あの日。
世界から闇が打ち払われた運命の日。
遂に蘇ったギムレーを、父の持つ神剣で再び永き眠りに就かせる為、軍内でもとりわけ選ばれた者のみが最後の戦場に向かった。その中には、父の軍師として当然誰もが同行することを信じて疑わなかったルフレの姿もあった。
ファルシオンに再び力を与えたナーガによれば、彼女が邪竜と化したかつての自分に止めを刺すことでそれは自殺と同義となり、ギムレーを封印するのではなく永遠に消滅させることができるだろうということだったが、父は強固にそれに反対した。
ギムレーが消滅すれば、根本的に同じ存在であるルフレもまた消える。
千年先の未来よりも、今共にある仲間の命を重く見る父の姿勢は、王として正しいのかどうかルキナには分からなかったが、人として好ましいものだと思う。そしてルフレも、決戦の前、父の決して自分を犠牲にしてくれるなという懇願に頷いていた。
だからその場にいた誰もが信じられなかった。
何処かから無限に溢れ出るギムレー教徒や屍兵達。それらを喰い止めながら皆、かの絶望と終わりの竜を封印する唯一の手段――覚醒の儀を経て力を取り戻した神竜の牙、それを操る父をギムレーの元まで辿り着かせることだけを考え。その傍らには幾多の戦場でそうだったように、父に寄り添うルフレの姿。
あまりにも強大な邪竜の力にも屈せず、何度でも立ち上がり剣を振るい、魔道書の力を放つ二人は誰が見てもまさしく「半身」だった。
そうしてとうとう膝を付いたギムレー、己の軍師と同じ姿をした女の人型の前で父がファルシオンを掲げた。その切っ先が振り下ろされようとした、まさにその瞬間。
……父の身体が、ぐらりと傾いだ。
膝を落とす動きがやけにゆっくりと見え――そして穏やかに微笑むルフレの手には、先刻まで手にしていたものとは異なる、ごくごく初歩の雷撃の魔導書があった。力を最小限に抑えて発動させ、父の動きを止めたのだった。では何故、とそこまで考えてようやく彼女の意図するところに気付く。
『……っ、やめ……ろ! ルフレ……!』
痺れで未だ満足に動かせない身体を引き摺って父は自分の半身へと手を伸ばす。だがその手は、彼女の黒い外套の裾すら掴めず宙を切った。
彼女は父の手をすり抜け、自分と同じ顔形をした邪竜の化身の前に立つ。事態に気付いた他の仲間達も制止の声を張り上げるが、湧き出る屍兵達を振りきってまでこちらに来る余裕はない。最も近い場所にいる父は動けない。つまり、それこそが彼女の本当に最後の「策」。信頼し合っていた筈の父にすら偽りを告げて、己の手で永久にギムレーを消滅させること。
す、と懐から取り出したのはまた異なる魔導書だった。
雷神の鉄槌。トールハンマー。
かつて竜の血を受けた聖戦士達が治めていたという大陸で、神の裁きとも呼ばれた聖なる武器。書の魔力を引き出す為、高らかに彼女は力ある言葉を紡ぐ。
魔道士の素養がないルキナにすら、ルフレの周囲に何かとてつもない力が収束していくのが分かった。
『やめろ……っ! 俺を……俺を置いていくのか……ルフレ!!』
力の奔流に曝されながら父は掠れる声で必死に叫ぶ。けれどそれすら、半身である父の悲痛な声すら、彼女には届かない。その背中は静かに、だがきっぱりとあらゆるものを拒絶していた。
やがて詠唱が終わる。雷神が断罪するのはひとつの世界を昏い絶望へと導いた邪竜か。それとも――――――。
象られた魔力が彼女の手で振り下ろされる。爆発的に広がる白光。そして。
『ルフレぇええええええっ!!!!』
血を吐くような絶叫。閃光が収まると、そこには既に終わりの竜も、そして父が誰よりも信頼し、背中を預けてきた女性の姿も、何もなかった。
ただあまりにもその場には不釣り合いな優しい風が、静まり返った戦場をそよいでいった……。
***
世界が救われたあの日から、父は変わってしまったとルキナは思う。
表面上は以前と同じ――誰もが英雄と讃える力強い姿で民を勇気づけ、戦後の復興の為、精力的に力を尽くした。けれどふとした瞬間、それは誰かが何気なく父を支え続けた軍師のことに触れた時であったり、彼女との思い出が甦ったらしい時であったりしたのだが、魂が抜け落ちた人形のような表情を見せる。
それを見る度、ざらりとした砂を飲み込んだような気持ちになった。
ああ、あれは絶望と喪失を一度に味わされた顔だ。
ルキナがかつていた未来で、何度もそんな表情でひとり遺された人々を見てきた。愛する家族を、友人を、恋人を失った絶望。それは終わりの竜の何よりの力の源だったから、戦況が厳しくなるにつれ加速度的にその数は増していった。
でも、今は。
(この世界は救われた……私達のいた未来と違って。なのに……)
それなのに父はひとり、昏い絶望の中にいる。
すべての感情が失われた表情で、ただひとり。
ルフレは確かに最後の策を成就させ世界を救ったかもしれない。けれど同時に、父の半分を削り取ってしまったのだ。
そうして恐ろしい想像がひたひたと胸の内を侵していくのを、この三年ルキナはずっと止めることができずにいた。否、ほとんど確信に近いそれへと今では変貌しルキナの中で根付いている。
もし。
自分が、或いは母がこの世界から消え去ることになったとして。
――――それでも父は同じように絶望するのだろうか?
むぎゅうう。
「みゃ、みゃーく?」
どんどん暗い淵へと引きずり込まれていくルキナの思考は、唐突に生じた頬の痛みで中断された。えらく真剣な顔でこちらを見下ろすマークが、ルキナの両頬を力いっぱい抓っているのだ。
痛い。本当に痛い。
「なにするんれすか?!」
「あ、よかった。戻ってきました」
抓られたまま睨めつけたルキナに、破顔した彼はようやく両手を離して解放する。それにしても戻ってきたとはまた随分だ。第一、いきなり人の……それも一応は年頃の女性の頬を予告なしに抓るとは何事かと思う。これが自分の容姿にとりわけ気を使うセレナ辺りなら、怒髪天を衝いたがごとく怒り狂い、三倍返しはするだろう。
「もう……いきなり何なんです、あなたは!」
「いやーすみません。だってルキナさん、僕がいくら呼んでも手をひらひらさせても髪を引っ張っても揺さぶってもキスしようとしてもちっとも反応してくれないんですもん。ウードさんみたいに血が騒ぐ……! とか言い出すのかと思っちゃいましたよ」
「……は? え、な、ななななななななっ、ま、マーク、あなた?!」
さらりと飛び出た爆弾発言。
あまりにも爽やかな笑顔で言い放たれたその内容に、先刻まで深刻に考えていた疑念も何処へやら、抓まれていた頬にかっと熱が集まるのをルキナは感じた。
聖王の娘として、聖痕を受け継ぐ宝剣の使い手として、両親が没してからは常に人々の先頭に立ち期待を一身に背負って剣を振るってきた。それ以外のものが入り込む隙間などなかった。その為、同年代の少女達よりも色恋沙汰に関して相当疎いという自覚がある。
そういえば頬を抓られていた時の彼の顔は随分近かったなと、今更ながらに思い返しては顔色を赤と青で行ったり来たりさせるルキナをしばらくじっと見つめていたマークは、ふいに面白くて堪らないというようににっこりと微笑んだ。
「冗談です」
「……っ! マーク……」
「わわっ、ファルシオンはやめてくださいファルシオンは! 僕母さんと一緒で頭脳派なんですから暴力はんたーい!」
こんな幼い子供のようなことをして誰が頭脳派だと怒鳴りつけたかったが、正直もう気力が残っていない。深々と溜息を吐いて腰に佩いた剣の柄から手を放す。そこで、自分の思考を捕えていた重苦しいものがほんの僅かだが和らいでいるのを感じた。
……まさか、これが狙いだったのだろうか。
相変わらず、マークの笑顔は読めない。けれどその笑顔の奥に確かに彼の気遣いを感じたような気がして、ふ、とルキナは口元を緩めて頬にかかった髪を払った。
「まったく……時々、あなたのことを手のかかる弟のようだと思うことがあります」
「ルキナさんが、お姉さんですか……」
本当に、何気ない言葉だった。
マークが笑顔で冗談だと宣ったことへのお返しのように、ほんの些細な軽口のつもりで。その中のある一言が彼の中の誰にも触れさせずにいた琴線を爪弾いてしまったとは気付きもせずに。
応えるマークの声音は、今まで耳にしたことがないほど硬く、冷たい。
はっとして目を瞠るルキナをどこか強烈な既視感を覚える、感情の抜け落ちた相貌で眺めた彼は、こちらへ向かって伸ばそうとした手を何故かきつく握り込めてゆっくりと囁くように唇を動かす。
「……僕は、御免ですね。あなたがお姉さんだなんて」
「え……?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
凍ったように冷たい言葉の意味を反芻して理解に至るのと同時に、冷水を浴びせかけられたように背中がすうっと冷える。
二人の間に落ちる沈黙が痛い。冗談だと笑い飛ばしてくれそうな気配は微塵もない。ルキナをどうしようもなく苛立たせる、あの仮面の如き表情は今は浮かんでいなかった。ならば、これが彼の本心なのだろうか。それほど……自分はマークに疎まれていたと?
「――――ちょっとマーク、いつまで待たせるのよ?!」
いっそ暴力的な沈黙を打ち破ったのは廊下の奥、ちょうど十字路に当たる辺りから顔を出した少女の甲高い声だった。否、もう少女と呼ぶべきではないかもしれない。ルキナと同じく、彼女――セレナもこの三年で随分と大人びた。母譲りの美しさにますます磨きを掛け、城内・城下を問わず異性からの視線を釘付けにするその顔を不機嫌そうに顰め、廊下の向こうから大きく手招きをする。
美人は得だ。そんな仕草ですら絵になる。
「すみませーんセレナさん! 今行きます!」
いつの間にか彼の声音からは冷たく硬質な響きは消えていた。にこやかな、感情を決して読ませないあの表情を取り戻すと、何事もなかったかのようにルキナにもその笑顔を向ける。
「あ、ルキナさん。僕セレナさんとも約束してたんですよ、もう行かないと。大丈夫ですよね? もしクロム様のところに顔を出すなら言っておいて下さい、親子水入らずの時間を奪うなんてひどいですよって」
「え、ええ……分かりました」
勢い良くまくし立てるマークに気圧され、思わず頷いてしまった。その答えをすべて聞き終える前に彼は足早にセレナのいる場所へと去って行く。
遠目でも機嫌が悪いのが分かるセレナを宥めるように、彼女の長い髪をマークが優しく撫ぜるのを見て、何故だか胸の奥がつきんと痛んだ。
そうして気付く。
先刻感じた強烈な既視感の正体。
(お父様と、同じ……)
そう、一切の感情を失くしたマークの表情は、この三年父が見せていたそれとひどく酷似していた。
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