Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 6/17

 

 そうして、口元に押し当てられる熱。
 それが彼の唇だと理解して、けれどクロムから口付けを受けているというその事実に、思考がついていけない。
 クロムと出逢う以前の記憶を失っているルフレだが、一般常識的なことは覚えているし、唇を重ねる行為は愛情の発露だというのは思い出すまでもない。
 何故。どうして。
 恋人、あるいは夫婦の間で交わされるべき口付けを、クロムが何故、今自分にしているのか。分からない。分からない。咄嗟に頭を振って逃れようとしたが、腰にはしっかり彼の腕が回され、頤も掴まれているためほんの少し重なった感触がずれただけで終わった。
「んんっ?!」
 抵抗したことを咎めるように、閉じた口元を強引に割って生き物のように蠢く何かが口腔内に入り込んでくる。熱くぬめった感触はルフレの歯列をなぞり、乱暴に中を貪った。
 これは、彼の舌だ。
 気付いてより一層抗おうと両手に力を込めたルフレだったが、一度侵入を許してしまえばもう為す術はない。角度を変えて何度も貪られ。とうとう自身の舌も口の中で蠢く彼のそれに絡め取られ、きつく吸われて。まともな呼吸すら叶わずひたすら口腔内を蹂躙され続けては抵抗する力が持続する筈もない。
「……っぁ……ん……ふっ」
 始めは強く彼を押し返そうとしていた手は、縋り付くようにクロムの服の布地を掴むだけとなり。腰に回った彼の腕の支えなしでは、立っていることすら危うい。
 ようやく解放された頃には、もうルフレは息も絶え絶えだった。唇が離れた時につと引いた銀色の糸に羞恥心が煽られたが、荒い呼吸を整えるので精一杯で、あれほど離れようとしていたクロムにくたりとしなだれかかった体勢のまま潤んだ瞳で彼を見上げる。
「くろ、むさ……な、にを……」
「何を? ここまでされてまだ分からないのか?」
 喉の奥で嗤ったクロムに膝裏を掬われ、そのまま横抱きにされる。大股で歩き始めた彼の向かう先は――出口ではなく続きの間へ繋がる扉。彼の言葉も併せてクロムの意図するところを察し、青褪めたルフレは力の入らない手足をばたつかせてみるが眼前にある厚い胸板をいくら叩いても、必死に身を捩ろうとしてみてもびくりともしない。
 クロムは足で器用に寝室へ続く扉を開く。ルフレにあてがわれた部屋は聖王の軍師だけあって客室の中ではそれなりに上等だった。寝台もそれだけ広い。僅かに開かれていた紗幕を乱暴に大きく開かせると、抱えたままだったルフレを白い敷布の上に放り出す。体を受け止める寝台はこんな時なのに変わらず柔らかかった。ようやく自由になったのも束の間、逃げ出そうとした動きはのしかかってきたクロムの所為で叶わない。二人分の重みにぎしりと悲鳴をあげる音がする。
 ルフレの顔の両脇に手を突いた彼の前髪が微かに触れた。ほとんど吐息が絡みそうな距離。視線を逸らしたいのに。彼の眼差しの強さがそれを許さない。
 昏い、昏い目。
 まるで……嵐の前のような。荒れ狂う寸前の危うさを湛えた深い藍。
「やめて……やめてくださいクロムさ…っぁ!」
 震える声音で紡ごうとした言葉は首筋に噛み付くようにして与えられた熱に遮られた。ルフレからは見えないがきっと痕が付いている。まるで己の所有物に印を付けるような行為。
 恋人なら。あるいは夫婦なら。
 閨での行為として、何もおかしなことではない。
 けれどふたりはどちらでもなく、そしてそのどちらでもあってはいけなかった。
「……どうすればいい?」
 再びルフレの視線を捕えてクロムはひどく苦しげな表情で囁いた。いつの間にか彼の手の片方はルフレの髪を梳き、青褪めた頬の形を確かめるようにその稜線を辿る。
「どうすれば……お前は俺の傍にいてくれるんだ。あの時、お前が選んだ女性でなく、お前自身を妻に迎えていればよかったのか?」
「そ、んな……こと……」
 クロムが口にした言葉はルフレにとって予想外だった。
 先刻の強引な口付けといい、今の口振りといい、あるひとつの結論に辿り着いてしまいそうで、あまりにも恐ろしいそれを振り払うようにがむしゃらに首を振る。
 
