Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 2/17

「おねえさま」
「あら……<ルキナ>」
 父から与えられた部屋で何をするでもなくぼんやりしていたルキナは、開け放したままだった扉の隙間からふんわりとしたドレスに身を包んだ幼い子供が顔を覗かせるのを見て取り、口元を緩めた。
 ルキナがそう呼んだように、とことこと歩み寄ってこちらを見上げる彼女の名前もまた<ルキナ>という。まだ剣も握れない小さな手で分厚い本を引き摺るようにしている彼女は、この時代の父と母との間に生まれたもうひとりの<ルキナ>だった。

 ルキナがいた未来の世界を恐怖と絶望に堕とした邪竜ギムレー。
 諸悪の根源たるかの竜が消滅し、もうこの時代の世界が絶望の未来へと至ることはなくなった。大きな青い目で懸命にこちらを見上げてくる小さな<ルキナ>も、かつてのルキナのように戻らぬ父を、悲しみに沈んだまま還らぬ人となってしまった母を恋うて涙を堪えることも、いつ終わるとも知れぬ先の見えない戦いに身を投じることも最早ない。
 だからルキナは、もう何の憂いもなく幸せになれる筈の小さな<ルキナ>の妨げにならないよう、すぐに何処かへ旅立つつもりだった。そうして救われた世界を見て回り、遠くから両親と小さな<ルキナ>と、彼等のいるイーリスを見守る。その、筈だった。
 それが、ギムレーの討伐後三年が経っても未だこの城に留まっているのは――――。

「どうしました?」
 内心の思いを押し隠しながら屈み込んで目線を合わせ、優しく優しく問い掛けた。
 自分と同じ左目に、聖王家の血を受けた証である聖痕を宿した小さな子供はおずおずと抱えていた分厚い書物を差し出す。各地の御伽話が収められた本だ。気に入っているらしく、表紙は所々擦り切れてぼろぼろになっていた。ここまで持ってくるのはむしろ本に抱えられてしまいそうな身体ではきっと大変だっただろうに。
 やはり同じ存在だというのが分かるのだろうか、小さな<ルキナ>は何を言った訳でもないのに、ルキナを姉と呼びことあるごとにこうしてふらりと現れてはお伽話をせがむ。
「おねえさま、ごほんをよんでください」
「ふふ、いいですよ。今日はどんなお話にしますか?」
「わあ! えっと、じゃあきょうは……」
 途端に同じ藍色の瞳を輝かせる小さな<ルキナ>。そんな彼女を本ごと抱き上げて、長椅子の上に座らせる。その隣に腰掛けて色とりどりの挿絵が入った頁をめくる姿を見つめながら、ルキナは出来るだけさり気なく、努めて何でもない風を装って尋ねた。
「……<ルキナ>、最近お母様にお会いましたか?」
 藍色の長い髪が彼女が首を縦に振る動きに合わせて揺れる。これは肯定だろう。城内でも、聖王妃と王女の親子仲が悪くなったという話は聞かない。この時代の母は、未来のルキナの母と同じように小さな<ルキナ>を慈しんでいたし、小さなルキナも無邪気に母を慕っていた。
「お父様とは?」
 やや時間が経ってやはり同様にこくりと頷く。これも、肯定。少し間が空いたのは、国政にあまり携わらない母と違い、政務に忙殺される父とはなかなか対面が叶わないからだろう。
 それも、未来の自分と変わらない。あの頃ルキナは大好きな父になかなか会えずにいつも少しだけ寂しい思いをしていたが、それでも父を讃える声を幼心に誇らしく感じ、母の膝に甘えることで耐えていた。
「それでは……」
 ここまでは比較的すんなり言葉が口をついて出てきたのに、何かが喉の奥でつかえているようにルキナの唇は次の言を紡ぐことを拒んでいた。異様に口の中が乾いている気がする。舌が張り付いて気持ち悪い。けれど、訊かなくてはならない。半ば無理矢理絞り出した掠れた声でルキナは恐る恐る問うた。

