Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 17/17

 

 遠くに見える空が段々白み始めてきた。焦燥に駆られるルフレをよそに、彼女の手を引くマークは何か目的を持って歩いているようだった。油断なく周囲の気配を探りながら、それでも足を運ぶ速度は緩めぬまま微睡みの中にある城下町を抜け、聖都をぐるりと覆う城壁も通り過ぎて、やがて聖都を見下ろす小高い丘の上に辿り着く。そして、そこに立つ人物の姿にルフレは驚愕の声を上げた。
「サーリャさん? どうして……?」
「あ、それはですね、母さんのことは僕が守ります! なんて言っちゃいましたけど、やっぱりお腹に子どもがいる人の同行者が僕だけっていうのも心もとなかったので、サーリャさんにお願いしました!」
「お、お願いしましたってマーク……!」
「……いいのよ、ルフレ」
 あまりにもあっけらかんと言い放った息子に抗議しようと口を開きかけたルフレを、ゆるゆると首を振ることで彼女は遮った。身に着けているのはやはりルフレ達と同じく旅装だ。イーリス人の夫と結婚した彼女は明るい色も似合うと勧められて、聖都に移り住んで以降はなんだかんだと言いつつも夫が勧めるそういった服を纏っていたが、今の彼女の衣服は戦時中のように黒を基調としている。もっともあの頃の身体の線がはっきりと出てしまう際どいものではなく、もっとゆったりした形だが。
「でも、サーリャさんはご主人もノワールさんもいらっしゃるじゃありませんか。ご家族を置いてなんて」
「あいつとは喧嘩したの……」
「ええっ?!」
「だから……ペレジアの実家に帰るのよ」
「え、え、だって、あんなに」
「……と、いうことになっているの。心配しなくていいわ……」
 そう言ってサーリャはそのままルフレをそっと抱き締めた。いかにもサーリャらしい薬草の匂いに混じって、本当に微かにだが、以前の彼女からはしなかった香ばしい小麦や甘い牛の乳の匂いがする。所帯染みていると評する者もいるだろう。だが確かにそれはある種の幸福の香りだった。ルフレにはこれから先も決して許されることのない香り。愛する相手と望み望まれて暖かな家庭を築いている証。
「サーリャさん……わた、し……」
「何も……言わないで……。全部、知っているから。あなたが……悩んでいたのも……苦しんでいたのも全部……。それでも私は……あなたの味方よ、ルフレ」
 思わず抱いてしまった嫉妬もそれに対する罪悪感も何もかもを、すべて分かっているとでも言うかのように、労るように慈しむように囁くサーリャにルフレは縋り付いた。誰にも知られてはならないと必死だったけれど、我が子にも友人にも悟られていたなんて。そして、もう自分ひとりの身体ではないのだからと最初に告げた医師にも。だとしたらひたすらにルフレが押し隠してきたつもりだった秘密は、どれだけの人々に気付かれていたのだろう。
 ああ、でもせめてクロムにだけは。彼だけにはどうか知られないままでいて欲しい。お前なしでは幸せになどなれないとあの冬の夜、彼は残酷にもそう囁いたけれど。それでもルフレも彼をどうしようもなく想っているのだと知らなければ、時が過ぎるにつれきっと記憶から薄れる筈だ。自分を愛していない女、自分を手酷く拒絶し、今度もまた約束を破った女に執着し続けるより、クロムには家族がいるのだから。そして、彼を支える多くの家臣や仲間達も。

