王の愛、人の愛
ガイアが差し出したそれを見て、クロムは始め己の目が信じられなかった。
「なぜ……どうして、お前がそれを」
引き攣れた喉の奥から絞り出した声音は掠れて震えている。彼の視線の先にあるのは、待ち望んだ情報を持ち帰った密偵の手のひら。否、正確には彼がこちらへよく見ろと言わんばかりに差し出している耳飾り。青い石が付いたその飾りには見覚えがあった。
見間違えようもない。かつて、姉が存命でまだクロムが王子であった時分。彼女――ルフレと出逢ったばかりの頃、何かの折に共に街へ下りて。露店を冷やかしていると、普段は装飾品にさほど興味を持たない風であったルフレがじっと魅入っているのに気付き、日頃世話になっている礼だと言って半ば無理矢理贈ったものだ。
今思えば、自分と同じ色合いの飾りを身に着けて欲しいと無意識に願ってしまうほど、その時既に彼女に惹かれていたのだろう。だがクロムはルフレをまだ気の合う仲間、相棒だとしか認識しておらず。だから彼女がそれを一度も身に着けないまま時が過ぎても、自身も戦場に出る軍師である彼女には持て余してしまう贈り物だったかと、少し残念に思っただけだった。
そしてルフレがこの世界から一度消えて、己が抱く本当の想いに気付いてからその存在を思い出したが、どうせどこかへいってしまっただろうと考えていた。数年も前に、恋人でもない男から贈られた装飾品など大事に大事に持っている筈がない。
しかし今、目の前にあるのは片方だけだが確かにあの時の耳飾りだ。その事実がクロムを混乱させる。
「マークから預かった。お前にこれが何か分かるか、訊いてみてくれ、ってな」
「マークが……?」
イーリスとペレジアとの国境沿いで騒ぎを起こした、ペレジア国内での反イーリス派の一党の対処の為聖都を離れている間、ルフレと共にこのイーリス城から消えてしまった彼女の息子の名に、クロムは思わず目を瞬く。
何故、ここでマークの名が出るのだろう。ますます困惑を深めるクロムに、ガイアは苦笑しながら続けた。
「お前は、これが何なのか分かるんだな?」
「当たり前だ! これは俺が、俺がルフレに……っ!」
「あー、説明はいい。分かるんなら次はこいつを読んでくれ」
声を荒げかけたところを片手で制され、宥められる。ほらよ、と手渡されたのは真白い封筒だった。持ってみると僅かに厚みがあったから、中に何か入っているのだろう。
「……手紙?」
「ああ。マークからだ。お前がもし、この耳飾りが何なのか分かったようならそいつを渡してくれとさ。まずは読んでみろよ」
促され、王宮で公式文書にされているような厳重なものではない、簡易な封印を破って封筒を開けた。中から出てきたのは折りたたまれた便箋で、開いてみると「親愛なる聖王陛下へ」という見慣れた文字が視界に飛び込んできた。僅かに乱れた筆致ではあるが間違いない。ルフレが戻るまでの数年、彼女の代わりを務めてもらっていたから分かる。これはマークの字だ。
そしてクロムは恐る恐るマークからの手紙を読み始めた。彼は未だに知らないが、血を分けた正真正銘自分の息子である青年からの手紙を。
『親愛なる聖王陛下。
あなたが今、この手紙を読んでいるということは、ガイアさんに渡した耳飾りがいったいどういうものなのか、分かって下さっているということでよいのでしょうか。……そうであることを、願っています。
さて、あなたはとても混乱されていることでしょう。僕の推測が正しければ、その耳飾りはかつてあなたが母に贈ったものだ。それを何故、僕がガイアさんに託すことができたのか。疑問は尽きないと思います。けれど、単刀直入に説明しましょう。あまり長いこと灯りを付けて書きものをしていては、母も……起きてしまいますから。
僕がそれをガイアさんに託せた理由は簡単です。母は今までずっとあなたから贈られた耳飾りを持っていたのです。大切に大切に。イーリスを出てからは守り袋にまで入れて。
