――――――戻って来て、しまった。
出会った時と同じ場所、澄んだ碧空の下の草原で目覚め、今は聖王となったクロムと彼の妹であるリズに迎えられた時、まず一番に思ったのはそれだった。
けれどそんなルフレの思いを知る由もなく、最後の記憶に残る姿より大人びたリズは泣きじゃくってルフレに縋り付き、クロムは邪竜の器たる証が消え去った自分の真白い手を引いて、ひどく切なげな、何かを堪えるような表情で小さくおかえり、と囁いた。
握られた手のひらの一部分だけに当たる固く冷たい感触に、彼の温もりに触れて浅ましくも歓喜する己の心は一瞬で凍り付く。その固い感触が何なのか確かめずとも分かった。
金無垢の指輪。
聖王家の紋様が施された上等な作りのそれは、彼の両親がやがて妻を迎える時に渡すよう、わざわざクロムの為に拵えさせたものだ。
どんなに初めて彼と出逢った時と同じように思われても、もう何もかもが変わってしまっている。幼さが残っていたリズは早逝したエメリナの面影を感じさせる一人前の女性になっていたし、クロムは左手の指輪が何より雄弁に物語るように妻子がいる、ひとりの王だった。ルフレと邂逅した時の自警団を率いる王子ではない。
変わってしまった。すべて。そう、すべて。
変わらないのは。一度この世界から消え去って、それでも変えられなかった――捨てられなかったのは。
(だめ……その箱を、開けては……だめ)
その先を考えることを拒絶して、ルフレは唇の端に笑みを乗せる。もう数えきれないほどの間自分を偽って浮かべ続けてきた微笑は、紗幕のように容易く彼女の本心を覆い隠し、ただ彼女の王に勝利をもたらすことだけを至上の命題とするひとりの軍師の相貌のみを顕にした。
始めはぎこちなかったその挙動は、今では息をするが如くあまりにも自然だ。
そうしてこれまでと同じ非の打ち所のない微笑みで、声が掠れぬよう細心の注意を払いルフレは自分の手を引いた男に告げる。
「ただいま戻りました……クロムさん」
唇で言葉を紡ぎ出しながら、かの邪竜の印は消えても、この心の臓に付いた傷までは消えなかったのだなと、半ば諦念に満ちた心持ちでルフレは変わらずじくりと痛みを訴え続ける己の心臓の存在を感じていた。
金無垢の指輪の感触はそこにまた新たな傷をもたらす。勝手なものだ。当時、彼の婚姻を推し進めたのはルフレであったのに。
まるで薔薇の棘で刺されたように痛む胸の奥。
ああ、戻って来てしまったのだと、その痛みはやはりルフレに思い知らせた。あのまま消えてしまえばクロムの中でルフレは一生の存在になるだろうという醜い我欲を叶えてくれるほど、世界は彼女に優しくない。
(ナーガ様……これは私への罰なのでしょうか……)
心に絡み付く荊の痛みを、張り付けた笑顔の奥に隠すことに必死だったルフレは、だから少しも気付けなかった。
ひどく切なげな、何かを堪えるような表情。
そうして深い藍色の瞳でルフレを見つめるクロムが、一瞬ひどく昏い色をその青に浮かべたことを。
***
そして絡み付く荊は絶えることのない痛みをルフレにもたらし続けていた。
邪竜が復活する可能性を永遠に絶つことで、クロムの道行きが平らかになるようにと願ったのは本当で、けれどやはり叶えられなかった想いの残滓は何の前触れもなく現れてはルフレを苦しめる。
クロムがルフレ、と以前と同じように彼女を呼ぶ度、もう条件反射で浮かぶようになった空っぽな笑みで応じながら荊の棘が新しい傷を付けていくのをルフレはどうすることもできずにいて。
もう耐え切れないと思ったからこそ、己がすべてと引き換えにギムレーを消滅させるという抗いきれない誘惑に飛び付いたのに。そう、前聖王エメリナ――非業の死を遂げた姉を、救いきれずに眼前で失ってから、喪失を何より恐れるクロムへ最も罪深い偽りまで告げて。
――――これが罪。
彼が誰より救いたいと願った、たったひとつの生命を救う策さえ献じられず。
――――それも罪。
それなのに決して焦がれてはならない光を愛した。
――――重い、重い罪。
二重三重の意味で己が罪人であることはルフレとて分かっていたが、消滅さえ赦してくれない神は何て残酷なのだろう……――――――。
しんと静まり返った冷たい静寂の中、ルフレは燭台に灯した明かりの下で仄かに煌めく青い石を眺めていた。正確にはただの石ではなく、それを加工した耳飾りである。装飾はほとんどなく、材質も決して上質なものとはいえない。
今やもうひとりの英雄として華々しく讃えられる神軍師<グランドマスター>たる彼女が、後生大事に抱え込むようなものではない。だが黄金を積まれるより、彼女にとっては価値があるものだった。そして未練がましい愛執の何よりの象徴でもある。
ふいに、密やかな夜の気配を躊躇いがちに扉を叩く音が破った。思わず目を瞬く。物思いに耽っていたので分からなかったが、蝋燭の減り具合からしてもう夜も遅い時分だ。こんな時間に訪ねてくるような人物がいただろうか。思案して、手の中にあった耳飾りを抽斗の中に滑り込ませる。
首を捻りながら、イーリス城内に与えられた客室――ルフレはかつてのように自警団の拠点に寝泊まりすればいいと言ったのだが、クロムが頑として譲らなかったのだ――の扉まで歩みを進める。
「……どなたですか?」
「母さん、僕です。マークです。……入ってもいいですか」
扉越しに聞こえる声は、三年前より随分低くなった、けれど確かに彼女を母と呼ぶ少年のものだった。いつも快活に響くその声音が今夜はひどく心細げな気がする。そのままゆっくり扉を開いた。薄闇の中に立つ長身の影に一瞬、本当に一瞬心臓を鷲掴みにされたようになる。
(クロム、さん……?)
