覚醒したルフレの視界にまず映ったのは、見慣れた天蓋だった。
ぼんやりと目を瞬き、何故、朝一度目覚めた筈なのに、また自分の寝台で横たわっているのだろうと宙に視線を彷徨わせていると、思考がはっきりしてくるにつれ次第に意識を失う前の出来事が蘇ってくる。
(そうでした……私、確か……)
原因も分からず重い身体を叱咤しながらクロムとフレデリクと話をしていて。容赦なく悪化していく気怠さに辛うじて耐えていると、本当に唐突に休憩にしようと立ち上がったクロム。即位してもう何年も経つのに、王子時代のような気軽さで小腹が空いたから厨房で何か貰ってくると宣った彼の代わりに私が行きますと立ち上がって――――。
「……たおれて、しまったんですね……」
呟いた声は少し掠れていた。寝台に横たわり、身を預けている体勢なので楽なことは楽だが、それでも全身の倦怠感は収まらない。風邪、なのだろうか。けれど自分で感じていたのは微熱程度で、いきなり立ち上がったからといって意識を失うほど重症だったとは思えない。
まとまらぬ思考に焦れて熱い吐息を吐き出すと、無性に喉が乾いていたので重たい身体を持ち上げようとするが上手くいかない。悪戦苦闘していると、ふいに伸びた腕が起き上がろうとするルフレの身体を支えた。腕の主はそのまま上手く枕などを使って半身を起こした状態にしてくれる。
「無理はいけませんぞ、ルフレ殿」
「ガイエン先生……」
おそらく隣の部屋で控えていたのだろう。だがあまりにも突然現れたようにルフレには感じられたので、呆けたように名を呼ぶと、白髪を小奇麗に切り揃えた初老の男性は穏やかな笑みで水を満たしたコップを差し出した。小さく礼を行って受け取る。冷た過ぎずぬる過ぎないちょうどよい温度の水を口に含んだことで、気分の悪さがほんの僅かだが和らいだ気がした。
ようやく周囲の状況に気を配る余裕ができたルフレは、室内を見渡す。落ち着いた色調で整えられた部屋は、確かに自分の寝室だった。 窓にはカーテンが引かれ日光が遮られている為に、少し薄暗い。
そういえば、いつの間にか締め付けの少ない、ゆったりとした寝巻きになっていたが誰が着替えさせてくれたのだろう。ルフレの視線に気付いたガイエンが、ああと目を細める。
「ご安心なさい、それはうちの助手がやりました。おお、無論女性ですぞ。いくら老いぼれといえどもご婦人方に対する礼儀は弁えているつもりですからな」
「まあ……ふふ、まだそんなお年ではないでしょう?」
「いいえ、これが最近、めっきり体が動かなくなってきましてなあ……。年は取りたくないものです」
おどけて言い放つ彼、ガイエンはクロムの父、さらにその前王から仕える宮廷医師だった。聖王家の人間のみならず、王城に勤める者も身分の上下に関係なく診察するのでとりわけ下働きの人間からは人気がある。
久々に純粋に笑えた気がして、ほんの少し心が軽くなる。だがガイエンは、彼の軽口に口元へ笑みを刷いたルフレを表情を神妙なものに素早く切り替えじっと見つめてくる。その視線に何か抜き差しならぬものを感じて、ルフレは押し黙った。
「……ルフレ殿」
だがルフレの名を呼んだ後、彼は言うべきか言わざるべきかまだ迷っているようだった。気詰まりで、中身を飲み干したコップを両手で握り締めてみる。
ガラスの表面に、歪んだ気怠げな女の顔が映っている。ガイエンは何か知っているのだ。ルフレの、今のこの状態について。それを聞くのは何だか恐ろしいような気がした。一度聞いてしまえば、もう戻れないような、歪なところでどうにか均衡を保っていた何かがまた、今度こそ手の施しようもなく崩れてしまうような、そんな予感。
そしてガイエンがそれを口にした時、ルフレは始めすぐに理解することができなかった。
「儂が口を挟むことではないかもしれませんが……お腹の子の父親は、このことを知っておるのですかな?」
(え……?)
――――おなかのこの、ちちおや。
ことりと微かに音を立てて手の中のコップが転がった、
「せ、んせ……い?」
ガイエンが紡いだ言葉は、意味をなさない音の羅列としてまずルフレの耳に入り、頭をすり抜けて。呆然と幾度もその音を頭の中で繰り返す内にそれが意味するものが、ルフレの思考に染み入ってくる。
理解できない、否、したくないというかのように震える声音で呼ばったルフレを見て、長く宮廷医師を務める男は大方の事情を理解したらしい。表情をほんの少し痛ましげなものに変え、労りに満ちた口調で、だが偽ることのない事実を伝えてくる。
「……妊娠しておられます。儂の見立てでは三ヶ月、といったところでしょう」
「…………にんしん」
「やはり、気付いておられませんでしたか」
「きづい、て……」
ただおうむ返しにガイエンの放った音を繰り返す。ただ、それだけしかできない。これまで頑強な仮面を被り、どんな時でもうっすらとした微笑を浮かべ本心を覆い隠す言葉を紡ぎ続けてきた唇はまるで役立たずだ。
今のルフレは天才と呼び讃えられた軍師ではなく、クロムと並び称される英雄でもなく、ただの女でしかなかった。
全身が、かたかたと震え出す。
妊娠。子供。そう知らされて真っ先に思い浮かんだのはクロムのこと。……そして、あの冬の夜のこと。当然だ。後にも先にも、ルフレがそういった意味で男に触れられたのはあの晩しかない。そう、クロムにだけだ。彼は離れることは赦さないとひどく昏い目で、けれど荒れ狂う嵐のような激しさでルフレを乱暴に抱いた。
泣きじゃくって必死に抵抗するルフレの腕を縛り上げ、幾度も幾度も愛していると囁いて。そうして強制的に繋がれ貪り尽くされた身体が力尽きて、意識を失う寸前、確かに熱い何かが勢い良く胎内に注ぎ込まれる感覚があった。
(けれど、まさか……たった一度きりで……!)
自らの両腕で細かく震える身体を抱くルフレを、ガイエンは黙って見守っていた。
ルフレに纏わる噂話といえば、英雄と讃える華々しいものの他に、軍の仲間達が戦時中も次々伴侶を迎えていく中、頑なに独身を貫いている、というものもあった。浮いた話ひとつなく、もっとも近しいと言える異性であったクロムとの仲を邪推する人間もいたがそれも笑って否定していた。
そんな女が、今になって恋人もいないようなのに子供を身篭ったのだ。何かあると彼でなくとも思うだろう。恐ろしかった。父親はこのことを知っているのかと先刻ガイエンは問うたけれど、もし、相手が誰なのか尋ねられたら? ……どう、答えればいいのだろう。
頑なに父親の名を告げなければ、狼藉を働かれたのだと思われ、却って騒ぎになってしまうかもしれない。かと言って、誰か適当な相手の名を出してよい訳がない。
「わたし……わた、し……」
何を言うべきなのか考えあぐねている内、唐突に隣の部屋の入り口辺りが騒がしくなった。随分と慌ただしい足音、それから乱暴に扉が開かれる音。そして、この寝室の扉も壊れるのではないかというくらいの勢いで大きく開け放たれた。
「――――――ルフレっ!!!」
血の気の失せた蒼白な表情で駆け込んできたのは、ルフレが今、誰よりも会いたくない人物だった。
まさか走って来たのだろうか、息を切らし正式な謁見の際に着用する正装に包まれた肩を大きく上下させて開かれた扉の前に立つのは聖王クロムその人。彼はすぐに寝台に身を起こしているルフレに気付き、青褪めた顔色のまま大股でこちらへ近付くと、寝台の傍ら、椅子に腰を降ろしたガイエンを押しのけるようにしてルフレを覗き込んだ。
「ルフレ……」
「……へ、い……か」
ルフレの視界を、ひどく悲痛な色をその瞳に浮かべるクロムが覆う。早くいつものように偽りで包んだ完璧な微笑みで、何も心配することはないと彼に告げなくてはならないのに。普段饒舌なルフレの唇は、どうしようもなく震えてただクロムのことを仮面の外れた無防備な表情で呼ぶことしかできない。陛下、とそう口にできたのは奇跡に近い。
「……っ、ルフレ」
ルフレの声音の中に、常に言外に滲ませていた拒絶がないことを読み取ったのだろうか。上体を僅かに傾けたクロムが、弱々しいルフレの呟きに誘われたようにゆっくりとルフレへ向かって手を伸ばす。
所々節くれだった剣士の手。
今でも毎朝の鍛錬を欠かさないざらついたその手に触れて欲しいと何度願ったことだろう。
相棒でもなく、親友でもなく……愛しい相手に触れるように、優しく頬を撫ぜて。それから――――――。
「……っぁ……」
彼の指先が流れ落ちて肩にかかる髪を掠め。頬に触れるか触れないかぎりぎりのところで、ルフレは我に返る。びくりと大きく身を震わすと、弾かれたように彼は差し伸べた手を離した。中途半端な体勢で手のひらを握り締めるクロム。だが距離は開いても、ひたと見つめてくるその眼差しはあの夜と同じように熱く、思わず俯く。
(視線が……痛い……)
それでもクロムの視線はルフレを逃してくれない。ひどく熱いそれはいっそ暴力的なまでにルフレに注がれ肌を灼くようだった。
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