あいしてる
かあさん、と静かな声で呼ばれてルフレは突如現れた季節外れの光から、未来から来た成長した息子へと視線を移した。急にぐずり出した<マーク>を抱いて子守唄を歌っていた彼は、とても不思議な表情をしている。今にも泣き出しそうで、けれどこの上もなく優しく、透明な微笑みを浮かべていて。
こんなマークの表情を見たことが今まであっただろうか。少なくとも、咄嗟に思い出せる範囲の記憶の中にはなかった。どうして急にこんな顔をと思いながら、ルフレを呼んだのに視線が合わさっても無言のままの彼を促すべく、「……マーク?」と呼び掛けると、出会った頃とは違って彼女を見下ろすまでになった息子は一歩、こちらに歩み寄った。
「母さん、僕<マーク>と一緒に少しその辺りを散歩してきますよ。そうすれば<マーク>も落ち着くでしょうし」
「え? それなら私も……」
「いいんです。母さんはここにいて下さい。すぐに戻って来ますから」
「でも、」
「僕だって<マーク>と男同士の話をしたいことがあるんですよ。母さん、いつも<マーク>にべったりじゃないですか。たまには僕にも独占させて下さい」
生まれたばかりの赤ん坊に母親の自分が付きっきりなのは当然だし、そもそもまだ会話を成立させることなど到底できない<マーク>と、どうやって男同士の話をするというのだろう。
第一、こんな人気のない夜の波止場にひとりきりになってしまうのは少々不安だった。ならず者の一人や二人、以前のルフレなら軽くあしらえる自信があったけれど、産後間もない今は体力も落ちているし、ずっと剣も魔道書も触っていないのだ。
訳の分からないことを言い出したマークに困惑し、また一人でこの場に残る不安もあって、どうにか着いて行こうと口を開きかけたルフレだったが、その前にまたかあさん、と呼び掛けられた。
「どうしましたか、マーク?」
「……母さんの、本当の望みってなんですか」
「本当の、望み?」
また脈絡もなく話が飛ぶ。けれどそう問うたマークの眼差しは真剣そのもので、なおざりに答えてはいけないような気がした。
本当に望むこと。
問われて瞬間的に脳裏を過ぎった青い影に、どうして自分はこんなにも度し難いのかと内心自嘲する。
空っぽだったルフレにすべてを与えてくれた彼。美しい蒼天を背景に、優しく微笑みながら手を差し伸べてくれたあの時の光景を、まだ昨日のことのように思い出せる。しばらくそうとは気が付かなかったけれど、多分出会った時には既に彼へ恋していた。惹かれていた。どうしようもなく。……きっと、闇が光に焦がれるように。
まさしく彼はルフレの光だった。だから『彼女』の絶望も分かるのだ。
マークがいた未来で彼を産んだもうひとりのルフレ。自分の記憶が失われているのはこの世界に現れたギムレーの影響だったというから、彼女にはおそらく自分が何者か分かっていたのだ。それでもなお、赦されぬ相手を想い。それなのに結局己の運命に抗えず、愛する相手をその手で殺めてしまった、光を失ってしまった彼女の絶望が。そして同時に、ひどく呪わしいことだが邪竜に喰い尽くされる寸前の、彼女の歓喜も。
最後の決戦でギムレーの中に取り込まれかけた時、彼女の記憶も視えた。感情も感じた。その最後の記憶で、彼女は確かに喜んでいたのだ。愛する男、しかし自分ではない女のものであり、イーリスという国に住まう民すべてのものでもある、聖王の座にあった男をようやっと自分だけのものにできたことに。
ルフレの中にも同じような欲がある。あの冬の夜、愛しているのだと囁かれてこの身は浅ましくも歓喜した。初めて男に抱かれる苦痛も慮らない荒々しい愛撫と律動に、自分のものだと刻み込むように全身に印を付けて回った舌と唇に必死に抗いながら、それでも心の奥底では想う相手に貪るように求められていることに、喜びに打ち震えていた。
けれど彼は王だった。だから冷たい仮面を被って彼を拒絶し、あなたのことを愛していないのだと告げて。身篭っていることが明らかになってからは、彼に知られぬようにと国を出て。望んではならないとずっと自分を戒めてきたが、それでも消しきれない想いが今でも彼を求めている。マークの問いはそれを改めて彼女に突き付けてきた。
彼が恋しい。彼のぬくもり、彼の声、彼の手、彼の微笑み、そのすべてが欲しい。
