Under the Rose ifルート「君に捧ぐ永久の誓い」【サイト連載版】 - 8/11

 明くる日、陽も顔を覗かせたばかりの早朝に、まだぼんやりとしているルフレと寄り添うようにして階下へ降りると、宿泊者以外も利用可能な食堂になっているそこにはほとんど人がいなかった。
 出立が早いのだろうか、荷物を傍らに置いた旅装の男が眠たげな顔で湯気の立つスープを啜っていたが、後は視界に入る辺りは空席だ。明日は早い、と書いていたマークはどこだろうと首を巡らせたクロムの耳に、落ち着いた低い声で「母さん」と耳慣れた呼び掛けが届いた。声のした方へ振り向くと、奥まった部分にある席にいたマークが、赤ん坊を抱いたままちょうど立ち上がりかけていて。
 するとそれまでこちらに身を預けていたルフレは、ぱっと顔を輝かせクロムの腕の中から逃れて、マークと赤ん坊のところへ駆けて行ってしまった。
 昨夜から今までずっと感じていた温もりが離れたことで何やら肌寒いような気がする。互いのことしか見えていなかった昨日の晩、彼女の瞳はただクロムだけを映していたのに、今彼女はクロムの視線の先で我が子を抱き上げ、愛おしそうに頬ずりをしていた。
 その限りない慈愛を滲ませた表情は母のもので、クロムの知らないルフレだ。窓から朝の陽が差し込んで、ルフレとその腕に抱かれる青い髪の赤ん坊を浮かび上がらせるようにしている。光を纏う母子の姿はこの上もなく尊く神聖なもののように感じられ、手を伸ばすことすら躊躇っていると、立ち尽くすクロムへえも言われぬ微笑みをルフレが向けた。
「……クロムさん、<マーク>のこと、抱いてあげてくれませんか?」
「<マーク>?」
 口にされた名に思わず目を瞬く。赤子を差し出しながら言われたのだからそれはこの子の名前の筈だが、同じ名を持つ青年が既にいるというのに。ちらりとマークの方へ目を遣れば、彼は無言のままにこりともせず、目線でクロムを促した。やはり、<マーク>というのが赤ん坊の名前らしい。
「同じ名前に、したんだな」
「ええ。悩んだんですけれど……その、クロムさんからも一字もらってますし……いい名前でしょう?」
「……ああ、そうだな。少しややこしいが……」
 差し出された小さな小さな身体をそっと抱き取ると、思っていたよりも重かった。クロムが最後に生まれたばかりの子供を抱いたのは数年前だから、生まれたばかりの赤ん坊でも、人ひとりの命は重いのだということをすっかり忘れていた。「そうっとですよ、そうっと」と傍らで囁くルフレにあれこれ指図を受けながら、こわごわ赤子を抱く。
 既にクロム譲りの癖のある髪質の片鱗を見せ始めている青い髪、クロムの指の長さよりも小さいのではないかと思われる手や足、随分と暖かな体温。

(この子が、俺とルフレの……)