……驚いていますか? 実のところ、僕もこのことを知ったのはごく最近でした。おそらく、追ってきたガイアさんから逃げる途中、乗っていた馬車がひどく揺れたので、その時に片方だけが地面に落ちてしまったのだと思います。もう片方は、今でも母が持っていますよ。もっとも、母は僕がその存在を知ったことを、気付いていないでしょうけれど。
ああ、そうでした。あなたは当然疑問に思いますよね。ならば何故母はあなたから贈られたものを後生大事に持っているのか。これも、理由は至極、明快単純なことなのです。
母はあなたを愛しています。おそらく、初めて逢った時からずっと。
信じられないかもしれませんが、ありとあらゆる神々に誓って本当です。母はあなたにずっと恋していた。そして今もどうしようもなく恋焦がれているのです。
母は言葉ではあなたを拒絶したかもしれません。でも、それはすべてあなたの為でした。あなたには既に妻も娘もいる身。しかも市井の人間ではなく、イーリス聖王国とそこに住まうすべての民を統べる聖王です。王の愛は、ただひとりの人間にではなく、あまねく臣下に、民に、イーリスという大地に平等に注がれるべきだと考えた母は、自分の想いを殺すことを選んだのです。
……誰よりも、あなたを愛しているからこそ。あなたの幸福を祈って。
けれど人の想いがそう簡単に消せよう筈もありません。遠くであなたの幸いを祈って生きていこうとしながら、それでもまだ母は心の奥底であなたを求めている。
聖王陛下。いいえ、クロム様。これからお願いすることは、僕の勝手な判断に基づいたものです。母は知りません。知れば、また自分のほんとうの望みから母は目を逸らそうとするでしょう。あなたの幸せの為に。あなたの家族の為に。聖王国に暮らす民すべての為に。
けれど僕にとっては母の幸福が何より大切です。ひとつの国が混迷を極めようと、英雄を失って荒れようと知ったことではない。
ええ、そうです。僕はあなたに請い願います。クロム様、イーリスを捨てて下さい。そして玉座を、家族を、仲間を、民を捨てて下さい。母の為にすべてを。今までのあなたを形作ってきたものすべてを。
あなたが多くのものを背負っていることは知っています。けれどどうか、どうか母を選んで下さい。
僕は母にしあわせになって欲しい。それには悔しいですが僕では駄目なんです。母のしあわせには、あなたがどうしても必要なんです。母を幸福にして下さい。お願いです、クロム様。どうか、どうか――――――――』
この手紙を書いた主の感情の高ぶりを表わすように、最後に近付くにつれ筆跡の乱れは次第に大きくなり、終わりの頃はほとんど殴り書きのようだった。彼の字がここまで乱れているのはきっと初めてだろう。だがクロムにはそんなことを分析している余裕などなく、ただただ手紙の内容から受けたあまりの衝撃に力なく床へ崩れ落ちた。
「っ、おい、クロム?!」
影のように周囲と同化して佇んでいたガイアが、慌てて力の抜けた身体を支える。手紙の内容を、この男は知っていたのだろうか。しかし震える唇は意味のない音ばかりを漏らし、一向に意味のある言葉を紡ぎ出さない。
ルフレはずっとクロムを想っていたのだと、彼女の息子はこの手紙に書き綴ってきた。嘘だ、そんなことはありえないと執政者として、王としてのクロムはそれを否定しにかかる。あの冬の夜の冷えた眼差し、乾いた言葉。一片の迷いもなくクロムを拒絶した彼女。その中に潜んでいた怯え。誰より信頼していた相手に裏切られた絶望。
けれど、同時に思い起こした情景があった。ルフレがイーリスを去った少し前、日中彼女が倒れたことがあったのだ。ひどい顔色で、何か悪い病なのかとすぐに王城に長く仕える医師を呼びにやった。あいにく謁見の予定が入っていたので後を医師に任せて――けれどどうしても気になり、謁見が済むやその後の諸々をフレデリクに押し付け、着替えもせず彼女のところまで走った。
その時ルフレはもう目覚めていて、だが頼りなげで今にも消えてしまいそうに見えた。あの夜からずっと、一度拒絶されても抑えきれず、胸の内で燻る熱を持て余すクロムへの牽制か、彼女は頑なにクロムへ一線を引いた態度で接していたのに。その日の彼女はあまりに弱々しく、どこか……どこか、クロムが触れるのを待っているようでもあった。
