昼間は碧空で輝いていた太陽は、赤々と燃えながら視界一面に広がる海へと飲み込まれていくようだった。それに伴って、本来は澄んだ蒼をたたえている筈の海面も赤く染まっている。ギムレーをこの手で倒して彼の目の前で消えたあの日を思い出させる色だ。
寄せては返す規則的な波の音に耳を傾けながら、はしゃぎ過ぎて疲れたあまり膝の上で眠ってしまった<マーク>の髪を優しく撫ぜてやりながら、ルフレは砂浜の上でぼんやり赤い世界を眺めていた。
これはあなたが流させた、そしてこれから流させる血の色よ、と誰かが囁いたような気がしてぶるりと寒くもないのに思わず身震いをする。舌っ足らずな幼い声がして、起こしてしまったかと案じたが「とーさん、にーさん、ぼくまだあそぶ……」と呟いた後はまた静かな寝息を立て始めたので寝言だったらしい。少しだけ微笑って、幸せな夢が見られるようにと幼児らしくふっくらとした頬に唇を落とす。
<マーク>は本当にこの砂浜で遊ぶのが好きだ。波の動きや、土の地面とは異なる歩き心地の砂浜が面白いらしく、毎日浜辺へ行こうと誘われる。ついこの間生まれたばかりだと思っていたのに、もうひとりで走り回るようになり、ませた口調で一日喋り通す。
星の綺麗な夜に産んだ赤ん坊がこんなにも大きくなったのだ。それだけ――イーリスの緊迫した情勢が悪化するだけの時間が過ぎた、ということだろう。
――――イーリスで、遂に内乱が始まったそうですよ。
厳つい顔つきの割に、どこか小心なところのある馴染みの商人が、集まった村人たちへ商品を手渡しがてら話しかけていたのを聞いて、とうとうこの日が来てしまったのだと思った。いきなり握った手の力を強められて<マーク>が不思議がった他は、どうにか他の住人たちに動揺を気取られなかったと信じているけれど。
邪竜を倒した英雄である聖王を失えば、遠からずこのような結果になることは目に見えていた。平和を愛し、対話を説き、けれどそれ故に隣国ペレジアが王都まで侵攻することを許してしまった聖王エメリナの記憶はまだ人々にとって新しい。幼い女王を戴くことをよしとしない一派が、せめて同じ幼い君主を仰ぐならフェリアに嫁いだリズの王子を、と考えることくらい分かっていた。自分は、クロムがすべてを捨ててもお前の為に生きると言ったあの夜、既に今のイーリスの状況を予測していたのに。
(くろむ、さん……)
心の中で呼ばうのは、それでも、たとえ彼の国に乱をもたらすとしても諦められなかった、共に在りたいと望んでしまった半身の名だ。彼に抱き締められながら迎える朝はとても幸福で、幸福過ぎて恐ろしくなる。
この村で過ごした、愛するひとと、彼との間に生まれた息子と、そして時折ふらりと訪ねて来るもうひとりの息子との穏やかな日々。こんなしあわせが、自分に許されていいのかと。けれどクロムの手を離すことができず、時折漏れ聞こえてくるイーリスの情勢――クロムはなるだけルフレをその話題から遠ざけようとしていたが、人の口を塞ぐことはできない――が次第にきな臭さを増していくのに、そこから目を背け続けた。
その罪深さをルフレに突き付けるように、沈む陽はますます血を思わせる朱さに濃く色づいた光を投げかける。神竜に愛された聖なる国から、王を奪った、そして愛しいひとへ祖国を、家族を捨てさせた女の面へ。
日の傾き具合から見て、クロムがそろそろ帰宅する時間だ。夕食の支度はもう終わっていたけれど自分と<マーク>が家にいなくては彼が心配してしまう。それでもルフレは動けなかった。朱い色に絡め取られてしまったように。或いは、燃え落ちる夕陽の中から自分を弾劾する声を聞いてしまったように。
だがルフレが再び身を震わせかけたのとほぼ同時に、ふいに後ろから抱き竦められた。何の気配も感じられないままいきなり拘束を受けて、一瞬全身が強張ったがすぐに逞しい腕の持ち主が誰なのか悟り、身体の力を抜く。
「……探したぞ」
低く耳に快い声。表情は見えないけれど、きっと心配そうな表情をしているのであろうことが声音からも伝わってきて、ルフレは「すみません」と小さく謝り、膝の上で眠る<マーク>に触れていない方の手を、そっとクロムの腕に添えた。
しかしクロムはまるでルフレが夕陽に連れて行かれてしまうとでも言うかのように、ますます腕の力を強める。今日も日中ずっと身体を動かし続けたのだろう、そうすることで彼の汗のにおいが強まって、ルフレを少しだけ日常へと引き戻す。
「海を、見ていたんです。<マーク>がまた砂浜で遊びたいと言ったので連れて来てあげたんですけれど、すぐ疲れて眠ってしまって。それでここに座って、海が……昼間はあんなに青いのに、何だかすごく赤いな、と思って……」
