Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 7/17

 

 目覚めて真っ先に感じたのは、全身を覆う倦怠感と身体の痛み。
 そして、この寝台にある筈のない……あってはならない、自分以外の温もり。
 泣き続けた所為で重い目蓋を持ち上げると、辺りは暗かった。触れる空気の冷たさにおそらくまだ夜明け前なのだろうと結論付ける。そのままずらした視線が、拘束するように絡み付く逞しい腕を捉えた。ルフレを決して逃すまいとでもいうかのようにきつくきつく絡むその腕。まるで荊だと、ルフレは思った。
 顔を上げずとも、その持ち主が誰なのかとうに分かっていた。夢であって欲しいと、己の浅ましい願望が見せた幻であってくれればと、願っていたのだけれど。

(クロム、さん……)

 ルフレを抱き締め未だ眠りの世界にいるクロムの表情は、しかし苦悶に彩られている。彼にそんな表情をさせたのは自分だ。
 けれど離れなくてはならないと思った。
 もう、これ以上。彼の傍にいることなどできなかった。とっくの昔に限界を迎えていたルフレの心は、悲鳴を上げて今にも壊れそうだった。 
 だから……夜の闇に紛れて姿を消そうとしたのに。

(あいしてる……なんて、そんな……今更)

 眠る彼を目覚めさせぬよう、慎重に腕を動かして持ち上げる。手首の縛めは解かれていた。その動きにすら全身が痛んだが、それだけでなく手首にはひどい裂傷ができている。敷布の下にある他の部位は見えないが、そこもきっと鬱血の痕がいくつもあるのだろう。情事の痕と言い切れるほど甘やかでも優しくもなかった昨夜の行為を思い出し、指先でそっと唇に触れる。
 愛していると、何より残酷な言葉を告げたクロムは、泣きじゃくってうわ言のように拒絶を紡ぎ続けるルフレに業を煮やして何度も強引に口を塞いだ。もう逃れようもなかったがせめてと身を捩るルフレを無理矢理押さえ付け、男性を受け入れるのが初めてで強張る身体をただただ乱暴に抱いた。
 けれど彼は、何故ルフレがずっと拒み続けていたのか、その意味を正確には知らないだろう。それだけが救いだった。
 ルフレは恐ろしかったのだ。
 ずっと愛していたのだと囁かれて、ただ純粋に彼を恋する気持ち以上に押し殺してきた、クロムに女として愛されたいという密やかな願望が暴かれてしまいそうで。
 拒絶の言葉でも口にしていなければ、きっとすべてをかなぐり捨てて彼にもっと愛して欲しいと縋り付いていたに違いない。今でも、全身を包む彼の温もりにどうしようもなく心は震えているのに。
 どちらにせよ、永遠にこのままではいられない。
 やがて夜も明ける。まもなくクロムも目覚めるだろう。その彼にどうやって対すればいいのか。ルフレ自身もずっと好きだったのだと、そう告げるのは問題外だ。告げたとしてどうなるだろう? 彼には既に妻子がいる。そうしたところで誰も幸せになれない。ならばやはりクロムから離れるべきか――けれどそれも、早急に実行するのは無理だった。少なくとも今日一日、ルフレはろくに動けない。その間に、クロムはルフレが逃げられないよう、黙って警備の配置を変えてしまうだろう。新しい抜け道を探すのは一朝一夕では難しい。
 
(それなら……)

 息を詰めて、ルフレはもう一度クロムの寝顔を見つめる。
 彼は空っぽなルフレにあらゆるものを惜しみなく与えてくれた。 
 誰より幸せになって欲しいと願ったひと。
 そして……誰より愛したひと。
 彼は王だった。背負うものはあまりに多く、彼の地位を脅かそうとする人間もまた多い。今夜のことが明るみに出れば、まず間違いなく今まで何ひとつ後ろ暗いところのなかった聖王クロムの、格好の醜聞になる。
 その彼の為に。

(私が……できることは)
 
 ――――――心は、決まった。

 ***

 瞳を閉じたまま気配を探っていたルフレの耳に、微かに呻いたクロムの声が届いた。
 努めて、身体の力を抜く。まだ自分は眠っているのだ。そのつもりでいなくてはならない。
 やがて意識が覚醒したのだろう、ゆっくりと彼が身を起こす気配がする。そうして腕の中意識を失くして眠るふりを続けるルフレにはっと息を飲むのが分かった。恐る恐るといった風に彼の手が伸ばされて、寝乱れたルフレの髪に触れる。幻だとでも思ったのか。確かに感じた感触に安堵の溜息を吐いているのが伝わってくる。
「……ルフレ」
 切なげに囁く声音に、じんと胸が震えた。泣きそうだと思った。昨夜の交わりの際に見せた恐ろしいまでの強引さはどこにもなく、今の彼の手付きは優しいだけ。……もう、いいだろう。これ以上はせっかく決意した心が折れてしまう。

