暁が訪れるにはまだ遠い、神竜の加護篤き聖王国を治める聖王が住まう城。
その歴史ある、優美でありながらどこか荘厳な雰囲気のイーリス城は今深い深い夜の中に沈んでいた。時折夜警の兵が巡回する靴音や、絶えることなく燈された篝火のはぜる音が冷たい空気を微かに震わせる以外は声を上げるのが躊躇われるほどの静寂が城内すべてを包んでいる。
月が昇ってから、大分時間の砂も落ちた。日中蓄積された疲労を癒す為、これから微睡むには些か遅すぎると言うべき時間であるが、さりとて目覚めて活動を開始するには随分と早い。城内の人間は数刻前とっくに眠りの精の訪いを受け、その大半が安らかに夢の世界で身も心も休ませている時間帯だ。
だが客室のある棟の中の一室、とりわけ立派な造りのその部屋を聖王より与えられたある人物は眠りの精の恩恵を受けるどころか、寝台に横たわってすらいなかった。そして、身に着けているのは近頃纏っていた寝巻に近い室内着ではなく、長距離の移動に適した明らかな旅装である。手には、小さな荷袋と白い封筒だけ。
幾つかの差異を除けば、いつかの夜の再現のよう。
けれどあの冬の夜のように彼がルフレを訪ねてくることはない。ペレジア国内で騒ぎを起こしている反イーリス派の一派がとうとうイーリスとの国境付近にも出没し始め、その地方一帯を治める領主からの請願を受けたクロムは騎士団の幾人かと、近臣達からなる一団と共に自ら国境地帯へ赴いていた。
聖王が不在の間留守を守るようにと命ぜられたフレデリクによれば、最後まで出立を躊躇っている様子だったらしい。「体調の思わしくないあなたを置いていくのが心配だったようですね」と告げた彼はどこか探るような目でルフレを見たが、演技でなく青い顔をしているルフレを追求するのは気が咎めたらしく、早々に退出してくれた。
今も、体調は決して万全とは言えない。
それとなく周囲に尋ねてみたり、書物に目を通してみたりしたがルフレは悪阻が重い方らしい。食欲は相変わらずなく、身体も重い。到底、長旅に適した時期でないのは分かっている。だが長くイーリス城に留まっていてはいつか周囲に――何よりクロムに身篭ったことが知られてしまう 。そうすればもう、誰も幸せにならない結末しか思い描けない。
彼が王城を離れているこの数日がおそらく最後の機会だ。だからルフレは本当に必要最低限なものだけを揃えつつこの日を待った。以前用意したものは処分されてしまっていたから密かに人に頼んだりして、怪しまれぬよう少しずつ準備をしたのだ。
(あとは……この手紙を置いて……)
やはり黙って去るのは躊躇われ、悩みぬいた挙句短く約束を破ることに対しての謝罪と、どうか探さないで欲しいというただそれだけを記した手紙。卓の上へ目立つように載せ、ゆっくりと指を離す。
手袋に包まれた指先が完全に白い封筒から離れると、ああ、これでもう私は何者でもないのだとルフレは思った。彼女の記憶の始まりはクロムとの出逢いからで、それ以降ルフレの献じる策も思考も何もかも、すべて何かしら彼の為だった。彼女の主は彼であり、彼の軍師は彼女であったのだから。だがそれも、もう終わる。
「――――さようなら。私の愛したひと」
辺りを憚るように、震える声で小さくそう囁いたルフレは服の上から懐中に収めたある物をきつく握り込んだ。何度も捨てなくてはと思ったけれど、とうとうそうできなかったのだ。クロムへの想いを結局殺すことができなかったのと同じように。
どんなに目を背けても、心を凍らせたつもりでも、やはりルフレはどうしようもなく彼を愛していた。そしてこれからも愛するだろう。一度この世界から消え去って、仲間達皆の思いで再び与えられた生命が潰えるまで、ずっと。
いつまでもただ、彼女の王の幸いを祈り続ける。
