もうひとつの終幕
クロムが他の男達と共に一日の作業を終えて村へ戻って来た時には、空は爽やかな青から燃えるような朱へとすっかりその色を変えていた。やるべき仕事をやり終えた後の、心地良い疲労感に包まれながら家路を急いでいたところ、クロムたち家族がこの村で暮らすようになった経緯に深く関わる村長夫妻と行き会った。
若い頃は腕利きの剣士だったという初老の村長は、妻と道端で何やら話し込んでいる。それがやけに深刻そうであったので、奇妙な胸騒ぎを覚えながら声を掛けた。すると夫妻はいつもの人好きのする笑みでクロムの労をねぎらってくれたが、やはり表情はどこか冴えない。
「何か村で問題でも起きたのか?」
「いいえ、そうじゃないのよジェイさん」
もしや日中村を離れている間に何ごとかあったのかと尋ねてみたが、常に控えめな態度を崩さない村長の妻は珍しく夫よりも先に口火を切って否定する。隣で村長は腕組みをして何かを案じている様子だった。
ジェイ、というのは言うまでもなく偽名だ。船でヴァルム大陸に渡る前、マークはともかくクロムとルフレという、あまりに有名になってしまった名のままでいるのはまずいという話になり、クロムもルフレも名を変えた。家族以外の人間に対してはクロムがジェイ、ルフレがアイリスということで通している。
しかし村で何か事件が起きたのではないとすると、一体どうしたというのか。一年前ほどから、クロムたちはソンシンでも中央からは離れたこの場所で暮らし始めたが、近郊に大きな街もなく、滅多に外部の人間が訪れることもない村だ。変わったことが起きると言っても――――と首を捻ったところで、そういえば今日は月に一度行商人が立ち寄る日であったと思い出す。
かつての戦いで共に戦ったアンナとは似ても似つかない厳つい男が、村だけでは賄い切れない様々な物を商いに来てくれるのだ。勿論国の目が行き届かない辺境を案じての慈善行為ではなく、男は海が近い立地を生かしたこの村の特産品を仕入れてまた余所で売るのだろうが。
村の人間は行商人の訪れを楽しみにしている。それは珍しい品物や、ちょっとした嗜好品が手に入るというだけではなく、別の側面もある。男が携えて来るのは品物だけではないのだ。各地を旅する商人が集めてくるもの、それは……。
「今日ねえ、いつもの商人さんが言っていたのだけれど。遂に始まったんだそうよ」
「……始まった?」
尋ね返すクロムの声は低く、表情も硬い。昔、妹のリズに『だから無愛想だって言われちゃうんだよ、お兄ちゃん!』と言われたことがあるが、元来表情豊かな方ではないのでなかなか改善するのは難しい。
しかし誤解を受けやすい彼の態度にも、村長夫妻は気にした様子もない。この村に住み着くそもそものきっかけになった一件で、クロムが愛想はないが妻思いな青年だという印象を夫妻は持ったらしい。それは他の村の住人たちも同じで、彼らはマークがしたつくり話――クロムはさる国の貴族家の跡取り息子だったが、商家の娘のルフレと恋に落ち、しかし両家とも二人の結婚を許さなかったので駆け落ち同然で国を出て来たのだ、という荒唐無稽な――をすっかり信じていて、よく意外と情熱的だなと冷やかされる。
それはさておき、クロムの問い掛けに村長の妻は首をしきりに捻り、何かを思い出そうとしながら答えた。
「ほら、ジェイさんも知っているでしょう。隣の大陸の……ええと、何だったかしら、あなた」
「イーリスだろう、お前。イーリス聖王国だ。女王陛下も我らがソンシンも、多大な恩義を受けた国の名前を忘れてはいかんよ」
イーリス。
失い難い半身と共にある未来と引き換えにした、今は遠い祖国の名にクロムははっと息を呑んだ。非業の死を遂げた姉が愛し、守ろうとした美しい国。彼自身もまたその後を継ぐべき責務を追っていた。聖王として、神竜の加護を受けし大地を、そこに住まう人々を、あまねく守り導いていく筈だった。
