その日、温暖な気候のイーリスでは珍しく雪が降った。
重苦しい曇天からはらはらと、すべてを覆い隠すように舞ったその白さを覚えている。
確かに、覚えている。
***
きっかけは一体何だったのか。
思い返してみても判然としない。あまりにも傷付きすぎた心が、本能的に逃避を図ったのかもしれない。
何にせよ、冬も深まったある日の晩。昼の間ずっと降り続いていた雪は止み。代わりにルフレの鬱屈とした心境には不釣合いの、美しい満月が澄んだ夜空に浮かんでいた。そうして夜着のまま、暖炉に火も入れずに寝付けないでぼんやりと月を眺めながら、唐突にもう耐えられないと思ったのだ。
これ以上、彼――クロムの傍にいたら自分は壊れてしまう。
そう思うと、後は素早かった。手早く旅装を引っ張りだし、纏った夜着を脱ぎ捨て着替える。何かに追われるように、焦燥すら浮かべた表情で必要な物を荷袋に詰めていく。
マリアベルに貰った紅茶の茶葉、リズにお揃いねと言って渡されたリボン。ミリエルに手に入れて貰った貴重な本。サーリャの手作りだというお守り。ノノが宝物を分けてあげると言ってくれた石。他にも仲間達との思い出が詰まった物をひとつひとつ手に取りながら、けれどそのすべてをルフレは袋には詰めず、抽斗に仕舞い込んだ。
皆がこうしてルフレのことを思ってくれたから、帰って来られた。
それなのに、そんな絆を再び切り捨てていこうとする自分に、これらの物は相応しくない。
じくじくと痛む胸を無視して路銀と、本当に必要最低限なものだけを残す。だが最後に残った青い耳飾りに、ルフレは自嘲めいた笑みを浮かべて冷えた床に座り込んだ。
「本当に……度し難いですね、私も」
ルフレの白い手のひらの中で、クロムと同じ色彩の青い石がかちゃりと微かな音を立てる。装飾品でありながら、今まで身に着けることもせず、誰にも見せずずっと抽斗の奥深く眠らせていた耳飾り。
それは、まだ自警団に入ったばかりの頃、城下をクロムに案内されていた時、ふと何気なく目を止めたこの耳飾りを、欲しがっているのだと勘違いした彼に買って貰った物だ。決して強請ったわけではと遠慮しようとするルフレに、クロムは青い双眸を優しく緩めて、いつも働き過ぎな自分への贈り物だと言って。
『もっといいやつは、恋人ができたら買って貰うんだな』
そう軽口を叩く彼に強く惹かれながらも、その時ルフレはまだ彼に抱く想いを自覚できずにいて。だから結局は笑顔で青い、彼と同じ色の石を受け取った。
居場所、仲間、誰かを大切に思う気持ち。
様々なものをクロムは記憶のない、空っぽなルフレに与えたが、形あるものを贈られたのはそれが最初で最後。
やがて彼への恋心に気付いた時、同時にルフレは誰にも知られないままこの恋を終わらせてしまおうとした。その時エメリナは既に亡くなっていて、ファルシオンの遣い手たる彼が聖王の位を継ぐことは決定事項となっていた。そんなクロムと並び立つのに、自分は相応しくない。
繰り返し見る悪夢の残滓が――その時はまだ夢の内容をはっきりと認識できていたわけではなかったのだが――彼を想うことは赦されないとルフレに告げていたのだ。
けれど箱の中、幾重にも鎖で縛り、鍵を掛けて想いを閉じ込めても、この耳飾りだけは捨てられなかった。
「くろむ、さん……」
掠れた小さな声で、ルフレは彼の名を呼ぶ。
彼女の王、主、相棒、そして戦友。
人生の伴侶として別の女性を選びながら、それでもなお傍にいろと、無慈悲に残酷に要求する彼女の半身。
「……ごめんなさい、わたし……もう……」
その先に続く言葉を、震える唇でルフレが紡ぎ出そうとした瞬間。
……扉が、小さな音を立てて叩かれた。
「……っ、マーク……?」
今にも溢れそうだった大粒の雫を乱暴に袖で拭うと、数日前と同じように息子が来たのかと思い扉の向こうへ声を掛ける。応える声はない。だがこんな夜更けに、他に彼女を訪ねてくる人物は他に心当たりがなかった。荷物の中に耳飾りを押し込み、扉へと向かう。すべて、夜半の来訪者がマークだと半ば思い込んでいたからなのだが……せめて今にも旅立つ寸前という荷物を隠していれば、違った結果があったかもしれない。
躊躇せず扉を開く。数日前、我が子の訪いを受けた時と同じ状況。暗い廊下に浮かぶ長身の影も同じ。そして。
「……え? クロム……さん……?」
そして今度は、見間違いではなかった。
確かに扉の向こうに立っていたのは、今まさにルフレが想っていた男の姿。
