愛しきひと
それから、クロムに肩を抱かれて宿の部屋に戻ると、室内は暗くマークたちの姿はなかった。どこへ行ってしまったのだろうと顔色を曇らせるルフレを二つある内の片方の寝台へ座らせたクロムは、薄暗がりの中手探りで燭台の蝋燭に火を灯す。備え付けの机の上に置かれていたらしい書き付けを見つけたところでしばらくそれに視線を落とし、やがて最後まで読み終わると少しだけ笑ったようだった。
「クロムさん……?」
「ああ、いや、マークは別の部屋を取ったそうだ。今夜はそちらで休むと書いてあった」
「そう、ですか……」
それだけならば何も笑うことはないと思うのだが、気になっても彼は書き付けをルフレに見せてくれるつもりはないらしい。折り畳んで外套へ仕舞い込むと、その外套を無造作に椅子の背もたれへ放る。ルフレはその動作の一挙一動を瞬きもせずに見ていたが、室内に降り立った沈黙に耐え切れなくなり何か言おうとした。けれどこちらを振り向いたクロムの視線に絡め取られてどこかへ消えてしまう。
玉座を捨て、国を捨て、民を捨て、家族を捨て。何もかもを自分の為に投げ捨てて来た男の眼差しは熱く、ルフレの中の女はどうしようもなく甘く疼いて反応を見せたが、彼女の中に残る迷いが落ち着いて彼と向かい合ったことで顔を出す。
出逢った時、彼は聖王ではなく王子であったけれど、かつて戦乱の傷痕深い中幼くして女王として立った姉、エメリナを助け支えたいと、姉の理想を守りたいと真摯な眼差しで話してくれた。
ペレジアとの戦の中で姉を失って、代わりに聖王として即位することになっても、やはり彼は姉の愛した祖国を、その平和を守っていこうと懸命に政務をこなしていて。それは姉の為だけでなく、彼自身がイーリスとそこに住まう民を愛していたからでもあるだろう。
それなのに、このままこの人の手を取ってしまっていいの、と。この人からイーリスを奪ってしまって、イーリスから光を奪い取ってしまって本当にいいの、と誰かが囁いた気がした。
急に恐ろしくなって、視線を俯けたルフレの座る寝台の傍まで彼が歩み寄って来る。そしてそのまま、両の手で頬を包み込みゆっくりと上向かせた。
「……まさか、まだ俺を追い返そうと思っている訳じゃないよな?」
「それは……でも、私……」
視界いっぱいに映る深い藍色の瞳。手袋越しでも伝わってくるクロムの温もり。それだけで何も考えられなくなる。彼のこと以外は何も。それでも必死になってルフレは言葉を継いだ。
「きっと、きっと後悔します。<ルキナ>さんもまだ小さいのに、復興もまだまだこれからなのに、あなたという王がいなくなってしまったら、イーリスは、あなたの国は……」
ルフレが再びこの世界に戻って来るまでの三年の間に、イーリスの復興は他国に比べ驚くべき早さで進んでいた。だがそれはクロムという英雄がいたからだ。ペレジアの侵攻を跳ね除け、ヴァルムの覇王の野望を阻み、伝説の中の存在でしかなかった邪竜の脅威から世界を救った、まさしく聖なる王である彼が。
カリスマ的な指導者を失った国が辿る道は悲惨だ。後継者が幼い王女一人となれば尚更だろう。ましてフェリアには、嫁いだクロムの妹リズと、時期西の王にほぼ内定しているというロンクーの間に生まれた幼い王子がいる。リズには聖痕がなかったが、その王子には未来から来たウードと同じように鮮やかな印が浮かんでいると聞いた。
年の頃が近く、どちらも聖王家の血を受け継ぐ証である聖痕を持っている。それならばとフェリアに擦り寄ってでも女王ではなく男王を立てようとする者がいてもおかしくない。
クロムは黙って耳を傾けていたが、ルフレが言葉を途切れさせると静かな声で「ああ、そうだろうな」と言って頷いた。
「あの国はこれから荒れるだろう。<ルキナ>はまだ小さい。嫁いだとはいえ、男児であるリズの子の方を聖王に、と考える動きも出てくるかもしれない
