕だけが。あなたの手を取ることができない、赦されない男なんですよ。

 その言葉の意味を、始めは理解することができずにいた。だが母も従軍していたというかつての戦に纏わる話を聞くにつれ、城内で密やかに囁き交わされる母についての噂話を耳にするにつれ、どんどん増していく違和感。そして深まるばかりの疑念。
 父は本当に自分の父なのか。そして初めてイーリス城を訪れた際、父とクロムをどこか似ていると感じたこと。
 それらすべてが、王女に敬愛と親愛以外の感情を抱かせることへ警鐘を鳴らしていた。
 理性からの警告を裏付けるような王の言葉は、<マーク>に恐れすら感じさせる。
「……分かり、ました。クロム様の仰るとおりに……」
 せり上がってくる恐怖心から逃れたいあまり、声を震わせ頷いた己の宰相にクロムは目に見えて安堵し深々と息を吐き出した。
 一息に喋り過ぎて苦しいのか、そこでしばし静寂が室内を支配する。自分の血流が耳に煩い。
  頼みは、二つあるとクロムは言った。
  これがひとつめだとするならば、あとひとつは?
  知らず知らず息を詰めるマークの内心を悟ったように、「……あと、ひとつは」と弱々しく、再度王の唇が動いた。
「マーク、ルフレの……耳飾りを持っているか……?」
「ええ。ここに……いつも持っています。お守り、ですから」
「それを……棺の中に、一緒に入れてくれないか」

 ――――この耳飾りは、私の大切な人に貰ったんです。大切な……とても大切なひとに。

 王の声と、遠い遠い記憶の中の母の声とが重なる。 
 傍にいることはできず、けれど母がいつも幸いを祈っていると、ここではないどこか遠くを見つめる眼差しで語った耳飾りの贈り主。ルフレ、と母の名を唇に乗せる時、聖王が垣間見せる他の誰にも示すことのない強い情。初めて邂逅した日、幼い自分を抱いて涙したクロム。互いに半身と呼び合った、その聖王にも何も告げることなくイーリスを出奔したという母。その後に生まれた自分。
 ありとあらゆる事実が、たったひとつの真実を<マーク>に突き付けようとしている。

(ああ……この人は、このひと、は……)

「頼む……<マーク>。俺はあまりに無力で……愚かだった。英雄だと、呼ばれながら……たったひとりの人間すら……幸福にできなかった。間違えてしまった……。だが……許されないことかもしれないが……それでも最後はあいつと一緒に眠りたいんだ……」
「くろむ……さ、ま」
 もう決定的だった。ずっと確かめるのが恐ろしく、<ルキナ>から向けられる感情から目を逸らし続けたのと同様に、意図的に埋もれさせたままにしておいた真実にとうとう自分は触れてしまったのだ。
 触れれば、知ってしまえば苦しむと分かっていたのに。
 けれど今、繰り返し繰り返し頭の中で蘇るのは微笑む母の顔と、やさしい言葉だけだ。
「母、には……かあさんには、ずっと……ずっと待っているひとがいました……。そのひとと一緒にいられるなら ……かあさんも、しあわせ、だと思います……」
 この人に尋ねたいことは山ほどあった。ぶつけたい言葉も。それでも<マーク>が口にしたのはクロムの二つ目の願いに是とする応えだった。母が、そう答えることを望んでいるような気がしたのだ。

 

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