Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 15/17

 

 日中だというのに人気のない回廊を歩いていたクロムは、ふと誰かに呼ばれたような気がしてその重い歩みを止めた。後方を振り向いてみるが、誰もいない。ただ客室のある棟へと続く長い通路があるだけだ。
 先刻までいた場所――否、そこにいた人物の常にないあまりに弱々しい姿を思い返し、まさかと微かな呟きを漏らしたがすぐに頭を振る。そのまま、ざらついた己の手のひらを微動だにせず見つめやがてきつく握り込む。

(……違う。そんなことが、ある筈……ない)

 今にも消え入りそうに揺れていた淡い色彩。へいか、と掠れた声で囁かれた呼び声。そこにはあの夜から今まで、決して消えることなくルフレが放っていた拒絶の気配はどこにもなかった。
 己の期待が見せる浅ましい幻だと思いながら、それでもクロムは手を伸ばさずにいられなかったのだ。一夜の夢だと思い忘れろとルフレは告げたが、胸の裡に燻る熱はそう簡単に消えるものではない。それなら、それほど容易に捨て去れるものならば、あのような真似などしなかった。
 思わず触れそうになったルフレの青白い頬、けれどその温もりを確かめる前に大きく震えた彼女の薄い肩と、瞳に走った怯えの色に、結局はすぐ見当違いだと思い知らされることになったのだが。
 ……何を、自惚れていたのだろう。
 
(あいつが……俺を……赦す筈、ないんだ……)

 あの冬の夜。
 クロムはルフレが邪竜と共に消滅して以降、絶えることなく身を苛む想いをとうとう抑えきれずに深夜、強引にあてがった彼女の部屋の扉を叩いた。
 おそらくもう眠っているだろう。だがそれでも、と僅かな期待があった。
 果たして、応えがないことを確認してから立ち去ろうとしたクロムの前で、ゆっくりと扉は開かれた。……そして、思いがけない来訪者の姿に目を瞠ったルフレの、今にもこの城を出て行こうとしているような、真夜中と言っていい時間帯には相応しくない旅装に、何かがクロムの中で音を立てて崩れた。
 そうして必死に抵抗する細い肢体を組み敷き、やめて下さいと涙ながらに懇願する声も奪って、ひたすら己の裡に巣食う欲望に駆り立てられるままルフレを貪った。つ、と伝った緋色に、未来で誰と愛し合って子を生んでいようと、この世界で初めて彼女を抱いたのは自分だと分かれば笑みすら浮かんだ。
 今から考えれば最低だという自覚が、ある。
 だが幾度あの夜を繰り返しても、また同じことをするだろう。
 それだけ、彼女が離れていこうとするのが赦せなかった。耐えられなかった。だから繋ぎ止めようとして……クロムは柔らかく微笑んでずっと己の傍らに在ってくれた存在を失う代わりに、軍師である“ルフレ”を己の側に止め置くことができた。
 彼女は以前と変わらず、いやもしかしたらこれまで以上にその手腕を発揮し聖王たるクロムを支えたが、もうその唇がクロムさん、と親しげにクロムの名を呼ぶことはない。当然だ。愛してもいない男に、無理矢理身体を奪われたのだから。
 彼女が怯えを隠しきれない表情で告げたように、いくらクロムがルフレを愛していても、一方的な想いを押し付けたそれは暴力でしかない。
 だから、きっと今の声は空耳だ。

(……もう……ルフレは、俺のことを呼ばない。呼ばないんだ……)

 胸中の重苦しいものを吐き出すように深く嘆息したクロムは、謁見の後の諸々を押し付けてしまったフレデリクのところへ戻ろうと、更に重みを増した足をのろのろと動かし、踵を返そうとする。
「――――あ、クロム様!」
「……マーク、か」
 だがひょいと回廊の途中にある角から現れた軍師見習いの少年――否、もう青年と言ったほうがいいかもしれない、ルキナと同じく未来から来たというルフレの息子に無意識の内に眉根を寄せた。
 だがマークはいつにも増して無愛想なクロムの様子にも頓着せず、むしろ渡りに船とばかりにこちらへ駆け寄ってくる。ついこの間まで風邪で寝込んでいたと聞いたが、この様子ではもう問題なさそうだ。
「体調は大丈夫なのか?」
「え? ああ、はい! もうすっかりよくなりました」
「ルキナが心配していたぞ、あの時一緒に戻ればよかったと言って……。そんなに薔薇が見たかったのか?」
 目の前の青年が熱を出したと耳にし、随分と気に病んでいた娘の名を出して尋ねればすみませんとだけ言って彼は静かに微笑んだ。その、それ以上の質問も何もかも穏やかに、けれどきっぱりと拒絶するような表情に胸を突かれる。……似ていた。とても。彼女に。

(やはり……親子だな)

