Under the Rose第二部【サイト連載版】 - 1/22

 季節は春から夏へ移り変わろうとしていた。
 もう少しすると雨季が来る。長く降り続く雨によって家の中に閉じこもりがちになってしまうが、その分天の恵みは大地を潤し、作物の豊かな実りを約すだろう。
 だが今はまだ空は青く澄み切っていて、雲もほとんどない晴天だ。この時期、長雨を前にと皆祈りを込めて祭りの準備をする。豊穣を祈願するものであると同時に、豪雨が河川を氾濫させることのないように願う祭り。
 それがこの国――神竜ナーガの加護を受けた、歴史あるイーリス聖王国の今最も大切な行事であった。
 そんな中、祭りの準備でごった返す聖都の通りを歩く二人の人影があった。一人はこの陽気でも黒い外套を羽織り、フードも目深に被っている為、些か周囲より奇異な視線を向けられている。ゆったりとした外套に隠されて性別は分かりづらいが、すらりとした長身から男性と思われた。
 その人物は、不機嫌な様子で何事か喚き立てている幼い子どもの手を引いて、慣れた者でも迷うことがある入り組んだ商業地区の通りを迷いなく進んで行く。あまり見慣れない衣装を纏った子どもが半ば引き摺られるようにして歩いているので、長身の人物の怪しげな風体もあり通りすがる人々は人さらいかと一瞬身構えるのだが、幼い子ども特有の甲高い声で叫ぶ言葉の幾つかに「父さん」という響きが混じっているのを聞くと、一様に安堵してそのまま行ってしまう。おそらく買って欲しいとねだった菓子か玩具かを買い与えられずごねているのだろう、と。
 微笑ましげに見つめられる子どもは深い藍色の髪と瞳をしていた。既に遠い記憶になりつつあるが、繰り返された戦火と終わりの竜の脅威からイーリスを、世界を救った二人の英雄と同じ色彩を。

 ***

「――――っ、父さん! いい加減にしてくれよ、なんなんだよ! なんで母さんとお別れもさせてくれないまま、こんな国に来なくちゃならないんだよ?!」
 一向に振り解くことのできない、自分を掴む大きな手に焦れ一際大きくがなった少年に、ずっと無言だったもう一人はぴたりとその歩みを止める。突然のことだったので、勢い余って幼い身体がぶつかってくるのを難なく受け止めたその人物は宥めるように青い髪を撫ぜるとゆっくり口を開いた。
「……こんな国、っていうのは失礼ですよ<マーク>。ここは昔、か……ルフレが働いていたところなんですから。……ふぅ、いつからこんな乱暴な口をきくようになっちゃったんでしょうね」
 落ち着いた低い声。それさえ聞けばフードを被った人物が男性だと分かる。ルフレ、と女性のものらしき名前を口にする時、彼は一瞬言い淀んだ。
「それくらい知ってるよ! 母さんはあまり教えてくれなかったけど……。軍師として王様に仕えてたんだろ。僕が言いたいのはなんでここに来たのかってこと!」
「ついてくれば分かります。ああ、それと……これからいいと言うまで、僕を『父さん』とは呼ばないように」
「なっ……!」
 本当に何でもないかのように穏やかに告げられた言葉。だがその内容はとても聞き過ごせるものではなかった。再び歩き出した男にまた手を引かれながら、少年は驚愕の声をあげる。ある時、自分と母を置いて旅に出るとだけ言い残し、ふらりといなくなってしまった父。やっと戻って来たかと思えば、<マーク>を物心ついた頃からいた国から半ば無理矢理連れ出して船に乗せ、行き先も何も告げずにこの聖都まで引き摺ってきて。
 ぎり、と<マーク>は唇を噛んだ。相も変わらず振り解けない大きな手のひら。もっとずっと幼かった頃、この手に頭を撫でてもらうのが好きだった。抱き上げて肩車をしてくれるのも。傍で見守るのは優しい母。いつもどこか哀しそうな顔をしていた綺麗なひと。幸せだった記憶。けれど。
「なんで……っ! 一番傍にいて欲しい時にいなかったくせに! 父さんは勝手だっ、母さんは……母さんはずっと父さんのことを待ってたのに!!」
 視界が滲んで何かが溢れそうになるのを、この人の前でだけは絶対に嫌だと必死に堪える。思い出すのは母のこと。日に日に痩せていくのに自分のことより<マーク>のことばかり気遣って。そして、どこか遠くを見ていることが増えた。
 一度たりとも口には出さなかったけれど、きっと待っているのだと思った。それなのに。来なかった。どんなに願ってもこの人は来なかった。もっと早く帰って来てくれさえいえば、もしかしたら違う結末が待っていたかもしれないのに!
「……ルフレが待っていたのは、僕じゃありませんよ」
 だが必死に叫ぶ<マーク>にも、父は少しも揺らがなかった。ただ静かに、静かに囁いた声音は硬く、氷を吐くように冷たい。その冷たさは<マーク>の口を噤ませるのに十分過ぎるほどだ。

