Under the Rose第二部【サイト連載版】 - 9/22

 

「ガイアさん……」
 険しい表情で魔道書を掲げたまま呟きを漏らしたマークに、隠密行動に適した漆黒の装束に身を包んだガイアは器用な身のこなしでくるりと回転すると、腰掛けていた木の枝からその下の地面へと着地する。ほとんど音も立てないその動きは戦時中よりもずっと俊敏で洗練されており、今の彼の腕前を覗わせるのに十分だった。
 そうして目線の高さをこちらと合わせた彼はしかし、マークを通り越して、背後に隠すようにして庇った母の方をじっと見つめた。
「いきなり二人揃って姿を消したかと思えば、まさかペレジアにいたとはな。クロムはこの半年ずっとお前を探してたってのに、連絡もよこさないなんて少し薄情じゃないか。……ルフレ」
「あ……」
 クロム。
 イーリスを出てからは敢えて口に出さずにいた母の半身、毅く聡明で、優秀な戦人でもある彼女をただの女に変えてしまう男。彼の名が聖王の影の臣たるガイアから出たことで、振り向かずとも気配だけでそれと察することができるほど、母は大きく身を震わせたようだった。
 マークは苦い思いを隠しきれぬまま、魔道書を握る手に力を込める。少し揶揄するような軽い口調だったが、ガイアはどこまで事の経緯を知っているのだろう。母が実に三年ぶりに帰還した時はちょうど聖都にいたものの、昨年の冬の頃、母とクロムの関係が決定的に変わってしまった頃は任務でイーリスを離れていた筈だった。
 委細を知っていて、敢えて知らぬふりをしているのか、それとも本当に何も事情を理解しておらず、ただ仕える王の命通りに出奔した軍師を連れ戻しに来ただけなのか。マークは人の顔色を察知することにかけては自信があるが、同じく相手の表情や言葉の裏を読むことも仕事のひとつであるガイアの表情の奥を読み取るのは困難だ。
 だから慎重に慎重に、不敵な笑みのままの彼をひたと見据えて呼びかける。
「随分乱暴じゃありませんか。走っている馬車をこんなやり方で足止めするなんて」
「ああ、悪ぃな。だがここで逃げられたら俺の信用問題に関わるんでね。……なに、大人しく俺と一緒にイーリスへ行ってくれればもう手荒な真似はしないさ」
「……もし、嫌だと言ったら?」
 硬い声で尋ねれば、明るい橙色の髪を掻き上げガイアは目を細める。すると肌を刺すような緊張感はより一層強くなった。今では隠密行動を専門とする彼だが、前線で闘う並の騎士や戦士にも引けをとらないだけの実力はあるのだ。マークは剣も使うがやはり得意なのは魔道書を用いた攻撃で、その為には詠唱の時間がどうしてもいる。高位のものでなかればさほど時間は必要ないが、動きの俊敏さにかけては軍内随一だったガイアと、戦えない母を庇いながら渡り合うのは分が悪い。
 そして、マークの逡巡を見抜いたように彼は口角を引き上げて嗤った。
「やめておいた方が無難だぜ? 多勢に無勢ってな、俺の部下は優秀だから一人相手にするだけでも骨だ」
 そう嘯いたガイアが片手を上げると、それが合図だったかのように静かな、日中でも薄暗い私道の脇に立ち並ぶ木立の奥から一気に油断ならぬ気配が放たれた。一、二、三……少なくとも五人はいるだろうか。否、もしかしたら気配を遮断しているだけで実際は更に大勢が身を潜めているのかもしれない。これまで露程も彼等の存在を感じ取れなかったように。
 まさかこれほどの人数を引き連れてくるとは予想以上だった。イーリス国内ならばともかく、戦後関係改善の方向へ向かっていてもここは因縁深いペレジア領内だ。天満騎士団長ティアモと密偵を束ねる頭領格のガイアを向かわせるだけでも危ういのに、まして彼の部下達まで。
 私命でこれほどの数を動かしてまで、あの王は母を取り戻したいのか。それほどまでの執着、激しい恋情なのか。
 縋るようにしてくる背後の母の存在を強く感じる。このひとは、このひとと小さな<マーク>だけは何としても守らねばならない。それが赦されない想いを、薔薇の茂みの暗がりの下に埋めてイーリスを出た時にした自分自身への誓いだ。
 けれど、とマークは先刻、馬車の中感じた動揺を思い出す。クロムが未だに自分を探し求めていると知らされてずっと怯えていた母。それでも淡い色合いの瞳の奥に、彼女の王への隠し切れない恋慕を覗かせていた母。

(母さん……あなたは、やっぱり……あの人に逢いたいんですか? あなたをずっと苦しめ続けた人なのに?)