しかしルフレの望みが叶えられるということは、神竜に愛された聖なる王国から王を、英雄を奪うこと。そして聖王妃からは夫を、二人の青髪の王女からは父を奪うことだ。
誰も幸福にならないそんな望みは、決して叶ってはいけない。
今、自分が大切にしなくてはならないのは、聖王家の純血を受け継ぎながら王子としての何一つ不自由のない暮らしを与えてはやれない、実の父と親子だと名乗り合うことすらできなくさせてしまった、二人の我が子。この子たちの幸せをまず第一に考えなくてはならない。そう思ったのは本当だ。だから。
「……あなたたちと一緒に、穏やかに暮らせることですよ」
そう、微笑って告げたのにマークはゆっくりと首を振った。
「それは嘘ですよ、母さん」
「え……?」
「母さんの本当の望みは、あなたが心の奥底で一番求めているのはそうじゃないでしょう?」
「そんな、私は……!」
ルフレはマークの青い瞳を見つめて必死に違うのだと伝えようとする。私が一番大切なのはあなたたちの幸せです、と。だが彼女の言葉を封じるように、深い藍色の髪を揺らして歩み寄ったマークは赤子を抱いたままかがみ込んで、何か神聖なものに触れるかの如くそっとルフレの額に口付けた。
「まー、……く?」
「前にも言いましたよね。何があっても、母さんがどんな選択をしたとしても、僕は母さんの味方です、って。……だから、もういいんです。もう、いいんですよ、母さん。あなたは、あなたの望みを叶えて下さい。しあわせに……なって下さい」
呆然とするルフレを見下ろして、息子はやわらかく、やさしく微笑む。名を呼ぶと、少しはにかんだ様子を見せ、「<マーク>の分も、と思ったんですが……。やっぱりこの年でこういうことをするのは恥ずかしいですね」と呟いた。
そしてそのまま「じゃあ、そういうことですから!」と、何がそういうことなのか分からないが照れ隠しのように早口で告げて足早に歩き去ってしまう。我に返った時にはもう遅かった。既に長身の姿は大分先の角を曲がろうとしており、呼び止める前に消えてしまった。
***
「マーク、どうして……」
ひとり夜の波止場に取り残されたルフレは、ふわふわと漂う光に取り囲まれながら未だに混乱していた。我が子に告げられた言葉の真意が分からない。
あなたの本当の望みを叶えて下さい、とマークは言った。幸せになって下さい、とも。
けれど今、自分は充分幸せなのに。恋したひとと結ばれることこそできなかったが、赦されぬはいえ彼との子を授かって、未来から来た成長した息子も何くれとなく彼女のことを気遣ってくれる。
(それとも――――)
それとも、マークは気付いてしまったというのだろうか。あなたたちの幸せが何より大切なんですと、言葉ではそう告げながらも、まだ心の一番深い場所では己の半身を求める、身勝手な女の想いを。
だが今になってイーリスに戻ることなどできない。姿を消してから半年以上過ぎてもなお、自分を探し求めている『彼』。それは確かに喜ばしいことではあったのだが、聖王たる彼の立場を思えば自分の望みに素直に従うことなどできはしない。
だからマークがどんなに母のことを思ってああ言ってくれたのだとしても、ルフレの望みは叶えられてはいけないのだ。薔薇の茂みの下の暗がりに隠した秘密は、ずっと秘密のままにしておかなくては。
ようやく落ち着いて、決意を新たにしたルフレの頬を、夜風が掠めていった。何故だか急にそれが冷たく感じられ、肩を震わせたルフレの背後でかつんと靴音が響く。マークが戻って来たのだろうか。
(すぐ戻るとは言っていましたけれど、随分早いですね)
そう思いながら振り返ろうとしたルフレの耳に届いた声は――――――。
「……まるで光の精みたいだな」
低く低く、ひどく心地の良いその声を聞いてルフレは我が耳を疑った。遂に自分は幻聴まで聞こえるようになったのかと思ったのである。しかし、まさかと思いつつゆっくり声のした方へ身体を向けると、次は自分の見ているものまで信じられなくなった。
何故ならそこにいたのは、この場に決している筈のない人物だったからだ。
ふわり、とまた彼女の視界の端で暖かな光が舞う。だが季節外れのその光を訝しがることすら今のルフレにはできなかった。ただただ、少し離れたところで暗がりに佇む長身の人影を凝視している。
