時節としては冬であっても、温暖なペレジアで雪が積もるというのは滅多にない。今、街道から外れた細い私道を駆ける馬車が轍を残していくのも、ところどころ霜が溶けたことで僅かに泥濘んだだけの地面だ。その色は他の季節と同じように土のもの。小窓を開けて見れば過ぎゆく緑も目に入っただろうが、身体を冷やさぬようにと、愛用の外套の上に更に毛糸で編まれた上掛けを羽織って<マーク>を抱くルフレにはとてもそんな余裕などなかった。
ほぼ全速力と言ってよい速度で疾走する馬車は、乗り心地を重視した高級な作りのものであっても非常に揺れる。それは仕方がないことだ。何しろ舗装された道を走っている訳ではなく、車輪が小石に引っ掛かる度に車体はがたがたと耳障りな音を立て揺れた。けれどその振動すら彼女は認識していないようだ。
ルフレの思考を占めているのは、ただただこの半年あまり、ひたすらに自分を忘れて幸福になってくれるよう祈り続けた男、だというのにこれだけの時が過ぎてもなお、はるばるペレジアまで追手を差し伸べた彼女の半身、聖王クロムのこと。
(どうして……忘れてくれたと思ったのに……!)
お腹の子の存在をクロムに知られぬ為に、三度彼との約束を破り捨てルフレはイーリスを出た。何の許しも得ず、彼が不在の間を縫ってまるで逃げるように。謝罪と、彼の幸いを祈る言葉を短く記した置き手紙だけは残したが、クロムにとっては何よりの裏切りだったろう。
約束を、した。
あの冬の夜、もうこれ以上は耐え切れないとひとり聖王国を離れようとしたルフレを見咎め、昏い感情を瞳に宿したままクロムは乱暴に唇を奪い、初めて男性を受け入れる痛みを思いやることなく、貪るように彼女を抱いて。
ずっと愛していたのだと、そして今も愛しているのだと何度も何度も囁いた。
その彼を、ルフレは仮面を被り、氷を吐くような冷たさで拒絶し、それでももはや隠しきれず自分への愛おしさを瞳に溢れさせた彼へ告げる。これは夢なのだと、夜が明ければすべて忘れましょうと。忘れてくれるなら、もうイーリスを、あなたの傍を離れることはしないと。
それなのに、自分を犠牲にはしないとの言葉を翻してギムレーを消滅させた時のように、再び約束を破って消えた女を何故こうまでして追い求めるのか。
けれど何故、どうしてと慄きながら、それとは違う反応を示すもうひとりの自分の存在を、ルフレは確かに感じていた。
『彼女』は悦んでいる。
これほどまでに想う男から愛され、求められていることに。
それに気付いて必死に振り払おうとするが、心の奥底から尽きぬ泉の如く溢れ出す悦びはルフレの身体の隅々まで伝わり、同時にあの晩、彼から与えられた熱と痛み、残酷な、だがずっと本心では欲していた言葉が蘇る。
己から離れようとした半身を罰するように手酷くルフレを抱くクロムは、まるでそれが彼女を自分の元に繋ぎ止める唯一の手段であるかのように、誰のものでもなかった真白い裸身へ行為の最中ずっと印を刻み続けた。
彼が身体中至るところに刻んだ所有の印のような朱い痕は、もうとっくに薄れて消えてしまったにも関わらず、まだ変わらずそこにあるようにじわりと熱を持つ。
(違う……違うんです、わたし……は……)
願うのは、祈るのは彼の幸い。ただそれだけ。
どれほど殺そうとしても、この胸に宿るクロムへの想いは消し去ることができなかった。だからイーリスから遠く離れた地で、二人のマークと共にひっそり彼を想い行きていこうと決めた。そしてクロムには自分を忘れて幸せになって欲しいと、そう思ったのは本当だ。本当なのに――――――。
「……さん、母さん」
「あ……」