すぐそれは怯えの表情にすり替わってしまい、己の浅ましい願望が見せた幻だと思っていたのだが。もし、もしあの時の表情が彼女の真実だとしたら。クロムを拒む仮面の下で、ずっとクロムを想っていてくれていたのだとしたら。そして今もクロムを求めてくれているというのなら。
「――――どうするんだ?」
いつの間にか身体の震えは止まっていた。それを察したのだろう、ガイアは支えていた腕を離し、正面に回ってクロムへ手を差し伸べた。ありがたく掴まって危なげなく立ち上がりながら、クロムは黒装束の男を見据えて、問い掛けへの返答をきっぱりと口にする。
「ルフレのところへ行く。案内してくれるか、ガイア」
ほんの僅かの躊躇いすらなく放たれた答えに、目の前の男は微かに目を瞠った。手紙の内容を事前にガイアが知っていたのかは分からないが、つい先刻手紙を手にしたままクロムが座り込んでしまったのを支えてくれたのだから、その時に内容はおおよそ見えただろう。だからこその問いかけなのだと思う。
クロムの中には既に他の選択肢は存在しなかったのだが、この密偵にとっては意外であったらしい。「迷わないのか」と探るように再び問われ、やはり少しも躊躇せず「ああ、迷わない」と答えるとガイアはその瞳を揺らした。更に畳み掛けるように言葉を継ぐ。
「あいつが……ルフレが俺を望んでくれるなら俺は迷ったりしない」
クロムが今まで迷い、苦しんだのは、ひとえに愛した女性が、自分のことをまた愛し返してはくれないというその一点に尽きた。
勿論、とうの昔に妻を迎え、子まで成した身で、妻ではない女性を求める不道徳もある。だが突き詰めればクロムにとって何より誰より大切なのはルフレで、どんなに罵られようと彼女が自分を求めてくれているというのなら、他のすべてが些事になってしまうのだ。
「そう、か……。家族よりも、お前のことを王として求める民衆よりも、この国よりも、お前はあいつを選ぶんだな」
「ああ。俺は王としては失格だ。人としても、身勝手で最低な男だ。だが……俺はルフレを失いたくない。他のすべてと引き換えにしても」
クロムの中には二人の自分がいる。王族としての自分と、ただの一個人としての自分。
王族としてのクロムは馬鹿なことをと、必死に思いとどまらせるよう何事か喚き立てている。だがもう『クロム』にとっては雑音にしか聞こえない。愚王の謗りを受けようとも、もうルフレと共に行く未来しか彼の目には映らない。
聖王位を捨てるということは、未だ幼い娘のルキナが女王として立つということだ。聖王家直系の王族は彼とルキナ、それにリズと彼女の息子だけ。リズは既に他国へ嫁いでしまったのだから消去法としてそうなる。幼い女王の即位は、国を不安定な政争の渦に突き落とすかもしれない。
しかしそれすら、少しもクロムの心を祖国へ押し留める要因にはならないのだから、自分は王として欠陥品なのだ。だが彼女と――ルフレと共にいることができれば、人として少しはましになるだろう。
「……なあ、クロム。ならもう、お前は俺の雇い主じゃなくなる訳だな?」
「あ、ああ。そうだな。もう、俺の命令に従う必要はないが……いや、だがルフレのところまでは案内してもらわないと困る。だからその、これは……お願い、というやつなのか?」
告げられた内容に、しどろもどろになって弁解する元・雇い主をガイアは静かに見つめていた。彼が何も言わないのでクロムは焦りだす。次の新月の晩、港町の波止場で待っていると追伸でマークは記していたが、果たしてどこの港町やらさっぱり検討がつかない。新月までもう間がないから、ひとつひとつ確かめてゆく訳にもいかない。ガイアが案内してくれなければ手詰まりなのだ。
いっそ土下座も厭わぬ覚悟で再び口を開こうとしたクロムだったが、「なら、言いたいことを言わせてもらうぜ」との言葉で遮ったガイアが繰り出したのは、言葉ではなく鋭い拳の一撃だった。予想だにしていなかった攻撃をまともにくらい、鈍い音を立てて未だこの国の至尊の座にある筈の男は床に転がった。
「この、大馬鹿野郎っ!!遅過ぎるんだよお前は!!!」