深い藍色の髪と瞳。星明かりも遮られる物陰に立っていても見間違えようもない。彼女を見つけ、 彼女が愛し、彼女を愛した男。互いに半身と呼び合った彼。イーリス聖王クロムの姿を。
彼はしばらく何も言わず、身動きひとつせずその場にいた。ルフレも息を呑んで一歩も動けない。一言でも発したら、僅かなりとも動いたら何かが壊れてしまうような、決定的な間違いを犯してしまいそうな恐ろしい予感に捕らわれ、動けなかった。
クロムの姿をしたものとルフレは、しばし息の詰まりそうな静寂の中見つめ合っていたがいつまでもそのままではいられない。青髪の青年は、ルフレ、と静かに、けれど危うい熱を孕んだ声音で彼女の名を呼ぶと硬骨な音を響かせて一歩、こちらへ足を踏み出す。ただそれだけの動作だが、ルフレは世にも恐ろしいものを目にしたように大きく全身を震わせた。そのまま踵を返そうとするが「待ってくれ!」と呼び止められ動きが止まってしまう。そう大声ではなかったが、まるで魔法に掛かったようにそれ以上足を動かせなくなったのだ。
「……待ってくれ、ルフレ。お前を……連れ戻しに来た訳ではないんだ」
「……?」
恐る恐るまたクロムへと視線を戻して気配を探れば、彼の言葉の通り周囲に兵士もいないようだし、以前のように強引に距離を縮めようという訳でもなく、一定の距離を置いてくれていた。そのことに少しだけほっとしたが、同時に、では何故彼がここにいるのかという疑問が湧く。
この港街はイーリスの聖都からは少し距離がある。聖王として多忙な毎日を送る彼が、そうおいそれと訪れることができる場所ではない。時間が経っていくらか落ち着いたとはいえ、ペレジア国内では反イーリス派の動きもまだ危うい。流石に腕の聖痕は外套に隠れているから、一見して彼を聖王クロムだと見破る者はいないだろうが、そうだとしても――――。
(え……?)
ようやくじっくりと彼の全身を眺めることができたルフレは、あるひとつの恐ろしいことに気付く。クロムは腕の聖痕を隠すように外套を羽織っている。それはいい。冬の気候で、腕を剥き出しにしていてはむしろおかしい。外套や下衣、革手袋やブーツが彼の身分を考えると質素過ぎるように思われるのも、野党に目を付けられぬようにとの配慮なら納得がいく。だがひとつだけ。ひとつだけ、どうしても腑に落ちない違和感があった。
彼は、彼は何故。
「ファルシオン、は……」
からからに乾いた喉を震わせて、ようやっと紡いだ言葉はひどく掠れていた。だが言わんとしたことは伝わったようでクロムは静かに微笑む。
見たところ、彼が腰に吊るしているのは何の変哲もない剣だ。ファルシオン、彼が初代聖王の血を継ぐ確かな証である、神竜ナーガの祝福が与えられた神剣ではない。それがどれだけ異常なことかルフレは知っている。
クロムがかつて語ってくれたところによると、彼は十六で成人すると同時に、正式にファルシオンの継承者となった。そして、当時聖王であった彼の姉エメリナ、手ずから神剣を与えられたという。それからは常に肌身離さず身に着けており、姉王よりも、妹姫のリズよりも、近侍のフレデリクよりも、誰よりも身近だった、と。
その彼が愛剣を手放している。恐ろしい予感がルフレを捕まえようとしていて、必死に振り払おうとするのにクロムの微笑の静かさが尚更焦燥を煽った。
まさか。まさか、まさかまさかまさか。
微笑んだままクロムがゆっくりと口を開く。聞いては駄目だと理性が警鐘を鳴らした。それなのに目を閉じることも耳を塞ぐこともできない。
「……置いてきた。もう、俺には持つ資格がないものだからな」
か細い悲鳴を上げてルフレはがたがたと震えながら口元を覆う。嘘であって欲しかった。自分の浅ましい想いが、幻のクロムに紡がせた幻聴であって欲しかった。ふわふわと飛び回る光は相変わらずルフレから離れようとしない。冬の蛍なんてこれが夢である何よりの証拠になりそうなのに。
「へい……か」
どうか嘘だと言って欲しくて、ようやっとのことでかつて仮面を被れていた頃の呼び方でクロムを呼ぶ。名は呼ばなかった。以前のように呼んでしまったらもう隠せない。ルフレもまた自分を想っているのだと知れば、彼は躊躇わないだろう。だから知られてはならないのに、隠し通したままこの場を切り抜けなくてはならないのに、クロムが少しだけ困ったように微笑んで紡いだ言葉は。