 それとも、軍師という人種は多かれ少なかれ、誰しもこういった貌(かお)をするようになるものなのだろうか。思わず、まじまじと彼を見つめてしまう。
 マークと顔を合わせるといつもこうだ。彼は気にしていないようだったが、つい、母親譲りの青い髪をしたマークの姿の中に、父親の面影がないか探してしまう。
 未来の世界で、ルフレと結ばれたのは誰なのだろう。
 クロムの知っている誰かなのか。相手が誰であるにせよ、その男にはきっと身を強張らせることなくむしろ微笑みすらして受け入れたのかもしれない。
 クロムの時のように、最後まで泣きじゃくって拒絶の言葉を紡ぎ続けることなく――――。
「クロム様?」
 ぐい、と謁見に臨んだ際の正装のままだった袖を引かれ、クロムははっと我に返った。マークが自分を見たまま沈黙を続けるクロムへ不思議そうな眼差しを向けている。
「どうしたんですか? 顔色悪いですよ」
「あ……ああ、いや、なんでもない。それより、どこに行くんだ?」
「どこというか……母さんを探していたんです。お城の中をほとんど見たんですけど、どこにもいないし……ちょうどよかったです。クロム様、母さんがどこにいるか知りませんか?」
 そう言って背丈は伸びてもまだどこかあどけない微笑みを見せたマークに、クロムはまた押し黙った。そういえば、目の前でルフレが倒れたことばかりに気を取られ、そのまま彼女を抱き抱えてガイエンのところまでひた走ってしまったが、ことが大きくならないようフレデリクが上手く取り計らってくれたらしい。
「……そう、だな。ルフレなら今、部屋にいる」
「えっ? 今まで母さんと一緒にいたんですか?」
「ああ……。お前はまだ知らなかったんだな。ルフレは今朝倒れて……」
「倒れたって……! どういうことですか?!」
 クロムが口にした言葉に、マークは色を失う。珍しく焦燥を隠しきれない動揺した様子で詰め寄られ、落ち着けと肩を叩く。何か悪い病かもしれないと思い、つい先程までは自分も焦ったのだ。ルフレのことと自分のこと以外、未だに記憶の戻らない彼にとっては尚更衝撃だったろう。
「心配するな……と言っても無理か。ただ、病ではなく過労だからしっかり休めば回復するとガイエンは言っていたぞ」
「過労……」
 呆然と呟くと、ふいにその顔が何事か思案しているように険しくなる。マークから見ても、ルフレは働き過ぎに思えたのだろうか……クロムが気付かなかっただけで。それだけ彼女に無理をさせていたのだと思うと、先刻の彼女の相貌の青白さも相まってクロムの中で罪悪感が募る。
 休むようにとは言ったが、自分の言葉でどれだけ効果があるか。やはりここは息子からもよく言って聞かせてもらうよう頼むべきかとクロムが口を開きかけたところで、斬り付けるような視線とぶつかる。そうして感じる、これは……敵意、だろうか。
「……クロム様」
 ほんの少し前まで浮かべていたあどけない笑みが嘘のように固く、張り詰めた表情でマークは氷を吐くようにクロムの名を呼んだ。思わず身構える。
「僕……母さんが帰って来てくれて嬉しいんです。それは、本当の本当に、本当なんです。だって父さんのことは思い出せませんし、母さんが僕にとってたったひとり、堂々と家族と呼べる人だから」
「マーク……?」
 突然、何を言い出すのだろう。
 静かに、静かに告げた彼の声音はけれどやはり冷えきったままだ。ルフレが倒れたのは過労の為だとクロムが告げた時から、がらりと纏う空気が変わった。だがクロムにはそれが何故なのか分からない。そしてその為にか、ますますマークの態度も表情も固くなっていく。
 でも、と確かにクロムが狂おしいまでに愛し、故にどんな手段を使ってでもと己の傍らに繋ぎ止めようとした女性の面影を宿す青年は、クロムを見据え微かな声でまた小さく、小さく囁く。
「でも……やっぱり、母さんは帰って来なければよかった。僕は、そう思います」
「……どういう……意味、だ?」
「さあ? 分からないならそれでいいんじゃありませんか。……失礼します。母さんが心配ですから」
「……っ、マーク……?!」
 名を呼ばれても、振り返ることも歩みを止めることもなく去って行った後ろ姿をクロムは呆然と見送ることしかできなかった。

 ――――この時のマークの言葉を、後に幾度も幾度も思い返すことになるクロムだが、その意味を本当に知るところとなるのは歴史の針が今少し進むのを待たなくてはならない。史書の上では僅か数行で記される歴史も、生身の人間が経験するには瞬く間とはいかないのだ。
 そしてやがて訪れるその時、後の世、偉大なる聖王と讃えられる男は自らの愚かさを激しく悔いることになるのである。

 

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!