「それなら……っ!」
「だが、どれだけ後悔してもお前の手を放したくない」
クロムが口にしたのは彼女自身が抱いた懸念とまったく同一で、ルフレは悲鳴じみた叫びを上げようとする。しかしその前に頬を包み込んだまま、睫毛が触れ合うほどの距離で吐息を漏らすように囁かれ続く言葉は行き場を失った。
視界を埋め尽くすのは青。彼女が愛してやまない深い深い藍色。
その持ち主は手を離すと、ただか細い息で唇を震わせることしかできないでいるルフレの身をそっと引き寄せる。抵抗はしない。できなかった。そうできるのなら、暗い波止場で彼から逃げていた。どんな手を使っても。
ルフレがここにいて、クロムに身を預けている。それがもう答えだった。どんなに口では彼の国を憂う振りをしていても。度し難い。ああ、本当に度し難い。彼のぬくもり、彼の声、彼の手、彼の眼差し、そのひとつひとつを与えられる度悦び、もっともっとと強請る己の心の有り様は。
そしてクロムにも、ルフレが口で言うほど拒んでいないことが分かったのだろうか。ひどく優しげな手付きで外套に手を掛けた。首筋に次々と唇が落とされていく。ペレジアでも夜は冷えるから、とマークに着込まされた外套の下の衣類も、魔法の如くあっという間に寝台や床の上に落ち、それこそルフレの心を表しているように思われた。
ずっとずっと押し殺してきた、気付かれてはならないと、赦されないのだと捨て去ろうともして、結局どうすることもできなかった彼への想い。
纏う上衣が少なくなっていく度、クロムの唇は下へ下へと降りていった。首筋から鎖骨、剥き出しになった肩、胸の間の谷間、ひじの曲がった部分へと。やがて薄いワンピース一枚になり、唇もほっそりとした手首まで辿り着いたところで、クロムはゆっくりと身体を離し、足元に跪いた。
「……くろむ、さん?」
ルフレはずっと布越しに、素肌に、口付けられる度小さく震えながらもされるがままになっていたが、全身を包み込むぬくもりが離れてしまったことと、誓約を捧げる騎士のように膝を突いたクロムの意図が分からず、戸惑い気味に彼の名を呼ぶ。
その声に拒絶の響きはもうない。クロムを求める己の心に抗うことはもう、無理な話だったのだ。そんな風に自分を呼ぶ声を目を閉じて聞き入っていた彼は恭しくルフレの両の手を捧げ持った。
「俺にはもう、何もない。王でもなく何者でもなく、ただのクロムという一人の男だ。あるのはお前への気持ちだけで……何も、何もお前にしてやれない。ずっとお前を傷付け続けた。それでも。それでもお前を放したく、ないんだ」
見上げる藍色は熱くけれど不安定に揺らめいている。彼は何かを求めていた。赦しを? でも彼を傷付けたのはルフレも同じだ。それとも別の――――と思考の海に沈みかけて、一度もクロムに伝えていなかったと気付いた。
ずっとずっと、心の奥底に鍵を幾重にも掛け閉じ込めておくのが常となっていたから、こうして彼を受け入れてもまだ一番大切な言葉だけは言っていなかったのだ。
だからゆるゆると首を振って口を開く。
「クロムさんが王子だったから、好きになった訳じゃありません……。あなたが私を助けてくれたから、記憶のない私を軍師にしてくれたから、恋をした訳じゃありません。ただ、クロムさんがクロムさんだから……あなたがあなただから、どうしようもなく好きで、恋しくして、私、わたし……いまも……」
あなたをあいしてるんです、と囁いた声は静かな静かなこの部屋の中でも、ともすればルフレ自身ですら聞き取れないほど、辺りに消え入りそうなほど小さかった。だがルフレの手を握ったクロムの力が一際強まり、そのことで彼の耳にも自分の遅すぎる告白が届いたのだと知る。
彼の手も微かに震えていて、強く握り締めたルフレの手を額に押し当て感極まったように名を呼びながら、指の一本一本へ口付ける唇は火傷しそうなほどに熱かった。