だがクロムはそのすべてを捨てた。祖国も玉座も守るべき民も、何もかも。
たったひとり、他のすべてと引き換えてでも、と望んだ愛しい女性の為に。
「そうそう、そうだわ。イーリスね。あそこのお国、少し前に国王様がいなくなってしまったでしょう。後を継いだのはまだ小さい王女様だったけれど、それをよく思わない人たちもいたらしいの」
「よくある話だろうな。消えた王の妹が他国に嫁いでいて、その子供の方を王にしようという一派と、あくまで幼い王女を新しい女王だとする一派でしばらく睨み合っていたんだが……」
「この間、と言ってもひと月くらいは前になるらしいけれど、新しい女王様の即位を認めない人たちが私兵を集めてお城を乗っ取ろうとしたらしいわ」
「――――――っ!」
伝聞で伝えられる祖国の情勢に思わず息を呑む。動揺を表に出さぬよう、クロムはきつく拳をきつく握りこむことでどうにか堪えた。
この時代の自分と、正妃として迎えた女性との間に生まれた娘の<ルキナ>。彼女はまだ十にもならない。戦災の傷跡も未だ根深く残るイーリスの、新しい聖王として冠を戴くにはあまりに幼すぎる。だから、すんなりと継承がうまくいく筈はないと思ってはいたのだ。
だが以前ルフレに告げた懸念そのままに、貴族たちがリズがフェリアで産んだ息子を担ぎ上げ、あまつさえ王城を私兵で占拠しようとしたことは、半ば予測していたとはいえ衝撃的だった。
できうる限り平静さを装い、「それで……女王はどうなったんだ?」と声が震えぬようにしながら問う。私兵を持ち出してきたのはあくまで牽制と脅しの為だと踏んでいたが、混乱していた状況では予想外のことが起きるものだ。もう案じる資格はないけれど、やはり<ルキナ>の安否が気になった。
「女王は無事だったらしい。だが継承の儀式にも必要な国宝が盗まれたそうだ。女王を守った騎士団も怒り心頭でな、もう話し合いの時期は過ぎたと言って、とうとう内乱に突入したのがひと月ほど前だと言っておった」
「……内乱、か」
「本当、女王様もまだお小さいのに可哀想だわ。お父様はいなくなってしまうし、それに加えて今回の内乱でしょう。しかも女王様の即位に反対してる人たちが、代わりに王様にしようとしてるのは女王様の従弟なんですって。肉親同士で闘うなんて……」
そこで痛ましそうに目を伏せた妻の肩を、村長は慰めるように軽く叩く。クロムは何も言えなかった。<ルキナ>が無事であったのは何よりだが、祖国に混乱を招いたそもそもの原因である自分が何を言ってもあまりに空々しい。
落ちた沈黙に耐え切れず、クロムは短く挨拶をしてその場を離れた。去り際に「どうして前の王様はいなくなってしまったのかしらねえ……あんなに小さい娘さんを残して」と誰にともなく呟きを漏らすのが耳に届いた。そのことにまたどうしようもなく感情がかき乱されたけれど、振り返ることなくルフレと子どもたちが待っている家へと急ぐ。
今日は買い物をするのだと言っていたルフレは、きっとこの噂を直接商人から聞いただろう。彼女は未だに、朝クロムに抱き締められながら目を覚ますと、まだ夢を見ているのではないかという顔をする。幸せだと言いながら時折はらはらと涙を零す。クロムから祖国を、家族を、何もかもを奪ってしまったと思っているのか。
しばらくヴァルムの各地を転々とした後、この村に落ち着くことになってしばらくは穏やかな時間だけが過ぎていた。けれど自分の愚かしさの残滓はどこまでも追いかけてくる。それで苦しむのがクロム自身だけであるならばいくらでも甘受するが、ルフレまで類が及ぶのは耐えられない。
いつかその日が来ると思いながら、あと少し、どうかあと少しだけと、息を潜めるようにして味わってきた平穏な日々が崩れてしまったことに忸怩たる思いを抱きつつ、クロムは茜色の空を仰いだ。
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