「名前で呼んでくれ、ルフレ。俺はもう陛下じゃない。クロムだ。ただのクロムなんだ……」
声も上げられなかった。彼のその言葉でルフレには分かった。分かってしまった。
持つ資格がないと手放した神剣、自分はただのクロムだと告げた静かな言葉。それらが指し示す事実はたったひとつだ。
一番恐れていたこと。彼にその道を選ばせてはならないと思っていたこと。
――――彼は姉から受け継いだ聖王位を、あれほど愛した祖国を、そこに住まう民を捨てたのだ。
何の為にと問うことはあまりに罪深い。
先ほどから一度たりとも逸らされることのないクロムの瞳、その深い藍色の奥に宿る熱、あの冬の夜からずっと雄弁に彼の想いを語り続ける熱さがルフレに教える。彼は、彼の姉を救うことすらできず、半身だと引き上げ繋いだ手を離し、約束を何度も破った女の為にすべてを捨ててきた。
国も、玉座も、民も、臣下も、家族も何もかも。
自分という存在が彼に失わせたものの大きさに、何度も何度もいやいやと首を振る幼い子どものようなルフレの行動に彼は何を思ったのか、「もういい……もういいんだ、ルフレ」と言って何かを懐から取り出し、ルフレはそれに目が釘付けになった。
「俺は全部知っている。すべて知った上でここに来た。……お前と共に在る為に」
「あ……どう、して……」
クロムの、革手袋に包まれた手のひらの上には見覚えのある青い石。いや、正確には耳飾りだ。片方は、イーリスから持ち出した時からずっと自分が持っている。もう片方はこの港街の宿屋に落ち着いた頃から何故か見つからなくて、探していたのだけれど。何故、どうしてイーリスにいた彼が耳飾りを持っているのか。
「……ガイアから、いいや、マークから預かった。お前がずっと……俺が贈ったこれを大切にしてくれていたと。それに、何故お前がずっと俺を拒絶していたのか、その理由も」
「そんな……そんなっ」
信じられなかった。クロムの子を身篭ってしまったことに気付いて、どうにかイーリスを出ようとしていたルフレを助けてくれたのはマークだ。彼はルフレのクロムへの想いも、クロムを想う故にそれを知られまいとしていたことも知っていた筈。それなのに、母親がずっとひた隠しにし続けた真実を、誰より知られたくなかったクロムに伝えてしまうなんて。
けれど思い出すのは、先刻のマークの様子だ。ひどく優しく、透明な微笑みを浮かべて『母さんの本当の望みは何ですか』と尋ねてきた、不自然な言い訳をして、ルフレをこの場にひとり残してどこかへ行ってしまった我が子。
(マークは……マークがまさか、ここに……を)
そんなルフレの内心を見通したように、クロムは言葉を続けた。
「ガイアを通してマークが手紙を寄越してな……。耳飾りのことを教えてくれて、それから、新月の晩お前がここで待っていると。ただ、あの赤ん坊のことまでは書いてくれなかったが。……あの子の父親は、俺なんだろう。だから半年前、お前はイーリスを……」
「ちが……、違います!」
身体中からありったけの力を掻き集めて叫ぶ。だが彼は少しも揺るがず、むしろ今までルフレの為にか頑なに保ち続けていた距離を詰めた。
「もう嘘は必要ない。何を言われても、俺はお前を諦めない。お前の為に、お前の為だけに生きると決めたんだ。ルフレ、お前が今まで俺にそうしてくれたように」
「い、や……やめて、こないでっ!」
「嫌ならこれで俺を刺せばいい。本当に、お前が俺を愛していないと、全部俺の独り善がりな誤解だと言うのなら」
そう言って彼は腰の剣を鞘ごと外し、自分とルフレの間の地面に放る。重い音がした。真剣の重さ、命を奪うことができる武器の重さだ。これで彼を刺す? できる筈がない。
「やめて、いや……!」
「俺のことが本当に嫌なら、それで俺を殺してくれ。お前のいない世界に俺はこれ以上耐えられない。お前は俺のすべてなんだ」
「いや、いや、いや……っ」
愛していないと一言、言えばいいのか。あなたの勘違いだと。だがもう仮面は被れない。自分の心を偽れない。お前は俺のすべてだとクロムが言うように、ルフレにとっても彼はすべてだ。
ああ、でも、でもこのひとは聖王なのに!