十の指先すべてに口付け終えると、今度はその燃えるような唇で手のひらに触れる。唇が触れるか触れないかの時にあいしてる、と紡がれた音が甘い痺れとなって肌に伝わった。胸がじんと震え、視界も霞んで。滲んだものを拭おうと手を引こうとしたがクロムはそれを許さなかった。
締め付けがないようにと選ばれたワンピースは座ると膝が剥き出しになる。手を握ったままそこにまた口付けを落とし、ブーツを脱がせにかかった。
「俺のこの瞳も、この手、爪先も。髪筋の一本までもすべて。生涯この先、俺のすべてはお前のものだ、ルフレ。お前がそうしてくれたように、俺も持てるすべてを捧げてお前を愛する。……お前だけを」
着脱が容易にできる型のものではないのに、クロムは器用にブーツを足から取り去ってあっという間に素足を夜気に晒してしまう。膝裏に、脛に、くるぶしに、足の甲に。隈なく唇を触れさせたクロムはそう言った。「……あの子たちのことも、忘れないで……下さい」応じるルフレが少しつかえたのは嗚咽を堪えようとしたからだ。クロムが顔を上げてルフレを見つめた。
「ああ……そうだな。これからは俺とお前と、子供たちと四人で暮らそう。……ずっと、いつまでも」
手を伸ばし彼はルフレの頬を滑り落ちた雫を拭う。そして――――そのまま彼はルフレをやさしく寝台へ押し倒した。
***
あの冬の夜と違って彼の触れ方はひどくやさしかった。髪に、頬に、唇に、胸元に、心臓のある場所に。お前のすべてが愛しいと言わんばかりに口付けられる度、ずっと荊に苛まれ血を流し続けていた傷口がひとつひとつ塞がっていくようだった。
クロムを受け入れることが、クロムを求めることがとても罪深いことだというのはどうしようもなくよく分かっている。けれどしあわせだった。後ろめたさも罪悪感も押し流してしまえるほどに幸せだった。
波が引いた後の余韻に浸りながら、四肢を絡ませて二人は乱れた敷布に埋もれている。ルフレはクロムの胸に頭をもたせかけ、目を閉じてずっと規則正しい彼の心音を聞いていた。一方のクロムはルフレの長い髪をしきりに撫ぜている。指先に巻いてはくるくると解き、かと思えば壊れ物を扱うように梳く。
飽きないのだろうか。そう思ったのは、随分時間が経ったように感じられても、彼の一定間隔での手の動きが一向にやまないからだった。ルフレはもう今夜あった様々な出来事で精神的に疲れていたのか、クロムのぬくもりと髪を撫ぜる動きが心地いいのか、それともその両方なのか、眠りの淵を彷徨い始めていたが、懸命に意識を保って彼を呼んだ。
「……くろむさん」
「うん?」
「ねむらないんですか……?」
「ああ」
「……どうして……?」
途切れ途切れにルフレが尋ねると彼は手の動きを止めずに「このまま眠って朝目覚めたとして、お前が消えていたら困る」と囁くように告げた。
ルフレはクロムの前から二度姿を消している。咄嗟に返す言葉もなく言いあぐねていると、彼がくすりと微笑んだ気配がした。上瞼に触れる、温かな感触。この夜何度も何度も触れた彼の唇だ。
クロムはそれから、もううっすらとしか目蓋を持ち上げられないルフレの耳朶を食み、そのまま「眠っていいぞ」と囁き込んだ。
「明日の朝は早いらしいが、きちんと起こしてやるから心配するな」
それもマークからの手紙に書いてあったのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんだが、眠りの精は彼女を夢の世界へ半分以上引きずり込んでいてうまく言葉にできない。辛うじてあいしてます、と寝言と変わらない頼りなげな声量で呟けただけだ。
するとクロムが「……俺もだ。俺もお前をあいしてる。ずっと、永遠に」とひどく幸福そうに囁いたような気がした。
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