Under the Rose第二部【サイト連載版】 - 7/22

 

 ティアモにとって隣国ペレジアとは、国土の大半が砂地である砂漠の国だという印象が強かった。天馬騎士団の任務は聖都の警護で、国境沿いまで赴くことはほとんどない。現聖王クロムの父の時代、血で血を洗うような激しい戦の記憶は彼女の両親や周囲の人々にとってまだ根強く、個人的に足を踏み入れたこともなかった。
 そして数年前、祖国にとって不本意な形で再びペレジアと開戦しても、ティアモの目に映る隣国の姿はやはり荒れて痩せた土地や、砂の海が広がる乾いた国だった。そんな漠々とした光景は仲間など裏切るものだと、冷えて虚ろな眼差しで嘯いた暗愚王の心のありようを映し出しているように思えた。それともどこもかしこも乾いた国の玉座に座していると、心まで引きずられて乾いてしまうのだろうか。
 けれど今、彼女の眼下にあるのは豊かな森。今までのペレジアに対する印象を覆すほど目に痛い緑に、ティアモは我知らずほうっと息を吐く。
「ペレジアにもこんなところがあったのね……」
「すごいもんだな。一族代々の領地らしいが、これだけの緑地を保持したまま長年やってこれるってことは、相当の家だぜ」
 背後から感心しきった様子で聞こえてきたのは男の声。本来なら天馬の上で耳にするには相応しくないものだ。けれど天馬騎士団長であるティアモが仕えるべき聖王から受けた密かな命、それを果たすには不可欠な存在である彼――ガイアを同乗させない訳にもいかない。馬では早馬を使ったとしても時間がかかり過ぎる。

(ごめんなさいね、カチュア)

 本来天馬は、男性に触れられることすら極端に嫌う。だが今回は危急の事態だった為、無理を言ってティアモは愛馬のカチュアにガイアを乗せてくれるよう頼み込んだのだ。長い付き合いになる彼女は仕方ないと言いたげな素振りで納得してくれたが、些か機嫌が悪い。それが乗り手のティアモにも伝わって、自然ガイアに対する態度もつっけんどんなものになってしまう。
「……ガイアさん、あまりくっつかないでくれます?」
「あのなあ、無茶言うなって。この高さから落ちたら死ぬってことくらい、お前も分かるだろ? 俺は俺の奥さんとと子どもを置いて死ぬ気はさらさらねーの」
「格好いいこと言ってますけどその手はなんですかその手はっ」
 確かに落下すれば無事ではすまない高度だが、掴まるにしても他にやりようがあるのではないだろうか。それなのに彼が手を回している位置はそこはかとなく微妙な位置で。王の密偵として陰ながら仕えるガイアは任務で家を空ける時間が長い分、休暇の時はそれを埋め合わせるように妻や子どもに甘いのは周知の事実だから、他意はないのは分かっている。分かっているけれど、夫以外の人間にあまり密着されるのはたとえ任務でも頂けない。
「しっかしお前、小さい<セレナ>も産んだっていうのに相変わらずま――――」
「ガイアさんあたしに喧嘩売ってますよねそうですよね。そんなに落ちたいならお手伝いしますけど……!」
「おわっ、待て! 悪かった! 悪かったから槍の柄でどつくのはやめろ!」
 それなら最初から口にしなければいいんですよ、と返そうとしてふと口を噤む。相棒と、その不本意な同乗者のやり取りを呆れた風に聞いていたカチュアが、異変を知らせる時特有の小さないななきを上げたからだった。瞬間的に意識を切り替え、周囲を探るが何もない。辺りに広がるのは先刻までと同様、ここがペレジアとは思えぬほどに青々とした森、それだけだ。
「……ティアモ、どうした?」
「いえ、この子が今……」
 天才と呼ばれる彼女の、唯一の弱点と言っても過言ではない箇所へ触れてしまったにしては、すぐ鈍くなった反応に怪訝そうな声をガイアが掛けてくる。それに答えようと口を開きかけ――――一瞬、何か柔らかいものに押し返されるようなおかしな感覚。
 そんな筈はないのに、にゃあ、とどこかで猫の鳴き声が響いた気がした。