「……ん……」
 漏らした声に触れた彼の手がびくりと震えた。緩慢な動作で目を瞬き、今まさに目覚めたばかりといった様子で目蓋を持ち上げる。そうして何かを恐れているような表情の彼と、目が合った。
 ……ここからが、正念場だ。
 しばらくぼんやりと彼を見つめ、やがて大きく身体を震わせる。浮かべるのは怯え。そう、昨晩のことは決してルフレが望んだものではなかったのだと、彼の想いに応えるものはルフレの中のどこにも存在しないのだと、彼に思い知らせる為の表情。
 自分の心を裏切るそれを浮かべることの、何と容易いことか。
 腕の力は緩んでいたから、あっけなく彼から距離を置くことができた。そうはいっても鈍い痛みを訴える身体の所為で腕一本分だけれど。だが意に添わぬ行為で純潔を奪った相手への恐れで身をかたかたと震わせれば、クロムはそれ以上近付いてこなかった。
 まだこれから告げる言葉には躊躇いがあったが、今更だと仮面の下でルフレは自嘲する。
 ここにいるのは、誰より信頼していた王に裏切られた軍師。それだけだ。ただ、それだけ。
 今更偽りをひとつ重ねたところで、何が変わるわけでもない。

(さあ、ルフレ。……できるでしょう?) 

「――――触らないで頂けますか、陛下」
 冷たい、冷たい声が出た。
 震えるルフレへ向けておずおずと伸ばされた彼の手。それをはねつけるように掠れた声で、けれどきっぱりと告げたルフレに、クロムの藍の瞳が信じられないといった風に瞬く。その様を余すことなく視界に収めながら、じりと更に後退った。
「……ルフレ……っ」
「昨晩あんな無体を働かれたのに、まだ笑顔で迎えられると本気で思っていらしたのですか?」
 殊更低く囁いて、目の前の男を睨め付ける。身を庇うようにして巻き付けていた敷布が緩んで鬱血の痕が僅かに覗いた。こちらににじり寄ろうとしていた彼の動きが止まり、痛ましげな表情になる。当然だ。彼の罪悪感を煽るためにわざとそうしたのだから。
「俺は、お前を……!」
 それでもなお言い募ろうとする彼に、それ以上言葉を紡がせないよう、口元を歪めてルフレは嘲笑した。クロムの前でこんな表情を見せたことはない。その証拠に、クロムは呆然と初めて目にする女を見るような目でルフレを見ている。
「……愛している? それならどうされます、奥方と離縁されますか。聖痕を受け継ぐ世継ぎを生んだあの方を! それとも……私を側女にでもされるおつもりですか?」
「……っ、それ、は」
「愛の言葉がすべての免罪符になるとお思いなら、それは間違いです。……少なくとも、私にとっては。陛下がどんなに私を愛していると仰っても、昨晩のことは暴力でしかありません」
「ルフレ……」
 凍れ。凍ってしまえ。
 行為の最中、クロムから愛を囁かれ続けて既にルフレの心はそこかしこから血を流していたがそれすら凍れとルフレは念じた。
 クロムの熱に溶かされる事のないように。
 冷たく、クロムを見つめなくてはならない。向ける眼差し、口の端にのせる言葉のひとつひとつから、彼への想いが溢れ出る事のないように。

(お願い……嫌いになって。私を憎んで)

 ――――わたしをあいして。

(抱き締めないで……お願い)

 ――――だきしめて。くろむさん。

(私はあなたを愛してない……愛してないの)

