冬の蛍
ガイアの用意しておいてくれた馬を見つけ、聖都を出てからはもう夢中だった。クロムは馬を駆ることにのみひたすら注力し、昼も夜もほとんど休みなくペレジアへ向かう。舗装された街道を通って行くのが一番楽なのだろうが、いくら腕の聖痕を隠し、フードを目深に被っても、顔を検められればすぐに身元が明らかになってしまうと考え、敢えて街道を避け進んだ。
フレデリクや他の家臣達も、もう聖王が姿を消したことに流石に気付いただろう。刻一刻と細まっていく頼りなげな月を見上げては、追手がかかることを懸念して焦ったが兎にも角にもペレジア領へ入ってしまわなくては、と馬を急がせた。
隣国でならば、クロムもただの旅人として紛れ込みやすくなる。そしてどうにかペレジアとの国境を超え限界を迎えてしまった馬を替えた。イーリスとの国境付近はまだ荒れてはいても平地で、目的の港街までは後少し。馬でどうにか用は足りると判断したクロムは、主からの無茶な酷使に悲鳴を上げる身体に鞭打って再び馬上の人となる。
そして――――――指定された港街に着いたのは、約束の新月、ちょうどその晩だった。
***
荒っぽい乗り方によく付き合ってくれた馬の背を労うように軽く叩き、街外れに繋ぐ。この街までもうあと僅かという距離になってからは一度も休息していなかったので、ひどく喉が渇いていたがそれを上回るほどの強い衝動がクロムを突き動かしていた。
(……ルフレ……)
ああ、早く彼女に逢いたい。姿が見たい。声が聞きたい。彼女を、抱き締めたい。
それは彼自身すら持て余すほどに強く、胸が詰まって苦しくなった。今晩は月が出ていないから星明りがより眩く感じられ、波止場までの道もさほど暗くはない。
しかし随分と暖かいな、とクロムは思った。空気は確かに冷たいのだが聖都の今の時期に比べれば明らかに温暖だ。砂漠の夜は急激に冷え込むというが、ここは砂漠地帯から離れているからさほどでもないのか。
そんなことをつらつらと考えてしまうのは、そうでもしなければ激しく鼓動を刻む心臓の音がうるさく、どうにかして気を逸らさなければ爆発してしまいそうだからだ。けれどそんな努力も、夜の波止場に足を踏み入れて、少し離れたところで青い髪の男女が星空を見上げて語り合っているのを目にした途端、すべて無駄になった。
「……っ!」
思わず叫びだしそうになったのを、革手袋に包まれた手のひらを口元に押し当てることで堪える。急いで物陰に身を隠しそっと様子を伺うと、青髪の青年は確かにマークで、彼が後ろから抱き竦めるようにしているのはルフレだった。彼女は何かを抱えているようだがここからではよく見えない。
同じく声も会話の内容がはっきり分かるほどではないのだが、マークが空を次々と指差してはルフレが何かを答える形でやり取りをしているので、おそらく星の話でもしているのだろう。
こんな観察をしている暇があれば早く二人のところに行くべきだ。そう思うのに、クロムの足は蝋のように一度溶けた後、冷えて固まったのではないかというほどその場から動けなかった。情けない話だが、ここに来て、馬を駆ってひた走っている最中には敢えて考えないようにしてきた疑念が彼を捕まえたのだ。
母はあなたを愛しています、とマークは手紙に綴ってきた。あの冬の夜の冷たい拒絶も何もかも、すべて王としてのクロムの立場を慮ってのことだと。
しかしそれならば、何故、どうしてルフレはイーリスを去ったのか。それだけはどれほど考えても分からなかった。幾つか理由は思いついたが、そのどれもが正しいようでけれど違うようにも思われて。
懐に収めた手紙と耳飾りを握り締める。今クロムを支えているのはマークの言葉、かつてルフレに贈った耳飾り、ただそれだけだ。ルフレから、彼女自身の言葉で真意を聞いた訳ではない。それがクロムを不安にさせる。恐れさせる。だからクロムは動けない。国も、玉座も。導くべき民も捨ててひたすらに求めた女性が、もうすぐそこにいるというのにたったの一歩ですら足を動かすことができない。
しかしその時、風に乗って微かに声が聞こえてきた。この場には似つかわしくない甲高い声。赤ん坊の泣き声のような。声が届きそうな範囲に人家はなく、辺りを見回しても姿が確認できるのはルフレとマークだけだ。赤子の声が聞こえる筈はないのだが、それはずっと絶えることなく響き続けている。積まれた荷の間を風が通り抜ける関係で、泣き声のように聞こえるのだろうかとクロムが訝しく思っていると、ふいにルフレが立ち上がった。
今までマークに遮られて見えなかったが、彼から離れたことで彼女が腕に抱いているものが、遠目でも認識できるようになる。そしてそれが何なのか分かると、クロムはしばらく凍りついたように呼吸を忘れた。
視線の先で、ルフレは腕の中の存在を覗き込み何ごとか語りかけては、必死に泣き止ませようとしている。泣きじゃくるそれは赤ん坊だ。しかも、生まれて間もない。
今は初冬。そして、また自分を置いて行こうとしたルフレに理性の糸が切れ、クロムが彼女を無理矢理組み敷いた夜は……ちょうど、このひとつ前の冬だ。赤子の髪は青く、その青はルフレのものでもあるが、より彼の深い藍の色に近い。その姿を見てクロムの中ですべてが繋がった。
ーーーー母は、あなたを愛していますーーーー
手紙に書かれたマークの、我が子の言葉が繰り返し繰り返し甦る。身の内に怒涛のように押し寄せてくるこの感情を、何と呼べばいいのか分からない。
自分は何と愚かだったのだろう。
己の本当の想いを自覚せず政治的な意図しかない結婚をして。あまつさえルフレの、自分へ向けてくれている感情に少しも気付けずに。マークの言葉をよく疑えたものだ。赤子に向けるルフレの眼差しは穏やかで慈しみに溢れている。暴行に近い形で身篭った、愛してもいない男の子を抱いてそんな表情ができる筈がない。
私があなたの半身になります、と彼女は言った。姉の死に打ちひしがれるクロムを引き上げ、ルフレはずっとクロムを支え続けてくれた。緑なす草原で出逢ってからの日々が次々と脳裏を過ぎっていく。
彼女の言葉。彼女の笑顔。彼女の涙。彼女のぬくもり。
それらすべてをひとつひとつ胸の内に収めきって、クロムはようやく俯けていた顔を上げる。
二度、彼女を失った。
一度目は必死に手を伸ばしても掴めず、目の前で光の粒となってルフレは邪竜とともに消え。二度目は繋ぎ止めたと思ったのも束の間、国を空けている間に彼女は何も告げることなくイーリスを去った。
だが三度目はない。もう、決して彼女を失わない。絶対に。
こうして決意を新たにしたクロムの瞳には、一片の迷いもなかった。
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