 ペレジアとの戦が集結した後の、戦の爪痕もまだ根深いイーリス。
 姉の後を継いで精力的に復興処理を進めるクロムの働きもめざましく、国内は少しずつ穏やかな日常を取り戻しつつあった。だがもっと大々的に、華々しく平和が戻ったのだと民に実感させる為に、と貴族達の間から聖王代理となったクロムの婚姻を求める声が上がったのは自然な流れだっただろう。
 王族の結婚はそれだけで人々の気持ちを浮き立たせ、経済を潤す。
 気乗りしない風であった彼を他所に、ルフレは積極的に妃候補の選定に関わった。そうして選んだのが今の聖王妃だ。彼女の父は爵位こそ高かったが、朴訥としていて穏やかな性格で、娘が当時は聖王代理の妃となったからといって一族の栄達を望むような野心のある人物ではなく、彼女自身も控えめで大人しく、政治に口を挟むようなことはしないだろうという分析に基づいてのことだ。
 最後まで積極的には結婚に乗り気でなかった彼を、頷かせたのはルフレだった。その時にはまだぎこちなかった笑顔の仮面を張り付かせて「お幸せに」と告げたルフレに、一瞬彼がひどく傷付いた顔をしたような気がしたが、それは未練がましい自分の想いが見せた幻だと思っていたのに。

(どうして……今更……)

 髪が乱れるのも構わず首を振るルフレの仕草を拒絶ととったのか、再びクロムが唇を奪った。今度は始めから舌が入り込んできて、逃げ惑うルフレのそれを強引に絡め取る。
「っんん……やっ……ぁ!」
 両の手で彼の顔を押しのけようとするが、先刻の執拗な口付けで抜けてしまった身体の力はまだ戻っていなかった。その為、ただ触れるようにしか伸ばせなかった手を、それすら気に入らなかったらしくクロムは片手で頭上へと縫い止める。
 そうしてもう片方の手で器用に敷布を裂き、ルフレの唇から己のそれを一度離して、裂いた布切れできつく両手首を縛り上げてしまう。これでもう、ルフレに抵抗する術はない。辛うじて足をばたつかせるか、身を捩る程度しか。
「……泣くほど、嫌なんだな」
「え……?」
 両手首を縛り上げたのと矛盾する、優しい優しい仕草でクロムが頬を撫ぜた。それでようやく自分が涙を流していたのだと知る。呆然と目を見開いたルフレに、クロムは自嘲めいた笑みに口元を歪めた。
「当然か。俺にとってお前は無二の半身でも……お前にとってはそうではなかった。だからこんな風に、何度でもあっさり俺を捨てて行ける」
「ちが……違います……!」
 嗄れた声で震えて否定の言葉を紡ぐルフレは、こちらを見下ろす彼の昏い瞳を見つめながら懸命に祈っていた。
 すべてを奪い尽くすような口付け。
 所有の印のように刻まれた首筋の紅い痕。
 そして、彼がこれからしようとしている行為。
 そのすべてが、あるひとつの事実をルフレに示そうとしている。
 けれどそれは、決してあってはならない。口にされてはならない。

(だめ……言わないで……お願い……言わないで……!)

 ルフレの懇願も虚しく、クロムは囁くのを止めようとはしない。頬を撫でていた手が、ゆっくりと彼が痕を付けた首筋を辿り、鎖骨をなぞり。やがてルフレの纏う上衣の釦に掛かる。
「……あの日。お前がギムレーと共に消えたあの日。俺はようやく気付いた。俺が本当に欲しかったのは誰なのか。……誰を、想っていたのか」
 ひとつひとつ、無骨な指先とは裏腹の繊細な手付きで釦が外されていく。その度にびくりと身体が震えるのは、冷たい外気に触れたからなのか。それとも。
「い、や……やめて……やめてくださ……っ……」
 はらはらと眦から涙を零して、ルフレは首を振る。その先を聞きたくなかった。誰より大切な相棒、戦友、そして半身。「俺の軍師」と、そう笑顔で彼が口にする度、どれほど叫び出したかったことだろう。言葉の剣を幾度も幾度も突き刺しておきながら、今になってルフレが必死になって隠し続けてきたものを暴き立てようとするなんて。

(だめ……その箱を開けては、だめ……!!)

 彼の声が届かぬよう、耳を塞ぎたかった。けれど両手を拘束する戒めは少しも緩む気配を見せない。涙で滲んだ世界で、ただゆっくりとルフレの素肌を夜気に露わにしていくクロムの手の熱さと、耳朶に落とされる囁きの酷薄さがルフレが認識できるすべてだった。
 そして、とうとう。
 クロムが決定的なその言葉を口にするのと、すべての釦が外されて最後は乱暴に上衣が取り払われるのとは同時だった。
 まるで愛しい恋人にするように、彼は甘く甘くルフレの耳朶を食んで熱っぽく囁く。

「……俺は、ずっとお前を愛していたんだ、ルフレ」

 その囁きに。
 心の奥底、箱に閉じ込め幾重にも鍵を掛け覆いを被せて押し隠していたクロムへの想いがあるその場所が歓喜に打ち震えるのを感じ、今度こそ本当にルフレは絶望した。

 

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