 あの穏やかな時間を過ごした館で母は何も言わなかったが、遠くからクロムの幸福を祈って子ども達と一緒に暮らしていければそれでいいと考えていることは、何となくマークにも伝わってきた。それが、幸せなのだと。
 だが母の本当の幸せはやはり彼女の半身、彼女が己が身を犠牲にしてまでその御世の平らかなることを願った聖王クロムと共にあることではないのか。

(もしそうなら……僕は。僕は……)

 
 その時、緊迫して張り詰めた空気を裂くようにして、つんざくような泣き声がした。
 ガイアは虚を突かれた表情になり、マークも思わず後ろを振り返る。馬車が尋常でない揺れ方をしても泣きじゃくることすらしなかった<マーク>が、今になって何かを訴えるように激しく泣き出したのだった。
「<マーク>……? お願い泣かないで、泣かないで……」
 母はおろおろといつものようにあやし始めるが、いつもならそれですぐ泣き止む筈の赤ん坊は、むしろより一層泣き声を強めた。
「おい、その赤ん坊……」
 はっとして視線を戻せば、ガイアは驚愕を抑えきれぬ眼差しで、母に抱かれた<マーク>を見ている。今まではマークが背に庇うようにして、どうにか彼の視線から遮っていたのだがその努力も無駄になった。
 不味いことになった、と思う。
 この場をどうにか逃げおおせたとしても、ガイアは間違いなく母が乳飲み子を連れていたことをクロムに報告するだろう。そうすれば母が恐れていた事態――<マーク>の父親がクロムであることが知られてしまう。
 そうなれば、もうどうあっても彼は母と我が子を連れ戻そうとする。たとえ別の大陸に逃れたとしてもどこまでも追ってくるに違いない。

(考えろ。考えるんだマーク……!)

 母が彼女の王の幸いを祈り続けるように、マークはずっと母の幸福を願っている。
 あの不思議な遺跡で目覚めて、自分と母のこと以外何も覚えておらず、ようやく出会えた彼女に母さん、母さんと縋り付いた。身に覚えのない「息子」を、けれど母は戸惑いながらも優しく受け入れてくれた。まるで親鳥を追う雛のように、どこへ行くにも母の後ばかり付いて回っては戦術を教えてとせがんでも、嫌な顔ひとつせず笑顔で応じてくれて。
 頭を撫ぜてくれる優しい手、抱き締めてくれた時の、記憶にあるものと寸分違わない温もり。それがどれだけマークを勇気づけてくれたか、母は知らないだろう。
 その母の為に、マークができることは。

「――――この子は、この時代の僕ですよ。ガイアさん」
「マークっ?!」
 悲鳴のような母の声が、ようやく収まり始めた<マーク>の泣き声に重なって耳朶を震わす。何を言うのかと非難めいた響きもその声の内には含まれていた。だが構わずにガイアをじっと見つめたままでいると、穴が開くほど母に抱かれた青髪の子どもを見ていた彼は「まさか」と喘ぐように囁いてしばし絶句した。
「この子が母さんのお腹の中にいたので……僕たちはイーリスを離れた。離れるしかなかったんです。だってそうでしょう? この子の父親は――――」
「マーク、お願いやめて……っ!!」
 どうか口にしてくれるなと、嗚咽混じりの懇願と共に母がマークの背に縋り付く。それでようやく口を噤んだが、勘の良い密偵が真実を悟るにはそこまででも十分だったようだ。
「そうか。そういう、ことかよ……」
「あまり、驚かないんですね」
 マークがこれからしようとしていることを肯定したからではないのだろうが、もう<マーク>は泣き止んで静かに母の腕に抱かれている。辺りには再び息が詰まるほどの静寂が漂っていた。その中で呆然と呟いたガイアの声音は、どこかこの事態を予期したような響きが内包されている。
「まあ、な。だが……俺にそれを話して何になる? 子どもがいようといまいと、俺は雇い主の命令通りルフレを聖都まで連れ帰るだけだぜ」
「本当にそうですか?」
「何だと……?」
 口ではこちらを突き放すような物言いをしつつも、その奥にある躊躇い、葛藤をマークは見逃さなかった。母がイーリスを離れざるを得なかった理由を知って、ガイアは迷っている。彼は母ともクロムとも親しくしていた。元盗賊という負い目もあってか、飄々としながら、どこか他人に対して明確な一線を引いていた彼だが、母やクロム、そして彼の妻となった女性には大分気を許していたように思う。
 王命を遂行すべきか、友人の為を思って行動すべきか。
 この状況下でマークが付け込む隙があるとすればそこしかない。心臓がうるさいくらいに激しく鼓動を打っていた。口の中がひどく渇く。今からマークがしようとしていること。それはまさしく賭けだった。ガイアが応じなければそれまでであり、そして応じてくれたとしても彼の主が受け入れてくれるのかすら不透明だ。

(それでも……それでも、もし)

 もしそれが叶うのならば、ずっと傷付き、苦しみ続けてきた母はようやく幸福になれる。イーリスという聖なる国の安寧と引き換えに。恐ろしいことをしようとしているのは十分過ぎるほど分かっていた。だがマークにとってはひとつの国の平和よりも、母を幸せにすることの方が大切だった。たとえ何を犠牲にしても。

「ねえ、ガイアさん。取引を……しませんか?」

 情けないほど震える心の内を悟られぬよう、ことさら笑みを深めてマークは口を開く。
 ……賽は投げられた。
 この賭けの結末が果たしてどうなるのか。神ならざる身には到底分かりようもないが、どうか母にとって最良のものであって欲しい。
 そう願う彼と対峙するガイアとの間に、場の空気にそぐわぬ梢がそよぐ穏やかな音が響いた……。

 

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