耳をつんざくような大音量でがなられ、頬の痛みと合わせて頭ががんがんと痛んで苦悶の声を漏らす。しかしガイアは容赦なく倒れたクロムの襟首を掴んで揺さぶった。
「選ぶんならもっと早く選びやがれこの馬鹿! あんなに半身だなんだとあいつにべた惚れだったくせに、ちっとも気付かずに他の女と結婚してガキまでこさえちまって! そのくせあいつのことは手放さない! あいつがどんな気持ちでずっとお前の軍師をやってたか分かるか?!」
「が、ガイア……手を……痛い、ぞ……っ!」
「黙って聞いてろど阿呆っ! あいつが消えて、やっと自分の気持ちに気付いたんだろうが、諦めた筈の男から今更愛してるなんぞと言われることが、どんなに残酷か! あいつが今まで苦しんできたことに比べればこんなの可愛いもんだ、甘んじて受けろ!!」
ひとしきり罵ったところで気が済んだのか、呼吸を整えた後は案外けろりとしてガイアはクロムを長椅子に引っ張りあげて座らせた。隠密行動が専門の筈なのに、意外にも強い力で元の雇い主を殴り飛ばした密偵は何かを吹っ切ったような顔で笑う。
「いやあ、爽快、爽快。ずっとお前には鬱憤が溜まってたからな。これですっきりしたぜ。お、綺麗に腫れてるな」
「っ痛ぅ……! おい、触るな。本当に痛いんだぞ……っ」
まったく何なんだ、いったい。そう胸中で抗議しながら頬の腫れ具合を確かめようと鏡を探す。だが自分の身だしなみに、普段さほど気を配らない彼の部屋にそう都合よく目的のものがある筈なく、きょろきょろと視線を彷徨わせるクロムの肩を、今度は触れるような繊細さでガイアが叩いた。
「なあ、クロム」
「な、なんだ……?!」
「……手を放すなよ」
また殴られるのかと咄嗟に身構えた彼に与えられたのは、今度は拳ではなく不可思議な視線だった。怒り、ではない。悲しみとも違う。何かを慈しむような、けれどそれだけではなく優しさと切なさとが交じり合った眼差し。
その眼差しと、激しく揺さぶられながらガイアが叫んでいた言葉の内容を反芻し――クロムはまさか、とはっとして男を見た。
「ガイア、お前――――」
「ん?」
「お前も、その……」
そこで言い淀むとガイアはまた笑った。今度は切なげなものではなく、悪戯めいた茶目っ気のある表情で。
「あいつには、内緒にしておいてくれ。昔の話だ。俺はもう、奥さんと子ども一筋だからな」
「ガイア……」
「俺はいったん戻る。まさか、聖王様が白昼堂々国を出ていく訳にもいかないだろう? 夜にまた落ち合おう。それまで、頬の腫れは冷やしておくんだな」
何も言えないでいるクロムを残して、ガイアはすたすたと歩き出し扉の向こうへと消えて行った。最後に片手を軽く上げたのは、退出の挨拶のつもりだろうか。
部屋にひとりきりになると、クロムはもう一度マークが書き綴った手紙を手に取った。
――――あなたが多くのものを背負っていることは知っています。けれどどうか、どうか母を選んで下さい。
震える筆跡。マークはどんな思いでこの手紙を書いたのだろう。記憶も戻らず、ただただ母であるルフレのことだけを頼りにしてきた彼。母にしあわせになって欲しいのだと懇願するように綴った彼は。
(ああ……大丈夫だ。大丈夫だ、マーク。俺は今度こそ――――間違えない)
そしてクロムは剣帯ごと腰に吊るしたものを外す。午後の日差しが差し込み、卓の上へと置いたファルシオンを美しく煌めかせた。彼の死地を幾度も救ってくれた愛剣。初代聖王から千年あまり、脈々と聖王家に受け継がれてきたその剣は、成人した年、姉に手ずから与えられたものだ。
姉の理想を守る為にその剣を振るってきた。彼女が戦場で我が身を犠牲にしてからは、彼女の理想を引き継ぐ為に。民の為、国の為働く、王族としてのクロムの根幹を形作っていたのはこのファルシオン。
だがもう、王であることを捨てた彼には必要のないものだ。最後にその美しさを刻み付けるように、いつまでもいつまでもクロムは神竜の力が凝った剣を見つめ続けた。
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