百億の昼、千億の夜
穏やかな寝息を立て始めたルフレに、クロムはうっそりと微笑んで髪を撫ぜる手の動きを再開した。自分とは違い癖がなく、さらさらと指の間から零れ落ちていってしまうそれを何度も何度も掬い上げては指に絡め、また放す。あくまで彼女の眠りを妨げないように優しく、優しく。
こうして彼女を抱いたのは二度目だ。けれど一度目のあの冬の夜とは何もかもが違う。あの晩、クロムの胸を占めていたのはあっさり自分を捨てて行こうとした彼女への昏い怒り、もはや抑えることもできなくなっていた劣情。泣きじゃくって拒絶の言葉をうわ言のように紡ぎ続けるルフレに耐え切れず、何度も何度も唇を塞いだ。
たとえ未来で誰と結ばれていようと、今この時お前を抱いているのは俺だと、お前は俺のものだと醜い独占欲をぶつけた一夜、クロムの中にあったのは愛した女に同じように愛し返されないという絶望ばかり。
だが今、クロムはこの上もなく満たされて幸福だった。ルフレはあの夜のようにずっと透明な雫を溢していたが、それが拒絶故のものではないと知っていたから啜った雫は大層甘かった。
赤子を産んでひと月ほどしか経っていない彼女に無理はさせられないと、愛撫も控えめにし繋がっていた時間も短かったが、それでも以前と違って奥へ奥へと誘うように柔らかくクロムを包み込んだルフレの中は熱く、とろけるように心地よくて。
産後に変化した身体を彼女は随分と気にしていたが、恥じらうその姿すら堪らなかった。
同じ行為なのに、彼女に受け入れられていると分かっているだけで、あいしてますと消え入りそうな声で囁かれただけで、もっととせがむように背に細い手が回されただけで。これほどまでに違うのかと目眩がしそうだった。
すべてを捨てて来た。そう、すべてを。
今のクロムの手に誓いの指輪は嵌っていない。神剣と同じくイーリスに置いてきた。愛すると決めたのは、生涯を共にすると決めたのはルフレだから悔いはない。しかし自分が死に、絶望に染まった未来を変えるべくただひたすらに駆けて来たルキナ、そして将来の女王として周囲から寄せられる期待にいじましいまでに応えようとする小さな<ルキナ>のことを思えば、胸中は重苦しいものに覆われる。
あまりに身勝手な己の決断で、聖王という力強い支柱を失ったイーリスという国、姉の愛した祖国がどのような道筋を辿るのか。それを考えない訳ではない。それでもルフレのいない世界などクロムにとって虚ろでしかなく、今更手放すことなどできはしないのだ。
何より今、クロムは幸福だった。どうしようもなく。たったひとりの愛しい女の為に聖王として導くべき民を捨て国を捨て、玉座を捨てた。到底許される話ではない。それなのにそうしたすべての葛藤を押しのけてしまえるほど、圧倒的な幸福感が身体中を包み込んでいた。
「……ルフレ」
そっと名を呼び、髪を梳く手は止めぬまま寝息を漏らす可憐な唇へ、今宵何度目になるか分からない口付けを落とす。もっとも、彼女を起こさないようにあくまで触れるだけだが。
「ぅ……ん、くろ……むさ、ん……」
先刻まで睦み合っていた際の扇情的な表情とは真逆の、あどけない寝顔で夢の世界を彷徨うルフレは、幼い子供のようにクロムを呼んだ。そんな呟きにすら煽られ、熱を持つ自分の欲深さに苦笑してしまう。
ずっと己の想いに気付かず、ルフレを苦しめ続けてきたというのに。彼女の本当の心を知り、受け入れられた途端にこれだ。
(これでは……マークに釘を差されても文句は言えんな……)
ルフレには見せず仕舞い込んでしまった書き付けでは、くれぐれも無理をさせないようにと、くどいくらいに念を押されていた。具体的に何をどう、無理をさせないのかは書かれていなかったが、暗に今のこの状況を指しているのだろう。
善処したつもりだったが、やはり堪え切れずうなじや胸元には朱い印が付いてしまっている。ルフレからは見ることができない位置にあって、多分すべてを服では隠せない。それはおそらくマークへの嫉妬もいくらか含まれていたのかもしれなかった。
ギムレー消滅から数年経ち、フェリアの遺跡に現れた頃は背丈も低く子どもっぽかったマークも、今では端正な面立ちの青年になっていた。そんな彼が消滅前の姿のまま戻って来たルフレと寄り添うと、親子と言うよりはまるで恋人のようで。
ルフレに話せば自分の息子相手に何を、と笑われてしまうだろう。
そう、息子。マークはクロムの息子なのだ。もちろん実際のマークの父親である『クロム』は、ルキナたちが来た未来で覚醒したギムレーの器となった、もう一人のルフレに殺されている。だから本当のところは親子というと違うのかもしれないが、妬心を抱くのとはまた別にやはり慈しみのような情は湧くし、幸せにしてやりたいと心から願う。
マークの方ではどうだろう。ルフレが倒れた日、廊下でたまたま行き合い言葉を交わした時のことを思い返すと、彼はクロムを恨んでいるのかもしれない。いや、むしろ恨んで当然だ。この世界でも、未来でも、どちらのクロムもルフレを正妃として迎えていない。それはつまり、どんなに彼女を愛していようと神の前で正式に誓い合った夫婦として、何ら憂いのない幸福をもたらすのは叶わないということだ。
マークは母を大層尊敬し慕っていたから、そんなクロムを父と思ってくれるかどうか。
けれど母の為にすべてを捨ててくれと懇願したのは他ならぬマークなのだ。今すぐは無理でも、いつか父さんと呼んで欲しい。自分勝手な願いだが、クロムはそう思わずにいられなかった。
(……そういえば……あの赤ん坊の名前、聞くのを忘れてしまったな)
ここではない別の部屋で、マークと一緒にいるのであろうこの時代の彼。同じ名前にはおそらくしないだろうが……。まあ、それもまた明日聞けば済むことだ。もう、ルフレはどこにも行かない。消えたりしない。いつでも彼女に尋ねればいいだけのこと。
ルフレのものになったこの命が潰えるまで、いいや魂だけになったとしても自分たちは共に在り続けるのだから。
百億の昼が、千億の夜が過ぎても永遠に離れない。いつまでも傍にいる。
クロムは、ひどく幸福だった。たとえこの幸せが、決して赦されない決断の果てにしかないものだとしても。祖国に乱を呼ぶものだとしても。
しあわせ、だった。
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