なんでもないことのように話そうとしていたのに、途中で言葉に詰まってしまった。視線を俯けて口ごもる彼女を抱き締めてクロムは黙っている。何かを話さなくてはと口を開きかけたところで、彼はさり気のない口調で「村長たちに、聞いた」とただそれだけを耳元で囁いた。
「あ……」
何を、とは尋ね返さない。平静さを装った口調とは裏腹に、クロムの腕が微かに震えたので、行商人が狭いこの村にもたらした、遠い異国の内乱が始まったという、大半の村人たちにとっては噂話にすぎないあの話を彼も知ったのだと分かってしまったからだ。
「クロムさん……」
今度はしっかりと声に出して愛しい男の名を呼び、ルフレは項垂れる。本来ならば、このひとはこんな辺境の村でただ彼女と息子の為だけに一生を費やしていい人ではないのだ。ルフレと関わらなければ、或いはこんなにも互いに離れがたくなってしまう前に距離を置いておけば、クロムはきっと歴史に残る偉大な聖王として後々の世まで語り継がれただろう。
彼の運命を狂わせたのはルフレだ。ならば彼女がギムレー教の教主にして、ペレジアの国王でもあったファウダーの娘だと何処かから知って、聖王を誑かした魔女だと罵る者がいるというが、それもあながち間違いではない。
「お前の、所為じゃない。お前の所為じゃないんだ、ルフレ」
それなのにクロムはルフレに言うのだ。かつて頻繁に見ていた夢、ギムレーに取り込まれてしまった未来の世界での『ルフレ』へ、もうひとりの『クロム』が最後に告げた言葉のように。
「でも、私……」
「分からないようなら何度でも言うぞ。お前の所為じゃない。責めを負うべきは俺だ。だから……泣くな、ルフレ。泣くな」
そうして彼はいつの間にか両目から静かに溢れ出していた涙を唇で掬い、そのままゆっくり口付けた。それでも次々と溢れる雫は止まらず、何度も角度を変えて繰り返されるその口付けは涙の味がする。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……)
すべてを捨てさせたクロムにか、父親を奪ってしまった二人の王女にか、それとも国を荒らしてしまったイーリスの民にか分からぬまま、誰にともなくルフレは謝り続けた。
けれど度し難いことに、今のこの暮らしが許されるべきではないものだと知っていながら、彼女は尚も幸せだった。どうしようもなく。今となっては、彼からどうして離れることができたのか信じられないほどに、ルフレにとってクロムはすべてで。
彼の手を取ったあの晩、『俺のすべてはお前のものだ』と誓いのように囁かれたが、それならばルフレのすべてはとっくに彼のものだ。半身、という言葉は結局正しかったのだろう。自分たち二人は、互いが互いの心臓のようなものだった。再び失えば、今度こそひとりで息ができるかどうか分からないくらいに。
だからルフレは、決して許されることのない罪を抱えながらこれからも生きていくだろう。我が子と共に。クロムと共に。己が存在と引き換えにしてでも守りたいと願い、荊の痛みに苛まれながらそれでも狂おしく想い焦がれる気持ちを捨てられなかった、最愛の半身といつまでも、永遠に――――。
***
マルス、否、ルキナは金糸で豪奢な刺繍が縫いとってある将校服に身を包み、その生地の上質さと装飾の華美さに居心地の悪さを感じながら、野営地の外れにある木立を歩いていた。何の因果か、再び仮面を被り男装をして女王軍の指揮を執ることになってしまったルキナだ。イーリス王家の遠縁の人間だとフレデリクが触れ回ってしまった為に、王族に準じた扱いを受け、有事があってはことだからと護衛の人間もついているが今はひとりである。
彼女の手には真白い薔薇が一輪、手折られたばかりといった風情で夜風に揺れていた。月明かりを頼みとする他ない暗い夜道であっても、たおやかな花はその白さで闇から浮かび上がるようだ。
白い、薔薇。
棘が丁寧に取られた薔薇を見ていると、もう随分と遠くなってしまったような気がするあの日のことがまざまざと思い出される。珍しくはしゃいでいた小さな<ルキナ>の笑い声、可愛らしい花冠。そして……『彼』の、ことも。
いかに腕に覚えがあるといっても、今や幼き女王となった<ルキナ>から一軍を託された身。軽率な行動は慎むべきだ。それなのにたったひとりで、こんな夜更けに人気のない場所へと向かっているのはこの薔薇と、それを手渡されて、微かに香る甘い芳香を嗅いだ途端、あまりにも鮮やかに蘇った記憶の所為である。