だが燭台の灯りを差し向けて映ったのは先ほどの呼び掛け通りマークの姿で。彼に気取られぬよう、動揺を押し隠すのに苦労した。
何故、マークをクロムと見間違えたりしたのだろう。似ているところなんて髪の色くらいしかないのに。
「どうしました、マーク? ……って、きゃあ?!」
無言のままマークがルフレを抱き締めた。燭台が揺れたがどうにか水平さを保つことに成功した。ぎゅうぎゅうと締め付けてくる腕の力はもう子供ではなく、だからいっそ苦しいほどなのに、何故だか大きな子供という言葉が頭に浮かぶ。
三年前の容姿のままのルフレと、成長して幼さがすっかり抜けたマーク。もう誰が見ても親子に見えない二人だが、ルフレは伸ばした手であやすように背中を撫ぜてやる。
「……かあさん」
「もう、何ですか、いきなり。怖い夢でも見ました?」
「むう……違いますよ。母さんが足りなかったので補充しに来ました」
ようやくルフレを解放してこちらを見下ろすマークは、もういつも通りの様子を取り戻していた。ほっとする。そんな軽口が叩けるなら大丈夫だろう。
「足りないって……人をそんな栄養か何かみたいに」
「だって本当に足りなかったんですよ! 昼間は母さん、ずっとクロム様にべったり張り付かれちゃってますし、僕が入り込む隙間がないんですもん」
三年前と同じく拗ねた風に頬を膨らませる仕草をする息子に思わず苦笑する。べったりというのはさすがに語弊があるが、確かにクロムはルフレをイーリス城外にすら出そうとしない。そして三年前までと同じように彼を支えることを当然のごとく求めてくる。だから日中は空白期間の国勢やら何やらを学ぶ為との名目でクロムに付ききりなのだ。
それがどれほどルフレを傷付けているのか、以前と同じく彼は少しも気付いていないに違いない。もっとも、気付かせないようにしているのはルフレだが。
「そうですね。せっかくこうして戻って来たのに、あなたとはまだろくに話もしていませんでした……」
「そうでしょう、そうでしょう? という訳で母さん、今晩は一緒に寝ましょう!」
「ええっ?!」
「さあさあさあ! 寝室はこっちですか、わあ広いなあ豪華だなあ。これなら二人で寝ても大丈夫ですね!」
少ししんみりしたのも束の間、とんでもない発言に目を白黒させるルフレを引き摺りマークはちゃっかり続きの扉を開けて中に入り込んでしまう。
「ちょ、ちょっと待って下さいマーク! もう子供じゃないんですからそれは、」
「……子供です」
唐突にマークが動きを止めた。ゆっくりと振り返る。月明かりに照らし出された彼の顔を見てはっと息を飲んだ。
……まるで、今にも泣き出しそうだと思った。
「マーク……?」
「……子供ですよ。何年経ったって、どれだけ離れていたって、ずっと、僕は母さんの子供です」
「……っ、マー、ク……」
ルフレは自分の業の深さを改めて思い知らされた気がした。
マークの記憶は、まだ戻らないという。ならば唯一覚えていた母――ルフレさえ消えてしまったこの三年、彼はどんな思いで過ごしていたのだろう。
この時代、彼はまだ生まれていない。ルフレが独身なのだから当たり前だ。恐らく、マークは自分が他の男性に惹かれて結ばれた、別の未来から来たのだろうと推測していたのだが、彼からしてみれば幼い自分が生まれる前にルフレが消えてしまってどれほど思い悩んだか。
ルフレの浅ましく醜い我欲は、彼女が誰よりも慈しんで守らなければならない我が子も傷付けた。
けれどマークはそんなルフレを責める素振りすら見せることなく、柔らかな笑みで見つめてくる。
「そんな顔、しないで下さいよ。僕は母さんがどんな選択をしても母さんの味方です。……何があっても」
後から思えば、彼はこの時既に予感していたのかもしれない。
ルフレと、クロム。
互いに無二の戦友、相棒だと口にする二人の関係が捻れてどうしようもなく壊れてしまうことを。
既に綻びかけ、薄氷の上で辛うじて立っているような危うい均衡を崩す出来事がもうすぐ起こることを。
***
誰も見てはならぬ。暴いてはならぬ。
薔薇の茂みの下、暗がりに隠された秘密を。
暴いてはならぬ。
……そう、決して。
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