Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 13/17

 

「ご婦人の寝室へ、許可なくそのように立ち入るものではありませんぞ殿下」
 それまで事の成り行きを見守っていたガイエンが窘めるような口調でクロムへと声を掛けた。彼は感情の嵐を隠そうとして失敗した何とも言えない表情でガイエンの方を振り向くと、「今はもう殿下じゃないぞ、ガイエン」と低い声音で呼び掛けに応えた。
「おお、そうでしたそうでした。いやはや年を取るといけませんな」
「……まだそんな年じゃないだろう。ところで……ルフレの容態は?」

(――――――っ!!)

 クロムがこちらに背を向けてくれていて良かったと、激しい動揺に再び全身を震わせたルフレは思った。きっと、先刻までの比でなく今ルフレの顔は青褪めている。そして、ガイエンからは蒼白になったルフレが見えたのだろう、本当に微かだが眉が持ち上げられた。
「しかし陛下、今日は謁見のご予定があった筈では? いけませんぞ、お仕事はしっかりこなしませんと、父君も姉君も悲しまれましょう」
「謁見ならついさっき終わった! いいから教えろ、倒れるなんて普通じゃない……何か悪い病なのか?」
「ふむ……まあ、病ではないのですが」
「それなら何故倒れた?!」

(……やめて……やめて下さい……言わないで……!)

 切迫した様子で問い詰めるクロムにか、受け入れたくない事実を突きつけたガイエンにか分からぬまま、ルフレは身体の震えを少しでも抑えようときつく掛布を握り込んだ。
 もし、ルフレが身篭っているとクロムに知られてしまったら。
 彼はすぐに気付くだろう。お腹の子が、あの一方的な(と彼は思っている)交わりの結果できた子だと。そうなればクロムのことだ、ルフレをきっと正式に側室に迎えようとする。或いは、今の聖王妃を退けて正妃にするかもしれない。想像するだけで恐ろしかったが、どんなに強固な反対に遭おうとも彼は我が子を身篭った女性を打ち捨てるような真似はすまい。……それに、そんなひとならこれほどまでに狂おしく想い、恋することなどしなかった。
 けれどそれは、それこそ、ルフレが一番望まないことだ。

「……ルフレ殿は――――」

 ゆっくりと言葉を紡ぐガイエンの声が、絶望を告げる鐘のようにルフレの耳の奥で鳴り響く。彼とクロムは長い付き合いだ。こんな、軍師として僅かばかり貢献したといってもイーリスに居ついて数年のルフレより、主君に事実を伝えることを優先するだろう。
 心臓が苦しい。息ができない。どうして。何故、こんなにも残酷なのだろう、世界は。それとも、これも罰だとでも言うのか。