新しい女王の即位を認めず、あまつさえ国宝の炎の台座まで奪っていった反女王派の勢力との小競り合いは毎日のように続いていたが、戦況は兵力で劣るこちらの方が分が悪かった。今夜も、これぞという策は議論を尽くしても出ることはなく。けれど何かいい方法がある筈だと、ひとり地図を睨みながら熟考していたところ、誰も天幕に入れないようにと言い含めていたにも関わらず、ひとりの兵士が『これを渡して頂ければ分かる、と言って聞かない者がおりまして……』と、無骨な手には不釣り合いな白い薔薇を携えて現れたのだ。
兵士によれば、その人物はフードを目深に被っていて人相は分からなかったものの、声は男のもので、見張りの兵を捕まえてこの薔薇を指揮官に、と言ったらしい。怪しんだ兵は当初まったく取り合わなかったが、男は大層口がうまく、いつの間にかルキナへ薔薇を届けることを了承させられてしまったらしい。
もし、本当に彼ならば。それも頷ける話だ。軍師を目指していただけあって、話術、というか相手を自然と自分の側へと引き入れる術には長けていた。けれどそんな筈は、と彼女の中のもうひとりの自分は否定してかかる。
(あれから……もういったい、どれだけ時間が経ってしまったと……)
彼の記憶を呼び覚まされることはルキナにとってひどく苦しい。消えてしまった父を、国を捨て玉座を捨て民を捨て、そして家族をも捨て、ただの男となってルキナが選ばなかったものを選んでしまったひとを思い出させるからだ。
……そう、恋という名の付いた呪わしい激情を。
そして呪わしいと、厭わしいと目を背けながら、白薔薇によって呼び起こされた己の胸の内にあるのは、父を変えてしまったその情と通じるものがあり、それがますますルキナの胸を苛む。
(あなたに今更会ったとして、何を言えば……。私はあなたを選ばなかったのに。あなたは私を――――)
その先を続けようとして、自分の思考に驚きしばしその場で立ち尽くす。今、何を考えようとしたのだろう? 恐ろしくなってルキナは一度大きく呼吸する。夜のひんやりとした空気が入り込み、少しだけ落ち着いた。
(……違う、違います。私はもう彼に会いたい訳じゃない、ただ確かめたいだけなんです。そう、それだけ)
自分にそう言い聞かせて再び歩き始める。ほどなくして少し開けた場所に出た。周囲に人影はないが彼女の左奥、木がより密集している方角から明らかに人のものである気配がする。しかも、よく見知った。
ルキナは知らず知らずのうちに、縋るように手の中の薔薇を握り締めていた。紡ごうとした言葉が喉につかえる。影の中に潜む相手に気取られぬよう一呼吸置いてから、今度こそ大声ではないものの、よく通る声で気配のする方へと呼び掛けた。
「そこにいるのは分かっている。出て来るんだ」
口調がマルスのままなのは、万一花を寄越した相手が彼女が思うような人物でなかった場合、男として通している女王軍の指揮官が女だった、などという話を流布されないようにする為。声も、わざと『ルキナ』の時より低くしている。
しかしそのような配慮は無用だった。ルキナの呼び掛けとほとんど同時に、月明かりでも照らせぬ濃い闇から滑り出るようにしてフードを目深に被った長身の人物が姿を現したのだ。
「――――それが、ジェロームさんに貰ったっていう仮面ですか?」
彼は記憶に残るものより僅かに低い気がする落ち着いた声音でそう言うと、ルキナの剣の間合いからちょうど一歩離れた所で止まった。口をつぐんだまま何も返せないでいるルキナへ、もう数年も行方をくらませていたとは思えない様子で話し続ける。
「男物の服も凛々しくて素敵だし、事情は分かりますけどもったいないなあ。ルキナさんの綺麗な目が見えないですよ。髪はまさか切っていないでしょう? 癖っ毛なんだって悩んでましたから、男装することになったのを幸いと、ソワレさんみたいにばっさりいっちゃうんじゃないかって僕心配で……って、あれ、ルキナさん? 僕のこと忘れちゃいました?」
おどけた風に尋ねられても、久々に耳にする彼の声に、かつて何度もルキナを掬い上げてくれたそれに、言葉が出てこない。無言のままのルキナに彼は苦笑して、「顔を見ればさすがに思い出しますかね?」とゆっくりフードを外した。
月の光で微かに明るく輝く青い髪。どこか懐かしさを覚える瞳は深い青。悪戯っぽい表情はそのままだが、顔付きはいくらか大人びたように感じられる。
「……マー、ク……」
辛うじて絞り出せた名に、マークは感情を覗かせないあの笑みで柔らかく目を細めた。風が吹く。そよぐ程度の弱い風でも手折られた白薔薇はその花弁を揺らし、甘いにおいが香る。青い視線が絡み、ふたりはそこだけ時が止まったかのごとくしばし言葉もなく見つめ合った。
これが、二人の再会。印を持つ王女と、印持たぬ王子の、史書では記されぬ物語の始まりである。
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