 ***

「……行きましょう。今回はフェリア経由でペレジアに入るわ……」
「それがいいですね。最短経路で行くとちょうどクロム様達と鉢合わせになる危険性がありますし……。あちら側の国境は今きな臭いですから」
 こんなに泣き続けては目が溶けてしまうかもしれない。そんなことを思いながらようやくルフレが落ち着いた頃には既に辺りは大分明るくなってきていた。短い間に何度も取り乱してしまったことを恥じ入るように俯く彼女の背を、優しく叩くマークは手短にこれからの行程を話すサーリャに応じて頷く。
 いつもルフレの世話をしてくれている女官達が主のいない空っぽの部屋を訪うまでまだ少し間はある。クロムが不在の今は、すぐに捜索の手が伸びることはないだろうが、その間にできるだけイーリスから離れなくてはならない。馬は使えないからどうしても徒歩になる。馬車が使えればいいが聖都付近では足がつくのが早くなってしまうのだ。
 マークもサーリャも気遣ってはくれるだろう。けれど、負担をかけ過ぎることはしたくない。正直、身体は重かったが堪えるしかなかった。
「ルフレ……辛いでしょうけれど……しばらく我慢して……。聖都の周りを過ぎれば、馬車を拾うから……」
「ありがとうございます、サーリャさん……。でも、大丈夫です。戦場にいた頃と比べればこれくらい何ともありませんから」
 辛うじて微笑みらしきものを浮かべることができたルフレに、けれどサーリャは痛ましそうに目を細める。吸い込まれそうな漆黒の瞳によぎる剣呑な色。目を瞠ると彼女はすぐにそれを打ち消したが、逡巡の後どこか躊躇いがちに口を開いた。
「……ねえ、ルフレ……。呪術には……物忘れの法というのもあるの……。もし、あなたが望むのなら……」
「サーリャさん」
 彼女の言わんとするところを察し、ルフレはゆるゆると首を振る。
 確かに、忘れてしまえばそれも幸せなのかもしれない。クロムのことも、彼に恋したことも。これまで出会った人々、彼等と築いた思い出も何もかもすべて記憶から消し去ってしまえば。……偽りの平穏の中でのひとつの幸福の形として。けれど。
「それでも私は……忘れたくないんです」
 ルフレの記憶は蒼穹の下、微笑んで手を伸ばすクロムから始まっている。真っ直ぐな眼差し、迷いなくルフレを引き上げた大きな手のひら。優しそうなひとだと思った。そしてその印象に相違なく彼はずっと優しかった。ぶっきらぼうなところはあったけれど、それでも。
 彼の優しさは、時として何より残酷なものではあったが、どんなに苦しくともクロムのことを記憶から消したくはなかった。それは、ルフレという女を構成する大部分が失われてしまうのと同じことだ。
「……そう。あなたはそれほど……あの男のことを……」
 こちらを見つめるサーリャがそう呟くのに対し、今度は確かに微笑むことができた。
 血を流す心臓を抱え、笑顔の仮面の下、幾度も苦しみ幾度も絶望して。何故帰ってきてしまったのだろうと己の罪深さに怯えながら、赦されないことだと想いを殺そうとしながら。こうして今、密やかな決意を固めたルフレの心は確かに自らの意志で彼女の半身から離れることを選んだのだった。
 それは諦念からではない。絶望故でもない。希望とは呼べぬかもしれないが、未来に向かって進もうとする誓いだ。ただ、彼女の王の幸いの為に。
「――――さあ、出発しましょう。母さん」
 それまで静かにサーリャとのやり取りを見守っていたマークが、丘を下ろうという体勢のまま振り返り、手を差し伸べた。ふいに襲う、既視感。

 ――――こんなところで寝ていると、風邪を引くぞ。

 どこまでも続く青い空。優しい笑顔。すべての始まり。

 ――――おかえり、友よ。

 ひどく切なげな、何かを堪えるような表情。揺れる深い藍色の瞳。二度目の邂逅。

(……似て、いますね……やっぱり)

 三度涙が滲みそうになり、それを振り払うよう、一瞬きつく目を瞑ると再び目蓋を持ち上げる。視界には、変わらずこちらへもう少年というよりは青年というのに相応しい大きく節くれだった手のひらを差し出す我が子の姿。そして、彼の背に広がる眩いばかりの暁。
 美しいその光に目を眇め、ルフレはゆっくりとマークの手を取る。もう二度と足を踏み入れることはないであろう彼女の王の国。神竜の加護篤き聖王国の大地の感触と風の匂いを感じながら。これからは、この子達と一緒に生きていく。遠く離れた地で彼の為に祈りながら――――――。

 ***

 そして、この日を境に聖王の片腕にしてもうひとりの英雄たる軍師ルフレの名は長い間イーリスの公式記録から一切消え去ることになる。半身とも呼び合った女性を失って聖王は失意の底に沈んだのか、悲嘆に暮れたのか。それを詳しく伝える資料は残念ながら後世に伝わっていない。
 史書において神剣の英雄、あるいは新たなる聖王と記される彼の治世は即位前後を除き大規模な戦はなく、概ね平穏なものであった。生涯を通じて善政を敷きそれは名君と評されるに足るものであったが、家臣達の力によるところも大きいと言われている。
 軍師ルフレ。
 謎めいた経歴の彼女のことを聖王の密かな恋人だったと主張する歴史学者もいれば、頑なに二人の間にあったのは性差を超えた友情、そして純粋な主従関係のみであったと抗弁する者もいる。兎にも角にも、彼女の名が再び公式記録に登場するのは聖王クロムの治世の後半を語る上で欠かせぬある人物がイーリス城の城門を叩くその日である。

 踏み荒らされた薔薇の茂みはそれまで再び、暗がりの下にある秘密を覆い隠す為その蔦を伸ばし、荊を生やすだろう。愚かな王の幸せを願った女の祈り故に。……そして、或いは。

 ――――――哀れな王女の幸福を祈った青年の願い故に。

 under the rose
 ― 第一部 完 ―

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