「……働き過ぎですな、近頃」
「……は?」

 耐え切れずに目を瞑ったルフレの耳に、間の抜けたクロムの声が届く。ガイエンの言った言葉が信じられず、恐る恐る目蓋を持ち上げると医療器具の入った鞄を膝の上に持ち上げた彼は呆れたような、咎めるような表情でクロムを見た。
「一言で言えば過労です。倒れたのは、軽い貧血でしょう。まあ、女性にはよくあることです。平時であれば倒れるまではいきませんが、疲れが溜まっていたのが祟ったのだと思われます。ゆっくり養生させてさし上げなさい。それと、陛下は少し、ルフレ殿に頼りすぎですぞ」
 口を挟む隙を与えず一息で言い切った宮廷医師にクロムは毒気を抜かれたようだった。過労、と小さく呟くとやがて大きく息を吐き、ルフレの方を振り返る。
 まだ事実が明るみに出てしまうことに対しての恐怖から立ち直れないでいる青い顔は、クロムからしてみれば過労というガイエンの見立てを裏付けるのに十分だったようで、形の良い眉根を寄せて自分を責めるような、苦しげな色を浮かべている。
「すまなかった、ルフレ。……少し、お前に無理をさせ過ぎた」
「あ……そん、な……ことは」
 先ほどと違って、もうクロムはルフレに触れてこない。ただ青い瞳だけは変わらず熱っぽくこちらを見つめてきて、ガイエンに勘付かれてしまうのではないかとまた別の意味でルフレは怯えた。
「……しばらく、何もせずにゆっくり休め。皆には俺から伝えておく」
「ですが……陛下……」
「お前が目の前で倒れて……俺がどんな気持ちだったか分かるか。……頼む。今は自分のことを何よりも優先して考えてくれ」
 切々と訴えるクロムの声音はあまりに弱々しい。だがその弱々しさが却って今まで耐え難い喪失を経験した彼の心の傷の深さを如実に表しているようで、それ以上何も言えずに熱を帯びた視線から逃れるように再び顔を俯かせた。
「……ガイエン、ルフレを頼む」
「承知しました。この機会ですから、存分に骨休めをして頂きましょう」
「ああ。……何か必要なものがあったら、すぐ誰かに言ってくれ」
 黙り込んだルフレに、ひとまずは大人しくしているだろうと思ったのか。少しだけいつもの平静さを取り戻したクロムは最後に一度だけ、ルフレをまたあの熱を込めた眼差しでひたと見つめると今度は静かに去って行った。
 室内に、気詰まりな沈黙が降りる。少なくとも、ルフレにとっては。だがその沈黙はすぐに穏やかな声音で破られた。
「……よろしいですか、ルフレ殿。今が一番大事な時期です。陛下の仰られたとおりゆっくりお休みなさい。……もうあなたひとりの身体ではないのですから」
「ガイエン、せんせい……。どうして……」
 掠れた声で、ルフレは問う。
 何故、クロムに言わなかったのか。
 言わない、理由がない。何しろクロムはこのイーリスの国主。王城にあっては特に絶対的な権力の頂点に位置する。城内の人間の異変はどんな些細なことでも聖王へ報告されるべきだ。ルフレがどんなに言わないで欲しいと表情で訴えていたとしても、それが臣下としての義務だろう。
 まして、聖王自身が半身と呼ぶ軍師の身体に起きた変調であれば。
 けれど、ガイエンはルフレが子を身篭ったことを、クロムへちらと匂わせることもしなかった。それどころか、過労だともっともらしい嘘の説明までして。
「ふむ……。そうですな、宮廷医など長年やっておりますと……色々なものを見るのですよ」
 言葉にならないルフレの戸惑いはすぐに彼に伝わったようだった。膝の上に抱えていた往診鞄から薄紙に包まれた丸い錠剤を取り出すと、存外繊細な手つきで小さな小袋へ詰めていく。そうしてそのまま、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「王族の方がご懐妊されれば、当然儂が診る訳ですが……。中には望まぬ妊娠をされる姫君や、道ならぬ恋の果てにお相手を身篭らせてしまう王陛下、王子殿下もいらっしゃいましてな」
「……っ!!」
「皆、儂に頼むのですよ。尊い血を持つ筈の方々が……。ある方など額を地に擦り付けんばかりの勢いで、どうか言わないで欲しいと。けれど一方で、対立する勢力の方であれば何よりの弱みですから、何とかして聞き出そうとします。あからさまに脅迫めいた言動をされたこともあれば、金や地位をちらつかされて懐柔しようとされたこともありましてなあ……。若い頃は随分と、難儀しました」
 取り出した錠剤をすべて詰め終えると、ルフレの横たわる寝台のすぐ脇にある小さな卓へとそれを置く。どこか遠い目で語る彼は、神竜ナーガの加護を受ける聖なる王国の、影にあたる部分をきっとつぶさに見てきたのだろう。深い、深い深淵を。
 光が強ければ強いほど、それだけ影は色濃くなるのだから。
「……その頃、儂が診たある女性と……今のルフレ殿は似ておられます」
「私と、ですか……?」
「ええ。今となっては昔話ですからお話ししますが……その方も、さる御方の寵愛を受け……けれど身篭ったことが分かると、そのまま誰にも告げず、ひっそりと姿を消してしまったのです」
「ガイエン先生……っ!」
 悲鳴のような声音で目の前の男を呼んだルフレは、寝台から降りようとして叶わず、力なく再び寝台に身体を沈めた。ガイエンの手に助けられながら体勢を戻す。
 ……ああ、やはり、気付かれてしまったのだろうか。
 その方も、と彼は言った。
 ならばガイエンは、ルフレも高貴な人間の寵愛を受けたと思っているのだ。そして今、この王城内で高貴な、と称されるに足る身分の男性と言えばひとりしかいない。
「わたし……は……」
「何も仰らずとも結構です。ただ……ひとつだけ。ルフレ殿は、その子の父親を愛しておりますか……?」
「……っ、わたし……っ、私は……!」
 震える声音でそれだけ辛うじて呟くと、後は言葉にならなかった。顔を覆って、もう繕うことのできなくなった表情を隠すようにするとただひたすらに首を振る。
 嘘も、偽りも今まで数え切れないほど口にしてきた。あの冬の夜。自分とクロムの関係を決定的に変えてしまった冷たく、けれど同時にひどく熱かったあの一夜ですらこの唇は幾つも偽りの言葉を紡ぎ出したのに。
 父親は、あなたが考えているような人ではないと言えばいいのだ。ガイエンに。たった、一言。違うのだと。
 けれど、もう言えない。嘘がつけない。
 その男を愛しているのかと問われて、死んだ筈の罪深い女が、強固に張り付けた筈の仮面、ひび割れたその隙間を縫って顔を出す。凍り付かせた厚く固い氷の奥にある想いが再び溢れ、胸の裡に広がっていくのをどうすることもできずにルフレはただただがむしゃらに頭を振る。髪が乱れるのも構わずに。

(ああ、どうして……)
 
 ――――たすけて……。

 ただ、クロムを助けたかった。
 ルフレを導いてくれた光。
 真っ直ぐな眼差しで前だけを見て進んで行く彼に、何度救われたことだろう。

(どう、したら……どうすれば……)

 ――――たすけて…………。

 素性の分からぬ女を軍師として取り立てて。
 あまつさえ半身と呼び信じてくれた。
 そんな彼の支えになれればそれだけでよかった筈なのに。
 その光に恋焦がれてしまった。

(ごめんなさい……ごめんなさい……マーク……)

 本心を隠して振る舞うことに慣れさせてしまった我が子が、誰を想っているのか知っている。彼は気付かれているとは露程も思っていないだろうけれど。
 せめて、この子だけでも幸せな恋をして欲しい。
 そう、願っていたのに。
 もうそれすら叶わない。

(……わたし、は……)

 ……ぱりん、と遠くで何かが割れる音がした。

 

 ――――――――たすけて…………さ、ん……。

 

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