***
幸い、警備の配置はルフレがこの数ヶ月で調べたものとほとんど変わらないようだった。おかげですんなり城の建物に面した庭へと降りることができたルフレは、薄暗がりの中を灯りも掲げずそのまま慎重にある場所を目指す。城門ではない。さすがに堂々と出ていけないことぐらいは分かっていたから、向かっているのは別の場所だ。
以前エメリナの暗殺を防いだ時、ルキナが城内に入り込んだ抜け穴はもう塞がれてしまっていたが、別のところにもうひとつ大人ひとりがやっと通れそうな抜け穴がある。王城でも外れの方で、周囲を背丈の高い草が覆っていたからおそらくほとんどの人間が気付いていないのだろう。
誰にも見咎められることなくそこまで辿り着いたルフレは、覆い茂った草を掻き分け、抜け穴がそのままであることにまず安堵した。そうしていよいよ城の外へと足を踏み出そうして、ふいに聞こえた声に身を竦ませる。
「――――ひどいなあ。僕のこと、忘れないでくださいよ。……母さん」
馴染み深い声。弾かれたように振り返るルフレの視線の先、薄闇に溶け込むようにして立っていたのは予想通りマークだった。黒い外套を羽織り、手にはやはりルフレと同じく荷袋を持っている。靴は普段履いているものより頑丈そうなものに変わっていて、明らかに長旅を想定した格好だ。
「マーク……あなた……」
「出発は今夜なんでしょう? 僕も当然、一緒に行きますからね。母さんが駄目と言っても今度ばかりは聞きません」
足元の茂みを踏みしめながらこちらに近付いた彼は、にこりと微笑んで荷袋を肩に担ぎ上げた。まるで緊張感のないその様子にルフレは思わずうろたえる。
依然記憶の戻らない我が子をひとり残して行くかどうかは、本当にぎりぎりまで彼女を悩ませた。本音を言えば、ついて来て欲しい。実の父であるファウダーとは親子らしい情を交わすことはなかったし、教団から連れ出してくれた母はおそらく既にこの世の人でない。だから血の繋がった家族といえばもうマークしかいない。けれど、一緒に行くということは必然的に彼の父親が誰なのか分かってしまう。決して父とは呼べぬ相手。その否定しようのない血の絆は彼を苦しめるだろう。
ならば、真実を知らせるよりこのままイーリスにいた方が幸せなのではないか。ルフレが不在の間、サーリャは夫婦揃ってマークのことを気にかけてくれていたし、未来から来た仲間達も多くがこの国に留まっている。だから、何も告げずにイーリスを出ようとしたのに。
「……い、いけません! ただ出て行く訳ではないんです、もうイーリスに戻って来られないんですよ?」
「問題ないです。だってここが僕の故郷っていう感じはあまりしませんし。母さんがいるところが僕の居場所ですから」
「でも……っ、もう皆さんに会えないんですよ?! 手紙だってやり取りさせてあげられないかもしれない。それなのに……」
「もう決めたんです、僕。それに――――――」
そこで一旦言葉を切ると、マークは笑おうとして失敗したような、泣き出しそうな複雑な感情がないまぜになったような顔でルフレを見た。正確には、数ヶ月前の彼女と決定的に違う部分、余人には認識できないだろうが確かに新しい生命が宿った、まだ膨らみ始めてもいないその場所を。
「……無茶ですよ。そんな身体で一人旅だなんて」
「っ?! マーク……どう、して……」
想定外の事態に慄くルフレへ、離れている間に彼女の背丈を超えてしまった息子は更に一歩近付くと夜風で冷たくなった頬にそっと触れた。見下され、そういえば以前に彼が夜中に部屋を訪ねてきたことがあったなと混乱する思考の隅で思い返す。その時、彼をクロムと見間違えたのだ。髪の色くらいしか似ているところはないのにと思ったけれど、今こうしてつぶさに眺めてみれば鼻の形や目を細めた時の表情、細かな顔の造作ははっとするほどクロムに似ていた。これから年を重ねていけば相似が際立ってくるのだろうか。
