「よしよし。ほら<マーク>、大丈夫ですよ。……うーん、泣き止んでくれませんね。どうしちゃったんでしょう。おしめも替えてあげましたし、お腹もいっぱいな筈なのに……」
「ずっと抱っこしてましたから、母さんの方で腕が疲れちゃって抱き方が変わったのが嫌なんじゃないですか? 僕代わりますよ」
困り果てた様子の母から、先ほどまで気持ちよく眠っていたのに何故だか急にぐずり始めた赤ん坊を腕に抱き取って、マークはソーニャの館で覚えた子守唄を歌い出した。いつもならこれで少しすれば眠ってくれるのだが一向に効果がない。おかしいな、と思う。<マーク>は本当に手がかからず、ぐずっても少しあやしてやったり、お腹が空いただとかおしめが濡れて気持ち悪いだとかの原因を解決してやればすぐ落ち着くのに。
ますます眉を曇らせた母は、「もしかしたら外にいるのが嫌なのかもしれませんね。戻りましょうか」と口にした。
思わず月のない夜空を見上げ、何と言って引き留めようかと思案する。
クロムが今夜、この場所へ来るかもしれないことは母に伝えていない。言えば彼女はきっと街から離れようとしただろう。心の奥底ではまだ変わらず彼女の半身を求めていたとしても、母はそれを認めることを恐れている。許されないことだと目を背けようとしているのだ。
そして何より、期待させてもしクロムが来なければ。母よりも国を、玉座を選んだのだとまともに突き付けられるよりは、何も知らないままの方がよいと判断したのだった。
だからここまで連れ出すのは苦労した。宿の部屋で彼女は明らかに何か探しものをしていて――マークが、ガイアを通してクロムに託した耳飾りの片方であることは間違いない――外に出ることに乗り気ではなく。そこをほとんど強引に丸め込んで波止場まで連れて来たのだ。
あれから数刻ばかり経ったが、波止場に母とマーク以外の人影はない。
少し前、母と小さな<マーク>が眠った後、起こさないようにと明かりをできるだけ小さくして、クロムへ手紙を書いた。彼女の本当の想いを訴え、どうか母を選んで欲しいと。そしてそれをガイアに託した。それからは毎日祈るような気持ちだった。神竜であろうが他の神であろうが、自分の願いを聞き届けてくれるのならばどんな存在にでも縋りたかった。
けれど今は、もしかしたら『彼』は来ないのかもしれないという、どれほど打ち消しても振り払うことのできなかった不安の方が大きくなりつつあった。だからなのかもしれない。
(<マーク>……君には、僕の気持ちが分かるんですか?)
まだ泣きじゃくっている赤子をあやしながら、自分や母と同じ、そして彼と同じ青い髪と瞳をじっと見つめる。視線が合わさると、小さな小さな手はまるでマークを叱るようにぺちぺちとこちらを叩いた。弱気になるな、と言われたようだった。「駄目ですよ、<マーク>」と母は慌てているが、また自分のところへ赤ん坊を戻そうと伸ばされた腕を制す為、マークが口を開いたのと同時に、淡い光が母の指先に灯った。
「え……?」
始めはひとつだったその光は、瞬く間に増え母の周囲を取り囲む。驚いて目を凝らすが、それは魔法ではなく自然の力で光っているようだった。
「蛍? こんな、冬の時期に……」
信じられないといった風に呟く母に、遅れてマークもこの光が何なのか理解する。書物の中だけでしか知らなかったことと、母が口にしたように通常は夏に活動する生き物だという知識があったので、すぐに思い至らなかったのだ。
ふわふわと漂う光虫は、不思議なことに母から離れようとしない。まるで誰かに彼女の居場所を知らしめるように。明滅する光を纏う彼女は、ひどく幻想的だった。
そしてそれを見て、雷に打たれたようにマークは悟った。
(……来た……)
何の根拠もない。姿がちらりと見えた訳でも、足音が聞こえた訳でもない。けれど分かったのだ。自分の中に流れる聖王家の血が、同じ血を持つ存在を感じたのだろうか。この血を自分に、小さな<マーク>に与えた男の存在を。
(来てくれた……)
『彼』はいる。ここに。すぐ傍に。マークの願った通り、乞うた通り、すべてを捨てて。愛する女性を、母を選んで。
己の想いにも気付かず選択を誤り、その後も母を傷付け、苦しめ続けた男を恨む気持ちは確かにある。母が彼を密かに想い続けているのを知って、苦い思いに捕らわれたのも覚えている。
けれど、未来の世界での彼が邪竜の依代となった母に殺められてしまった以上、もう自分にとってはたったひとりの……父親。
(……来て、くれた……とう、さん……)
世界は父を、母をマークから奪い、恋する女性へ想いを告げることすら許さなかったが、もうひとりの母と、もうひとりの自分は幸福にしてくれた。それだけでいい。それだけで充分だ。もうひとつの家族さえ幸せならば自分はどうなろうと構わない。
「……かあさん」
そうしてマークは静かに母を呼んでそっと微笑んだ。どうしようもなく己の半身を求めてやまないのに、頑なに本当の望みから目を逸らし続ける母。王である男、彼女が未だに救えなかったことを悔いている姉から受け継いだ国を背負う彼を思い、すべてを秘してひっそり表舞台から消えようとしている母。
その彼女に、もう自分に幸せになることを許してもいいのだと伝える為に。
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます