Under the Rose第一部【サイト連載版】 - 11/17

 

 どんなに罪深い人間にも朝は平等に訪れる。
 それを、この数カ月でまたルフレは実感した。窓から差し込む暖かな光を感じながら、笑ってしまうほど清涼な朝の空気に似合わぬ気怠い身体を寝台の上に起こす。どうにも身体が重い。髪を掻き上げて額に触れてみる。寝起きだからかもしれないが、普段より熱い気がした。
「……風邪、でしょうか……?」
 それにしてはここしばらくずっと同じ様子なのが解せない。仕事の量としては、かつてペレジアとの戦の後、復興処理に携わっていた頃の方が凄まじかった。何せほとんど人材がいなかったのだから。
 今では優秀な人間が揃っているし、以前のような激務という訳ではない。ここまで長期的に体調を崩すほどではない筈なのだが。首を捻りつつも身支度の為に紗幕を開いて寝台から降りた。長い毛足の絨毯が素足を包む。
 この部屋は客室の中でも豪華な方で、洗面台も簡素なものでなくきちんとした造りのものが備え付けられている。水も大きな瓶に用意されていて惜しみなく使うことができた。その前に立つと鏡には見慣れたひとりの女の顔が映っている。身体の調子がずっとおかしい所為か、顔色は優れない。

(……しっかりしなさい、ルフレ)

 この部屋を一歩出れば、この気怠げな表情も何かも本心を覆い隠す微笑の下に押し込めて、いつもの通りクロムの前に出なくてはならない。約束をしたのだから、彼と。
 あの一夜の秘め事を忘れてくれたなら今までと変わらずクロムの側にいると。それがどんなにルフレに痛みをもたらすことであっても。

 ***

 食が進まず、結局朝食は柔らかいパンを数口と、海藻のスープをほんの少しすすっただけだった。それも最近顔見知りになった厨房の下働きの少女が、どうにも食の細いルフレを心配していたから無理矢理押し込んだようなもの。焼きたてのパンの香りは常ならば食欲をそそる筈だが、かえって胃から何かがせり上がってくるようで早々にルフレは食堂を離れた。
 何かがおかしい、と思う。
 決してルフレは大食らいではないけれど食事を疎かにしては頭の働きも悪くなるから、どんなに忙しくともある程度の量は食べるようにしていた。でないと、かえって効率が悪いのだ。それなのに、ここしばらく小鳥の餌程度しか口にしていない。というより、口にできないのだ。

(やはりお医者様に見て頂いた方がいいんでしょうか……)

 けれどそう思うと、胸が不安にざわめく。そうしてずるずると思うようでない身体のまま、もうすぐ一月が経とうとしていた。

 一度部屋に戻ってから、クロムの執務室に赴く。先王のエメリナ、そのまた前のクロムの父と、歴代の聖王がその在世の間過ごした部屋を、クロムもまた書類仕事を片づけたり、報告を受ける時に用いていた。
 歴史のあるイーリスの王城の中でも、とりわけ重厚な扉には決して華美ではないが王の執務室たるに相応しい装飾が施されている。それを視界に収めながら相変わらず鈍い痛みを訴える頭を振り、表情を繕って扉を叩く。すぐに「……入れ」というクロムの声がした。厚い扉越しなのでくぐもっていたが、確かに入室の許可であることは間違いない。
「失礼します。……おはようございます、陛下。フレデリクさん」
「……ああ」
「おはようございます、ルフレさん」
 いつものごとく慎ましやかな笑みを浮かべて朝の挨拶をするルフレに、クロムは言葉少なに応える。傍らに立つフレデリクは、執事と見紛う手慣れた手つきで主君の為に香草茶を淹れているところだった。
 このごろ、念願叶って法務官としての第一歩を踏み出したマリアベルと盛んにおいしい茶の淹れ方やら、疲れに効く香草茶の配合のしかた等で話を弾ませて互いの伴侶をやきもきさせているらしい彼は、ことあるごとにこうして日頃の鍛錬(と言っていいのだろうか)の成果を発揮しようとする。
「……っ」
 穏やかな香りは気分を落ち着かせる香草のもの。決してむせ返るようなきついものではないのに、やはり朝食の時と同じように鼻孔をくすぐったその香りに、ルフレは口元を覆いたくなったがクロム達の前だ。辛うじて堪えた。しかし強張った表情までは隠しきれなかったらしく、クロムは眉根を寄せる。
「どうした?」
「いえ、何でもありません」
「何でもないという顔じゃないだろう、それは」
「……少し、風邪気味なんです」
「それはいけません。部屋で休まれていた方がよいのではありませんか?」
 人一倍他人に気を遣うフレデリクが、大変なことだとこちらを見ているが急いでにこりと何でもないように笑ってみせる。少しどころでなく、起床した時よりずっと身体は重くなっていたのだけれど、それを悟られたくはなかった。
「本当に、ちょっと怠いだけですから、心配なさらないで下さい。さあ、ペレジア国内のお話、まだ詰めていませんでしたよね。早く結論を出してしまいましょう」
「……ルフレ……だが、」
「“陛下”」
 尚も言い募るクロムをルフレはにこやかなけれど有無を言わせぬ笑みで遮る。
 あの夜からこちら、ルフレは彼のことをもう以前のように名前では呼ばなくなっていた。それは自分への戒めであると同時に、強引にルフレを組み敷いて愛しているのだと幾度も囁き込んだクロムへの牽制でもあった。
 
『だから陛下も、一夜の夢だと思ってお忘れ下さい』

 そう、冷たく突き放しはしたけれど、そして約束通り、彼はあの一夜のことを忘れたように振舞おうとしていたけれど、それでも時折、どうしようもなく焦れたクロムが隠しきれない熱の篭った眼差しをルフレに向けるのだ。ちょうど、今のように。
「私は、大丈夫ですから」
 やわらかな微笑を口元に刷きながら、言外にそれ以上触れないで欲しいと訴える。
 クロムの中で、あの晩の出来事は、離れて行こうとする半身を一方的に力づくで犯し、傍らに繋ぎ止めた、そのようになっている筈だ。彼の罪悪感を煽るように、わざと怯えた振りまでしてみせた。
 だからルフレが強く出れば、クロムはそれ以上何も言ってはこない。言えるものかと彼は思っているだろう。彼は喪うことを恐れている。故に、ルフレの求めに応じざるを得ない。
「……分かった。だが、無理はするなよ」
「よろしいのですか、クロム様?」
「……ああ」
 神妙な表情で主君に問うフレデリクは、クロムとルフレの顔を交互に見比べていたが、やがて諦めたように嘆息すると、会議室に行くまでもないごく内輪での話し合いの時などに用いる長椅子と背丈の低い卓が並べられた一角へとルフレを誘った。
 

 ***

 やがて、近頃ペレジア国内を騒がせている反イーリス派の対応について話し合いが始まったが、表面上は冷静に、淡々と資料を提示し議論を進めながらルフレはこれはまずいかもしれないと思い始めていた。
 原因が分からない重い身体は、時間が経つにつれますます気怠さを増している。長椅子に沈み込み、背もたれに全身を預けたくなる衝動と必死に戦っていたがそろそろ平静さを装うのも限界だ。

(ああ、でも……もう少しで謁見の時間が入りますから、それまでは……)

 どうにか耐えようと二人に、特にクロムに悟られぬよう小さく息を吐いて、ともすれば力の抜けてしまいそうな身体に鞭打ち背筋をしゃんと伸ばす。だがルフレがどうにか持ち直したところで、何の前触れもなくクロムが立ち上がった。
「……陛下?」
「いや……少し小腹が空いたと思ってな。厨房から何かつまめるものをもらってくるから、少し休憩にしないか?」
 随分唐突な話だ。「朝食をあんなに残されるからですよ」とフレデリクが小言を口にすればバツが悪そうに頭の後ろに手をやる。珍しいことだった。体を動かすことが好きなクロムは毎朝の鍛錬を欠かさない。動くということはそれだけ補給しなくてはならないのだ。だから彼は普段、それなりの量を食べている筈なのに。
「その、今朝はたまたま食欲がなかったんだ。フレデリク、お前は飲み物でも用意しておいてくれ」
「かしこまりました」
「……あ、厨房に行かれるなら私が……!」
 腹が減ったと厨房を訪う聖王というのもどうなのか。そう思ったルフレは自分の状態にも構わず勢い良く立ち上がってしまった。
 すると途端にぐにゃりと世界がいびつに歪む。しまったと自分の迂闊さを呪うよりも早く、身体が傾いだ。暗転する視界。
 力強い腕がルフレを抱きとめたが、それが誰のものなのか思い巡らすことすらできない。ただ、引きずり込まれるように闇へ闇へと落ちていく。

「――――っ、ルフレ?! おい、しっかりしろ! ルフレ!!」

 耳元で必死に叫ぶ誰かの声が聞こえる。そう感じたのを最後に、ルフレの意識はふつりと途切れた。

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