 ***

 ルフレは産後の経過も順調で、激しい運動はともかく日常的な動作ならまったく心配なさそうだった。そこで近頃では、日差しのある内は別館の中でも日当たりのいい部屋で本を読んだりして過ごすのが日課になっていた。マークと共に戦術書を読み、盤上で試してみることもある。
 そして今日はこの館の主、ソーニャと向い合って午後のお茶を楽しんでいるところだった。マークも、小さな<マーク>も一緒だ。生まれたばかりの<マーク>は柔らかい布地が敷き詰められた揺り籠の中で気持ちよさそうに眠っている。本当によく寝る子で、あまり夜泣きもしない。こんなに手のかからない子は珍しいよ、と昨日も侍女頭のアニーに言われたばかりだ。マークもこの時代での自分に興味津々で、始めこそまだふにゃふにゃとしている赤ん坊を抱いて「怖いですよー! なんでこんなにやわらかいんですか、潰しちゃいそうです!」と大騒ぎだったが、あやし方も少しずつ慣れてきて、しきりに話しかけては嬉しそうに頬をつついたりしている。弟ができたような心境なのだろうか。
 今も話の合間に揺り籠をゆすってやったり、掛布が少しずれただけでも直してやったりして、母親のルフレも顔負けの面倒見の良さだ。今日何度目になるか分からない動作にソーニャが微笑ましげな笑みを浮かべる。
「本当にマーク君はいいお兄さんになるわねえ」
「ええ、私もすごく助かっているんです。私なんかよりよっぽど寝かしつけるのも上手いんですよ」
「ええ?! いやだなあ、母さん。おだてても何も出ないですって」
「あらまあ、うふふふ」
 和やかな雰囲気。日差しの暖かさも、口に運ぶカップに注がれた香草茶のほどよい温みも優しい香りも相まって、ずっとこうしていたいような気さえする。

 本当に、この館での半年あまりはルフレにとって久々に訪れた心穏やかな時間だった。小さい<マーク>が生まれる前は、それでもイーリス聖王家の血を継ぐ何よりの証、聖痕が顕れてしまったらとの不安は常に付き纏っていたが、幸いにして生まれた子に印はなかった。これならば、自分が口を閉ざし続ける限り、イーリス国外で<マーク>が聖王家直系の王子であることを見抜く者はいないだろう。マークもサーリャもルフレが望まないことはしない。
 もう一人、ルフレが身籠っていたことを知る医師は遠い遠いイーリスだ。確かめる術はないけれど、彼ならばおそらく秘密を守ってくれるだろう。
 この半年、ずっとルフレは祈っていた。彼女が最初で最後に愛した彼女の光、彼女のすべてとも言えるクロムが一刻も早く自分を忘れてくれるように。そして正しく聖王として、皆の希望としてあってくれるように。

(お願いです……おねがい……私を愛さないで……私を、忘れて……)

 その祈りが通じたのか、捜索の手はこの館まで伸びてきていない。きっと諦めてくれたのだ、と思う。それも当然だった。ルフレがクロムとの約束を破るのはこれで三度目。しかも無理矢理彼女を組み敷き、愛していると何度も残酷に囁き込んだ彼を、ルフレは心変わりなど望むべくもなく全身で拒絶したのだ。浮かべたのは誰より信頼していた相手に裏切られた怯え、圧倒的な力の差で自分を抑えこみ蹂躙した男への恐怖。
 一欠片でも、どうやっても消せはしなかった彼への想いを気取られてはならなかった。そうして仮面に浮かべた偽りを信じ込まされたクロムは、己の恋情が完全に一方的なものだと思い知った筈だ。その上でルフレが姿を消せば、もうそれは完全な拒絶と同義だと思うだろう。自分を愛していない女を、それでも追いかけようとはすまい。
 ……けれど。

「ソーニャさん?」
 三人ともが笑顔で、話題をくるくると変えながらお茶と共に他愛のない話を楽しんでいた最中、ソーニャがカップを口元へ運ぼうとした中途半端な体勢で不自然に固まった。いつも浮かべている柔和な微笑みはなく、表情も硬く険しい。
 もしかして、どこか体調でも悪いのだろうか。案じたルフレが気遣うように声を掛けると、一度ソーニャはその黒曜石のような美しい切れ長の瞳を目蓋を閉じ隠した。しばしの沈黙。マークも何事かあったのかと揺り籠を揺する手を止める。
「……ねえ、ルフレさん。天馬と仲の良いお友達はいる?」
「え、ええ。何人か心当たりはありますけれど……」
 瞳を閉じたままソーニャが口にしたのは、まったくそれまでの話題とは見当違いな問いだった。天馬。そう言われて思い浮かぶのは産後、天馬騎士団長として復帰したティアモ、彼女の親友のスミア。あとは戦時中、経験を積んで天馬を操れるようになった幾人か。けれどいったい何だろう。
 隣でマークがはっとしたように緊張を身体に漲らせる気配がした。それでもまだルフレには分からない。……否、分かりたくなかったのかもしれない。

「――――――イーリスからお客様のようね」

 再び吸い込まれそうな黒い瞳を見開いた彼女がゆっくりと告げたのは、この優しく穏やかな時間の終焉だった。
 

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