多くの人々が彼が聖王国を導いてくれるのを望んでいる。邪竜を滅した英雄が。その彼を、たったひとり、ルフレだけのものにすることなどできない。赦されない。
クロムに諦めさせなくては、彼の国へ帰らせなくてはと思うのにルフレが紡ぐことができるのは意味のない言葉ばかりだ。
「……ルフレ」
彼女の名を囁いてまたクロムがこちらへ近付く。光がルフレの周囲を飛び交っている。彼女を守るように……或いはクロムを誘うように?
「……だめ、だめです……!」
彼は迷いなくルフレまで歩み寄って来る。途中、放った剣の鞘を踏み潰して鈍い音がした。掠れた声で幾度も幾度も制止するが止まらない。逃げなくては。彼を思い止まらせることができないのならば自分がこの場から離れなくては。縺れそうになる足を叱咤して逃げ出そうとするが、その前に一気に距離を詰めたクロムに力強く引き寄せられた。
彼の逞しい腕の中にルフレの華奢な身体はすっぽりと収まってしまう。まるでそこにあるのが一番自然で、当然だというように。
ルフレ、とひどく愛おしげに彼が囁いた。
がたがたと震えながらも彼の厚い胸板に手を突いて逃れようとするがその度に拘束はますます強くなる。クロムの腕は荊だ。絡み付くそれは彼女に痛みをもたらすのに決して逃れることができない。
愛してる、と耳元で告げられ、最後の力を振り絞って首を振る。何度も何度も。ずっと望んでいた言葉だ。それでも受け入れてはならない。だめ、だめ、辛うじて言葉で弱々しく拒絶しながら首を振る。
愛してる、とまたクロムは囁き込んだ。
ルフレと同じでずっと外にいた筈なのに、彼の全身は燃えるように熱い。久々に感じる彼の熱はじわじわとルフレの心を侵していく。彼の荊にはそれこそ毒でも含まれているかのようだ。ずっとずっと、彼にこうして抱き締めて欲しかった。でも望んではいけない。彼は王なのだから。彼はルフレのものではないのだから。だからだめです、と震える声で囁き返す。
それでも彼は尚も愛していると言い、もはやどうすることもできなくなってルフレは絶望した。クロムの言葉に、ではない。彼の言葉に深い喜悦を覚える自分に、だ。自分の望みは決して叶えられてはいけないのに。しかしその時、霞む視界の中ふわふわと幾つかの光が彼女の周囲で留まって、一際強く光った。
――――あなたは、あなたの望みを叶えて下さい。しあわせに……なって下さい。
ああ、とルフレは呻いて、それに合わせ透明な雫が彼女の白い頬を滑り落ちていく。するとクロムは「……愛してるんだ、ルフレ」と四度目の告白をして長い彼女の髪に指先を差し入れた。心臓の音が聞こえる。こういう風に触れて欲しかった。だってルフレは彼にずっと恋していたのだ。愛していた。誰よりも何よりも。この身を犠牲にしても彼の生きる世界を守りたいと願うほどに。赦されないことだとしても、ひとつの国の民が確実に不幸になると分かっていても……自分を愛して欲しいと望んでしまうほどに。
既に薔薇の下の秘密はすべて暴かれてしまった。たとえどんな未来が待っているとしても、これ以上クロムを拒めない。できない。もう、これ以上は。
「……くろ、む……さん」
とうとう小さな、小さな声で愛しい男の名を呼んでルフレはのろのろと彼の背に細い腕を回す。大げさなほどにクロムは身を震わせ、腕の力を強めた。
「もう一度、」
ついさっきまで揺るぎのなかった彼の声は、今ひどく弱々しく震えている。「……もう一度、呼んでくれ」と請われ、先ほどより涙に濡れた声で繰り返す。
「くろむさん……」
「もう一度……!」
「くろむさん、くろむさん……っ」
ルフレが名を呼ぶ度にクロムはきつくきつく彼女を抱き竦めた。決して離すまいと言うように。それに応えてルフレもますます強く彼に縋り付く。
辺りはとても静かで、二人以外の誰もいない空間にただルフレのすすり泣く声と熱に浮かされたようにクロムを呼ぶ声だけが響いていた。
ぴったりと寄り添った二つの影はそれからしばらくひとつになったまま離れることがなく。その周囲を、ずっと消え去ることなく淡い季節外れの光が取り巻いていた。
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