言葉を継げないでいると身を屈め額が合わせられる。そのまま、囁くように彼は告げた。
「どうして、でしょうね……。でも、分かるんです。同じ存在だからなんでしょうか。……今、母さんのお腹の中にいるのはこの時代の僕。そうでしょう?」
「……ええ」
「そして――――父親はこの城にいない、あのひとだ」
思わず全身に緊張が走る。そんなルフレを宥めるように、いつの間にか肩口に顔を埋め彼女を抱き締めるようにしていた両の手で背中を叩くマーク。いつから、知っていたのだろう。そんな疑問を察したように更なる言葉を紡いでいく。
「……実は僕、母さんがいない間、少しだけ思い出していたことがあるんです」
「思い出したこと、ですか……?」
「そうです。母さんがどこにもいなくて、寂しくて……。それで、父さんのことが何か思い出せないかずっと試していて。そうしたら……あのひとの顔がぼんやり浮かんできました。今より少しだけ年をとっていましたけど、僕のことを見て優しく笑ってくれている顔が」
ぽつりぽつりと呟かれる告白に息を呑む。ならばもう、ルフレが戻ってきた時には既に知っていたということなのだろうか。そんな疑問が伝わったように背中を叩く手を止めぬまま、彼は首を振った。
「始めは……こう思ってました。僕が来たのは皆とは違う未来で。そこではあのひとと母さんはちゃんと結ばれていて、結婚もしていて……母さんがこの国の聖王妃だっていう未来があるんじゃないかって。今の世界では母さんは別の人を好きになって僕を生むことになるかもしれないって。でも、違いました。やっぱりあのひとと、僕の……血の繋がりはなくなりやしないんだ」
「マーク……」
最後にそれまでとはまったく違う調子で呼んだ「あのひと」はおそらくクロムのことではないとルフレは思った。相変わらずマークの表情は見えない。けれどルフレを抱き締める腕が僅かに震えたようで、己の罪深さを突き付けられた気がした。
ただ、苦しいばかりの恋だった。
ルフレの世界はすなわちクロムで、彼女の空白を埋め鮮やかに色づけてくれた彼の傍で、彼を支えているだけで満たされていた頃は幸せだったけれど、ひとたび想いに気付いてしまってからは彼を見る度、胸が締め付けられるようで。
それでも、とても僅かな言葉では言い表せないほどの葛藤を経て、ルフレの中に宿った小さなマークを育てながら、遠くでクロムの幸せを祈って生きようと思い切ることができた。
(ああ……でも、この子は……)
でも今ルフレを抱き締めているマークは、何の罪もないのに恋した相手に想いを告げることすらできないのだ。父親の分からぬ子どもと、由緒正しき王族、しかも神剣の継承者という身分の差を気に病んでいるのだとばかり思っていたのに。ずっと、誰にも話せず胸の内に始めから叶わぬと分かっている恋情を抱き続けるのはどんな気持ちだろう。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……マーク……っ」
「謝らないで下さい。……言ったでしょう、僕はどんなことがあっても母さんの味方だって」
マークは、ルフレが気付いていることを知らない。知らせてしまったらより深く傷付くだろう。だからルフレは言葉に出せぬ思いを込めて我が子の、自分と……そして誰より愛したひとと同じ深い藍色の髪を撫ぜながらごめんなさいと呟き続けることしかできなかった。
静かな、静かな夜。
月のない星ばかりが輝く空の下、はらはらと透明な雫を落とすルフレの耳元で、マークは「大丈夫ですよ……大丈夫です。母さんのことはこれから僕が守りますから」と繰り返し繰り返し囁くのだった。
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