執務の際の服装ではなく、平服だ。きっと、もう休むのだろう。それなのに、何故ルフレを訪ねてきたのか分からなかった。
しかもこんな夜も遅い時分に、異性の部屋の扉を叩くのは賢明な行為とは言えない。既に妻子ある身の彼なら尚更だ。咎めようと口を開いて――けれどその前に、ルフレの旅装に目を留めたクロムの深い藍色の双眸がすっと細められたのが宵闇の中でもはっきり認識できた。その表情に気圧されたように、何も言えなくなってしまう。
「……どうしたんだ、その格好」
耳に届いたその声はむしろ静かなくらいなのに、ルフレは冷たい手で心臓をぎゅっと掴まれたように身を震わせた。思わず逃れようとしたルフレの手を取り、クロムは強引に室内へと身体を滑り込ませる。ぱたりと音を立てて扉が閉まった。
「あ、あの、クロムさん……っ」
掴まれた手を振りほどこうとしていたルフレは、クロムの視線の先にある物に気付いてざあっと青褪める。
あまりにも綺麗に片付けられた室内。
卓の上で、今にも持ち主に取り上げられるのを待っている荷袋。
そして、この旅装。
それらが指し示すのは疑いようもなく歴然としたひとつの事実。
「こ、これはその……イーリスも大分落ち着いてきましたし、私も旅に出ようかと……」
ルフレの唇は勝手に言葉を紡ぎ出す。心臓がどくどくと早鐘を打っていた。ゆっくりと、握ったルフレの手を解放し、クロムが振り向く。
その時、室内に差し込む月の光がふいに遮られた。窓の外に目を遣らずとも、雲が月を覆い隠したのだと分かる。その所為で、クロムの表情は見えない。けれど鳴り止まない激しい鼓動が、逃げろと伝えてくる。
おかしなことだった。相手はクロムだ。常に戦場では背中を預け合い、敵を屠り、戦場の外では政治や外交は苦手だと弱り果てる彼をできる限りの力で支えた。代わりに、ルフレのことを守ったのは彼だ。
その彼に、身の危険を感じるなんて。
けれど――――――――。
「また……俺を置いていくのか」
その低い低い声音に、ぞくりと皮膚が粟立った。何故かは分からない。けれどルフレは、自分が超えてはならない境界を超えてしまったことを知った。
――駄目。
頭の中で誰かが警鐘を鳴らす。
咄嗟にルフレは、彼から距離を置こうと後退った。一歩、そしてもう一歩と後退しようとした足が、卓の端に引っ掛かってもつれ身体がぐらりと傾ぐ。
衝撃を覚悟して思わず目を瞑ったルフレだったが、腕を伸ばしたクロムが、ルフレの細い腰を抱き寄せたので床に倒れこむことは避けられた。彼の胸元に縋るような形になったルフレは、深々と安堵の息を吐き出した後、はっとして身を捩り、彼から離れようとする。
クロムに他意はないと分かっていても、傍から見て抱き合っているように見える今の体勢は問題だった。
「す、すみませ……っ?!」
彼の胸に手を突いて距離を取ろうとしたルフレの動きはすぐに封じられる。他でもないクロムにきつくきつく抱き竦められたことで。
「くろむ……さ、ん?」
発した声はくぐもって響いた。
呆然とするルフレの声に反応したのか、クロムがルフレを抱き締めたままくつりと低く嗤う。その冷たさにまた、どうしようもなく身体が震えて。
「……そんなに、俺と離れたいのか、お前は」
質問の形を取っていたがそれは断定だった。違いますと口にしようとして、あまりの空々しさに口ごもる。その間をどう判断したのか、僅かに腕の力が緩み。頤を捉えられてゆっくりと上向かせられる。
いつの間にか、隠れていた月は再び顔を出していた。
クロムは窓を背にしていたので、その彼に捕らわれる形になったルフレからは、顔を上げさせられると夜色の空にぽっかりと浮かぶ月がよく見えた。
昼間の曇天が嘘のごとく、澄んで満点の星が瞬く中、淡い光を投げ掛ける満月。こんな時なのに、その銀色に輝く丸い球体を綺麗だとどこか遠くでもうひとりの自分が感じていた。
月明に照らされて、彼が血を吐くように唇を動かすのを当のルフレはひたひたと沸き上がってくる恐ろしさにこのまま気を失ってしまいたいと思いながら聞いていたというのに。
「――――赦さない」
じっとルフレを見つめていたクロムがそう吐き出したのと、ルフレの視界を慣れ親しんだ青の色彩が埋め尽くして、月が見えなくなったのはほぼ同時だった。
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