 しばらくは声も出せなかった。閉じられた目蓋の奥には、<ルキナ>のように聖痕はあるのだろうか。だがそんなものがなくとも<マーク>は自分の子だと、根拠もなく信じられた。こうして抱いて温もりを感じているだけで、悲しいわけではないのに泣きたくなる。
 これが、愛しいということなのだろうか。
 そんなことを思っていると唐突にぱちりと<マーク>の瞳が開いた。自分と同じ、深い藍色の瞳。その目が寝起きとは思えないほどしっかりクロムを見つめてくる。ルフレはそんな息子のふっくらした頬をつつき、「<マーク>、お父様ですよ」と優しく優しく囁いた。そんな彼女の声に続くようにしてクロムも我が子へ恐る恐る呼び掛けた。
「ま、<マーク>……?」
 生まれてまださほど経っていないのだ、はっきりとこちらが見えてはいないのだろうが、あまりにじっと視線が動かないので緊張する。少し上ずった声で名を呼んでやると、これまた突然笑い声を上げた。覗き込むようにしていたクロムの毛先を嬉しそうに引っ張り、かと思えば衣服の裾を噛む。
「まあ、ふふ。お父様に会えて嬉しいんですね。普段はこんなにはしゃがないのに」
「そうなのか? ……って、おい<マーク>、痛い、痛いぞ! あ、あまり引っ張るな!」
 赤子の力と侮っていたが案外強く、髪が抜けそうだ。弱り果てて頭上へ手が届かないように抱き上げた。しかしそれすら遊んでもらっていると受け取ったらしく、楽しそうな笑い声はやまない。
 隣でルフレもくすくすと笑っている。そんな風に穏やかな彼女の顔を見るのは本当に久々で、自分たちは何のしがらみもない、ただのありふれた家族なのだと錯覚してしまいそうになる。
 そんなクロムたちの背後で、それまで黙っていたマークが吹き出す気配がした。後ろを向くと、手で口元を抑えているがよほど可笑しかったのかそれも震えている。以前、イーリス城にいた時の無邪気な彼を思わせる様子に、いつの間にかクロムも笑みを零していた。
「……母さん。<マーク>、そろそろお腹が空く頃だと思うんです。僕はこの人と話がありますから、上で<マーク>と一緒にいてもらっていいですか?」
「話、ですか? でも……」
 穏やかな空気が流れる中、ようやっとのことで笑いを収めてマークが言う。話がある、という言葉にルフレはほんの少し不安げな様子を見せた。「大丈夫だ、心配ない」と笑顔でクロムが告げてやることでひとまずは安心したらしく、まだはしゃいでいる<マーク>をしっかりと抱いてそのまま部屋へと戻って行った。
 男二人だけになると、半年余りの間にまた大人びた気がする青年は表情を改める。時代は違えど確かに親子である二人の間に漂う空気は、先ほどから一変して硬い。心配はいらないとルフレには告げたものの、やはり緊張した。
 ルフレを母と慕い、今日まで守り続けた彼の手紙でクロムは真実を知った。そして母を幸せにできるのはあなただけだと書き綴った我が子の懇願に背中を押されるようにして、永遠に祖国を去ったのだ。
 けれど彼がそこまで幸福を願うルフレを傷付けたのも、やはり他ならぬクロム自身である。昨夜も眠らずずっとルフレの寝顔を見つめながら考えていた。マークは、まだ許していないだろうと。ルフレを選んだことで、彼女と共に行く道を選んだことで消えてしまうほど、自分の罪は軽くはない。
「これから、ヴァルムへ行こうと思うんです」
 重苦しい沈黙を破り兼ねていたクロムより先に、マークは静かに口を開いた。思わぬ地名に鸚鵡返しに「ヴァルム大陸、か?」と尋ねたところ首肯される。
「どうせ母さんのことだけしか考えていなかったんでしょうから、追っ手に見つからないようどこへ逃げるべきか、ちっとも想定していないですよね?」
「……色々言いたいことはあるが、まあ……そう、だな」
 確かにイーリスを出た時はただルフレのことだけしか頭になかった。とにかく早く彼女に会いたいとそればかりを思っていた。会った後どうすべきか、どこへ行くべきかなど少しも考えていなかった。だから不承不承頷く。
 そうするとマークは柔らかさが大分消えて、引き締まってきた面に呆れたような表情を浮かべ肩をすくめた。
「だと思いました。いいですか、あなたも母さんも、この大陸ではあまりに名前も顔も知られすぎています。どんなに隠れ住むとしても限界があるでしょう。だから、僕はヴァルムへ渡る方がいいと思うんですよ。あちらはまだ少なからず混乱が残っているようですけれど、その方が却って訳ありの人間も紛れ込みやすい。母さんと<マーク>のことは、勿論あなたが守ってくれるんでしょう」
「当たり前だ。それに、お前のこともな。マーク、お前は嫌かもしれないが……それでも、それでも俺たちは家族なんだから」
 人がほとんどいないとはいえ、あまり聞かれていい話でもない。声を低くして会話しながら、それでもきっぱりと力強く言い切ったクロムに、マークは僅かに目を細めた。そして、そのまま立ち上がり、眩しい陽の差し込む窓辺に寄ってクロムへ背を向ける。
「……僕は、まだあなたを許した訳じゃないんです」
 より低まった声音で囁かれた内容は予想通りだった。我が子にそう言われて胸は傷んだが、これはクロムが当然甘受しなくてはならないものだ。それだけのことを、いや、それ以上のことをクロムは彼の母親に、ルフレにした。
 他の女性を妻として迎えておきながら、身勝手にも己の内に眠る恋情を『半身』という都合のよい言葉で置き換えて彼女を縛り続けた。他にも俺の軍師、相棒、戦友、様々な言葉でルフレを形容したが、それを微笑って享受していた彼女の心の内はどれほど傷付いていたことだろう。
 目の前で彼女を喪うまで、自分のルフレへの想いがどういった類のものなのか少しも気が付かなかったクロムと違い、彼女はずっとクロムを想ってくれていたという。それなのに、自分ではない女と子まで成した男の傍で軍師として在り続けるのは……もし逆の立場だったとしたら、クロムには到底できない。
そ んな彼女に、クロムはようやく気付いた恋情を押し付け、無理矢理抱いたのだ。その結果として聖王の私生児を身篭ったルフレは、イーリスを去らざるを得なくなった。
だからマークの言は至極当然なのだ。返す言葉もなく口を閉じたままにしていたが、窓枠に手を掛けてマークは「……でも、」とぽつりと呟いた。
「でも……母さんは今、とても幸せなんです。僕にはそれが分かります。だから、あなたのしたことは許されることじゃないけれど、それでも……母さんを選んでくれて、ありがとうございます。クロムさん……」
 小さな、本当に小さな囁きだった。朝の静寂さの中でも辛うじて聞き取れるほどの、震える小さな声。後ろ姿はもう青年のものだが、何故だか泣いている幼い子供を思い起こさせた。
椅子を引いて立ち上がったクロムは、そっと歩み寄って自分と同じ、癖のある青い髪をぐしゃぐしゃと掻き交ぜる。「子供扱い、しないでくださいよ」と不満そうに言われたが、言葉とは裏腹にマークはクロムの手を払いのけようとはしない。
 ならば少なくとも嫌がられてはいないのだと判断し、今度はぽんぽんとあやすように頭を撫でてやる。今度は黙ってマークもそれを受け入れていた。
窓辺に並んで佇む父と息子を照らす朝陽は美しく、ガラス越しに見上げた空には名前の分からない鳥が四羽、ぴたりと寄り添うようにして飛んでいた。

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