(なんなんだよ……!)

 訳が分からない。
 何故、父は自分をこの国に連れて来たのか。
 何故、父と呼ぶなと言うのか。
 何故――――――。

 広い背中を睨み付ける。そうでもしないと、こみ上げてくるのもを抑えることができそうになかった。

 ***

 ……視線が痛い。
 久々に握った手は最後に別れた時より随分大きくなっていたけれど、それでもまだ子どものものだ。だが背中に突き刺さる視線はマークがこれから会いに行こうとしている人物を、生涯許すまいと決めたあの月のない夜、その時抱いた怒りと悲しみ、それに諦念がないまぜになった感情を思い出させる。

(これが……因果は巡る、というやつなんでしょうかね)

 背後の少年に気付かれないようマークはそっと息を吐いた。今わの際まで母の傍に帰れなかったことを<マーク>が恨んでいるのは、かつて三人で暮らしていた小さな屋敷に足を踏み入れて顔を合わせた時から分かっていた。
 だが年を経るごとに、鏡に映る自分の顔の中にどんどんあの人の面影を見つけてしまうようになって、もう母の傍にいられないと悟ったのだ。一緒にいたら、この顔を見る度に母は「彼」を思い出すだろう。それはマークにとって本意ではなかった。母を苦しめるのは。
 だから屋敷を出たのだが、母と二人で作り上げた偽りの「家族」を生まれた時から信じきっていた少年には捨てられたのだとしか思えなかったに違いない。小さい頃は「両親」に倣って丁寧な言葉遣いをしていたのに、再会した時には些か乱暴な口調になっていたのもその所為だろう。それはよく分かっているから、何も言わない。
 再び聖王国へ足を踏み入れたのは、ただただ、母の最後の願いを叶える為。それだけだ。それ以外のことは考えてはいけない。そう、何も。
「……ん?」
 商業地区もこの辺りになると人通りは大分少ない。立ち並ぶのは自らの商才をもってのし上がった大商人達の屋敷だ。己の財力を誇示する為か、各家ともに通りから眺められる位置に贅を凝らした庭を作り上げている。広さはさほどでもないが珍しい品種や、噴水仕掛け等、没落した貴族では敵わないかもしれない。それくらい見事な庭があちこちにある。
 だがマークが立ち止まったのは庭の作りの見事さに目を惹かれた訳ではない。未だ鮮明な、かつてこの国で暮らしていた時の記憶を呼び起こす、ある香りがふわりと漂ったからだった。
「どうしたんだよ」
 再度歩みを止めたマークに、背後から不審げな声がする。もう険悪さは隠しきれない。仕方のないことだが、とうさん、とうさんと慕ってくれていた幼い頃の笑顔を覚えているだけにやはり胸は痛んだ。
「いえ……」
 口ではそう答えながらも、視線はその香りの源を求めて彷徨ってしまう。そうして、他の屋敷に比べれば小振りな、けれど庭だけはどこよりも美しく整えられた屋敷に吸い寄せられた。
 白、赤、薄桃色、クリーム色、淡い紫。
 品種も色も様々だがその庭に咲き誇るのはあるひとつの花だった。その茂みの下に、マークは赦されない秘密を埋めてイーリスを出た。微笑む彼女。絹糸のような青い髪。暖かな日差しとはしゃぐ幼い子ども。