「お父様とお母様と……お二人でいらっしゃる時に、最近お会いしましたか……?」

 長い長い沈黙が室内に降りた。小さな<ルキナ>が本の頁をいじる音だけが響く。俯くようにしている彼女の表情は見えない。何をおかしな質問をと思っているのか。それとも、彼女自身も幼心に何か感じ取っているのだろうか。
 やがてゆっくりと、彼女は長い髪を横に揺らす。

 ――――今度は。否定、だった。

 ***

 イーリス城の一角で、回廊の先を歩く見覚えのある後ろ姿を見つけてルキナは声を張り上げた。
「マーク!」
「あれ、ルキナさん。こんにちはー」
 ごくごくいつも通りの、以前から変わらない彼らしい底抜けに明るい笑み。それを見せられてルキナは思わず顔を顰める。不快に思ったわけではない。ただ、彼の笑顔はあまりに完璧過ぎて、どこか作り物のようだと感じてしまっただけだ。
「今日はちっちゃなルキナさんと一緒じゃないんですね」
「あの娘ならお母様のところです。近頃塞ぎ込んでいらっしゃいますから……」
 誰が、とは言わない。
 だがそれでも、ルキナの口調で聡い彼には分かったようだった。ああ、とひとつ頷き神妙な表情になる。それすら作ったように感じられてしまう自分はどこかおかしいのかもしれない、とルキナは最近思い始めていた。
 彼、マークは、軍師を目指すだけあって口がよく回る。同時に、表情もよく変わる。なのにルキナは、どうしても彼の表情に浮かぶ豊かな感情が、すべてその場でもっとも最適なものを判断して、「作った」ものではないかと、そう思わずにはいられない。
 それでもまだンンやセレナ、ブレディといった他の未来から来た仲間達に対しては、いくらか年相応の顔を見せているように感じられるのに。
 ルキナに対してだけは、マークは張り付けたような表情を崩さない。まるで仮面を被っているが如く。その「作り物」は何故か自分に対してのみひどく強固で、頑強だ。
 何故、と。
 そう彼を掴んで揺さぶりたかった。マークの方がルキナより背は高いし、この三年でその差はますます広がってしまったから、たとえそうしたとしても彼はびくともしないかもしれないけれど。それでも、大声で叫びたかった。
 どうして自分に素のまま向きあってくれないのかと。

「……ところで、マーク」
「はい、何ですかルキナさん」
 苦い衝動を押し隠し、辛うじて微笑みらしきものを浮かべてルキナは彼を呼び止めた本来の目的を果たそうと口を開く。
「ルフレさんは、今日どこに?」
「クロム様の執務室ですよ」
「また……ですか」
 思わず零れ落ちた言葉に、マークは心外だとでも言いたげに両手を広げて肩を竦めた。どこかおどけた風なその仕草に、また押し隠した筈の思いが呼び起こされる。本当に、どうしたというのだろう、自分は。
 無性に、心がささくれ立つ。
「言っておきますけど、母さんの所為じゃありませんからね。母さんは今日僕と城下町に戦術書を買いに行く約束をしてたんですから」
「……別に責めているわけではありません」
 ゆるゆると首を振って呟くが、正直説得力に欠けるなと自分でも思った。自分の、ルフレに対する態度が一時期ひどく刺々しかったことはかつて軍内にいた人間なら誰でも知っている。互いを半身と呼び合う父と彼女の関係を邪推して随分な言葉も投げ付けてしまった。
 
『私とクロムさんは男女の垣根を超えた親友、そして戦友なんですよ。ルキナさんが心配するようなことは何もありません』

 けれど笑い過ぎて涙まで流していたルフレにそう告げられて、ルキナの疑念は確かにあの時晴れた筈だったのに。
 この三年、ルキナのその不安は再燃したまま胸の奥でずっと燻り続けていた。始めは本当に小さな、蝋燭の炎のようであったその火は今や激しい焦燥を伴って、何ひとつ憂うことがなくなった筈のルキナの心を焼く。
 ただし、今度の相手はかつてのように眼前のマークの母ではない。
 そう、ルキナが何より恐れ、危惧し、心をざわめかせているのは。

 ルキナの母を誰より愛していた筈の父――聖王クロム、その人だった。

 

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