 ――――あいしてるのに。こんなにあなたをあいしてるのに。

 矛盾した想いは仮面の奥でルフレを苛む。こうすることが最善だと思っているのに、頑強に抵抗する己の心を抉り出せるものならばそうしたかった。これほど苦しいなら心なんていらないと何度胸の内で泣き叫んだことだろう。
 箱の底に残った最後の秘密を、どうか暴いてくれるなと願いながら、けれど同時に彼に暴いて欲しいと心待ちにしている自分を確かにルフレは感じていた。
 もし、彼が暴いてくれたなら――――その時は。
 そこまで考えて己の罪深さに慄く。願うのは、祈るのは彼の幸い。それなのにまだ彼からの愛を望む自分は、何と度し難いのか。
 一番望んではならないものを望む愚かな女。何故、戻って来てしまったのだろう。あのままかつてルフレ自身であった、かの邪竜と共に消えてしまえばよかった。永遠に。そうすればこんな過ちを彼に侵させることもなかったのに。
 荒れ狂う心の内を垣間見せないよう、殊更硬質な声でクロムに最終通告を突き付ける。
「けれど昨夜のことは……忘れます。陛下を責めることもしません。だから陛下も一夜の夢だと思ってお忘れ下さい」
「ルフレ……俺はっ!!」
「忘れて頂けるなら、これまで通り陛下にお仕えします。陛下の側で、陛下をお助けします」
 言い募るクロムを遮り、静かに、ただ静かにルフレは告げた。忘れられぬと言うならやはりイーリスを離れると、そしてもう二度と戻っては来ないと言外に滲ませて。
 ゆっくりと、目の前の藍の瞳から光が消えていく。彼はルフレの言葉に傷付いただろう。言葉の剣で、人の心臓は容易く血を流す。ルフレにも覚えがある。……あり過ぎる。
「……忘れろと言うのか、俺に。すべて」
「ええ、陛下。妃殿下と、ルキナ様の為です。お二人を愛してさし上げて下さい。……そうすれば、皆が幸せになります」
「皆が、か……」
 傷付いたことを隠そうともせず呟きを落とすクロム。感情や思考が顔に出過ぎると苦言を呈したこともあったが、以前はそれをむしろ好ましいと感じていたのに。けれど今は、幾度も繰り返し愛しているとささめいた昨夜の言葉を裏付けるような、熱をはらんだ眼差しを向ける彼を詰りたかった。
 どうして。何故、今更、と。
 半ば強引にことを進めたのは確かにルフレだが、一度別の女性を妻に迎え子まで成しておきながら、今になって自分ばかり絶望したようにうなだれる。
 ルフレは血を流し満身創痍の心臓を抱えて仮面を被り続けてきたのに。そう、彼への恋情に気付いてからずっと。
「……けれど……俺は、幸せになれない」
「……陛下」
 お前なしではと、絶望に乾いた声で呻く彼の、ルフレを見つめてくる深い藍色の瞳。その青の中に宿った熱に溶かされてしまいそうで、ただ呆然とクロムを呼ぶことしかできない。
 赦されないのに。既に赦されない一線を超えてしまったのに、更にその熱を望んでしまいそうな罪深い自分が呪わしかった。
 身体に巻き付けた敷布を握る手に力が篭る。ルフレは自分を叱咤した。クロムを拒絶しなくてはならない。徹底的に。冷たく、無慈悲に。ここにいる女はあなたを露程も男として愛してないのだと。
「あなたは、王です。王は自らの私的な幸福を追い求めてはなりません。……お戻り下さい、陛下。そして夜が明ければ、すべて忘れましょう」
 再び告げたルフレに、クロムは今度は黙って項垂れた。彼との距離は僅か腕一本分。昨晩のように無理矢理にでもクロムが触れようとすれば、力で敵わぬルフレに抵抗する術はない。
 もし、彼がそうしたら? 
 想像して震えそうになるのをルフレは必死に抑えた。そして視線を寝台に落としたままのクロムを見つめる。どうかこれ以上暴かないで欲しいと願いながら。

「…………分かった」
 永遠のようにも思えた長い長い沈黙の後、ようやく彼の唇は了承の言葉を紡ぎ出す。本当に小さな声量で囁かれたそれはよくよく注意して耳を傾けていなければ聞き逃してしまいそうだ。
 のろのろと緩慢な動作で床に投げ捨てられた衣服を拾い上げ、身づくろいをする姿を視界に収めぬよう、ルフレは何もない宙空を凝視し続けた。早く、早くと身の裡で誰かが叫んでいる。どうか一刻も早く立ち去って欲しかった。ルフレの弱い心が折れて、彼に縋ってしまいそうになる前に。決して赦されない望みを告げてしまいそうになる前に。
 暖炉の火も入っていない冷たい室内にはただ微かな衣擦れの音だけが響いていた。沈黙が痛い。そして重い。息苦しいほどのそれに押しつぶされてしまいそうだ。
 やがて逡巡したようにクロムの動きが止まる気配がしたが、ルフレが顔を背けたままなのを見て取りそのまま何も言わずに続きの間の扉を開けて出て行く。程なくしてこの客間自体の入り口も静かに閉められる音がした。遠ざかっていく足音。
 詰めていた息を吐き出し、ルフレは寝台に力なく身を預けた。巻き付けていた敷布がはらりと落ち、あちこちに鬱血痕のある白い裸身を露わにする。表皮を覆うものが何もなくなった所為で冷気が肌を刺すようだ。クロムの温もりはもうどこにもなく、ただひどく寒かった。
「……っ……」
 音もなく、乾いた唇があるひとつの名を象る。
 先刻までルフレに温もりを与えていた男の名。けれどルフレはその名を暴かれそうになった想いと共に封印するつもりだった。今度こそ、永遠に。
 彼を愛した罪深い女は今夜死んだのだ。
 あとに残るのは彼を助け、彼の敵を排除する軍師。軍師に感情などいらない。心などいらない。抉り出して捨て去ることが出来ないならこのまま凍らせるしかない。
 暴れ狂って抵抗する己の心を押さえ付け、冷たい夜の空気の中、ルフレはひたすら浅ましい恋情が死に絶えるのを待った。
 冷えた寝台の上に蹲って涙もなく嗚咽もなく、また増えた傷口から鮮血を流す彼女を、窓から差し込む冴え冴えとした月の光だけが見ている。
 宵闇に浮かぶ満ちた銀月と、まだ誰にも踏み荒らされていない降り積もった白雪の輝きが残酷なほどに美しい、ある冬の夜のことだった。

 

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