「――――ああ……イーリスは今、薔薇の季節でしたっけ」

 唇は音もなくとある名を象ったが、代わりに呟いたのは別のことだった。ずっとこの国を離れていたから忘れていた。雨季に入る前、イーリスでは薔薇が次々と咲き始める。けれど今、まさに満開のこの時期、母が愛した国へ辿り着いたことに何か運命的なものを感じた。
 かぶりを振り、再び歩き始める。目指すのは聖都の何処からでも視界に収めることができる壮麗な建物。開祖より千の時を経てそれでもなお色褪せぬあの場所には、母が最後まで幸せを祈り続けた男がいる。
 世界を救った神剣の英雄。そう人々に讃えられながら、己が半身と呼んだ女性ひとり幸福にできず生涯棘の苦しみを味あわせた男が。

 ――――恨まないでください、マーク。

 母はそう言って微笑っていたけれど。

(でも母さん……。僕は、あの人のことが……許せないんです)

 ***

 平和な世にあって門番というのは得てして暇なものである。まして聖王の住まう居城、このイーリス城は前王のエメリナの在位時、隣国ペレジアによって急襲されたのを最後に一度も他国の軍勢の侵入を許したことはない。もとより聖都が戦場になることはそれ以降なかったので当然ではあるのだが、時折紹介状を持って訪れる商人やら、巡回に出かける騎士、伝令達を右から左へ通すだけとあっては、衛兵が力を抜きがちなのも致し方ないかもしれない。
 王に幼い頃から側近く使えている騎士団長はそんな状況を改善しようと兵達を叱咤激励するのだが、兎にも角にも危機感がないのであまり効果はない。交代時間までただ立っているだけの暇な仕事、それが門番に対して衛兵達が抱く印象であった。
 それはこの日昼過ぎから交代で城門に立ち始めたアトンも同じで、昼から幾ばくも経たない内に早く次の交代時間がこないかと考え始める始末。手持ち無沙汰なこの状況を愚痴り合える相手と組めていればまだ違うというのに、よりにもよって今日の相棒は堅物で融通がきかないと有名なワットなのだ。直立不動な体勢で持ち場に立ち、道行く人々の中に怪しい者がいないか過剰なまでに目を光らせる彼を見ていると、今にも厄介事を引き起こしそうで溜息の一つや二つや三つや四つ、吐きたくもなろうというものだ。
「おい、そこのお前!」
 鋭く飛んだ相棒の声に、一瞬遠いところへやっていた意識をアトンは慌てて現実に引き戻した。見れば城門をまるで自分の家に入るような気軽さで通り抜けようとした人物を、ワットが阻んだところだった。今日は快晴で、上着を羽織っていると暑いくらいなのに、その男か女か分からない人物は黒い外套を纏い、顔があまり見えないよう目深にフードを被っている。連れの子どもは顔こそ出しているが、格好は見慣れぬもので、確かに怪しいと言えなくもない。
「初めて見る顔だな。城に用があるのか」
「ええ、まあ」
 答える声で黒い外套の人物が男だと認識できた。しかし強面のワットに凄まれても飄々とした口ぶりなのは恐れ入る。同僚の自分でも怖いと思うことがあるのに、長身の男は子どもの手を引いて平然としていた。
「通行証か何か持っているのか」
「いいえ、何も。でも通してもらえませんか、遠いところから知り合いに会いに来たんです」
「それではいどうぞと通す馬鹿がどこにいる! 第一、そのフードは何だ。顔を見せろ怪しい奴め!」
「ワット、落ち着けって!」
 短気なワットが早速激高したので、問題が大きくなる前にと間に割り込んで宥める。どうして俺がこんなことを、と内心嘆いていると、しばしの沈黙の後、男は「……仕方ないですね」と嘆息してフードの縁に手を掛けた。ゆっくりと顕になる青い髪。真っ直ぐに人を射抜くような瞳と、柔和なところもあるが、引き締まって秀麗な面持ち。何処かで見たことがあるな、とふとアトンは思ったが、浮かびかけた面影はすぐに消えてしまって掴めなかった。
 フードを外した男は剣呑な色をはらんだ眼差しでひたとこちらを見据えると、何かを努めて押し殺そうとしているような表面上だけは平坦な声で、告げる。

「聖王陛下に伝えて頂けますか。……ルフレの息子が戻って来た、と」

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!