がたりと大きく揺れた衝撃で傾いだ身体を抱き寄せられたことで、弾かれたようにルフレは顔を上げた。馬車の中で隣に腰掛けたマークは、いつもはにこやかな笑みを浮かべたその面に気遣わしげな色を浮かべ彼女を呼ぶ。そうして強張る両腕を解すようにそっと触れた。
「そんなにきつく抱いたら、<マーク>が可哀想ですよ」
「ご、ごめんなさい……!」
指摘され慌てて抱いていた赤ん坊に視線を落とすと、産着に包まれた<マーク>は泣き声こそ上げなかったもののやはり苦しそうだった。すぐに腕の力を緩め、詫びるように優しく頬を撫ぜてやると一転、あどけない顔できゃっきゃと笑う。もうルフレを母親だと認識しているのかどうかは分からないが、いずれにせよ自分を保護する存在として絶対的な信頼を寄せてくれているのが伝わってきた。
それなのに、ルフレが守ってやらねば生き延びることさえ難しい幼子を抱いて彼女が思い起こしていたのは、この子の父親に嵐のような激しさで貪られた時のあまりにも鮮明な記憶。後ろめたさと罪悪感で身の置きどころがないような感覚に襲われた。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。
きっとどうしようもなく酷い。そう思うと自然俯きがちになってしまう。ルフレの内心を知ってか知らずか、マークは肩に回した手をゆるゆると動かし、落ち着かせるように身体をさすってくれた。
「……大丈夫、大丈夫です。来ているのはおそらくティアモさんでしょうけど、ソーニャさんが足止めしてくれていますから。その間に別の場所へ身を隠しましょう」
「でも……ソーニャさんは、」
「心配いりませんよ、母さん。あちらも正式な使者ではないと思いますし、今後の関係悪化を避ける為にも揉め事はできるだけ避けたい筈です。荒っぽいことにはなりません。僕が保証します」
こちらを不安にさせないようにだろうか、迷いなく断言するマークの低い声音に少しだけ落ち着く。
館の周囲には招かれざる客は道に迷うという呪いを掛けているらしく、容易には辿り着けないようになっているらしい。だからすぐには追いつかれないわと、ソーニャは言った。彼女も、彼女の館の人々も皆優しかったのに、満足なお礼の言葉すら伝えられず後悔ばかりが残る。サーリャにも、<マーク>が産まれてからはとうとう会えなかった。どうか何事もないといいけれど。
「母さんも、<マーク>も、僕が守ります。……だから、少し休んで下さい。眠れないでしょうけど、目を瞑るだけでも違いますから」
囁く声は、やはりひどく優しい。こんなにも優しくされる資格が自分にあるのだろうか。
促されるまま目蓋を下ろしたルフレは自嘲する。
瞳を閉じて、真っ先に浮かんだのは宵闇の中、愛していると囁いたクロムの、もはや隠しようのない熱を溢れさせた藍色だった。
***
自分の言葉に従って、素直に長い睫毛を伏せ身体の力を抜いてくれた母に、ほうと安堵の息を漏らす。
マークはずっと、いつかこの日が来ることを予見していたが、彼女にとっては衝撃だったのだろう。馬車に乗り込み館を去ってから今まで、母はずっと小さく震えていた。
領地の周囲に張り巡らせた呪いが天馬の気配を察知し、ソーニャはすぐにマークとルフレへ館を出て身を隠すよう告げた。素早く移動するのなら馬の早駆けが一番早いが、産後間もない母と、まだ首が据わっていない赤ん坊がいてはそうもいかないだろう。馬車と、それを操る使用人まで用意してくれたソーニャにはどれだけ感謝してもし足りない。
けれど、辛くもクロムが差し向けた追っ手――おそらくティアモだろう――から逃れても、まだ安心はできなかった。この半年あまり、母を探し求め続けた聖王は今度こそ己の半身を諦めまい。二度の喪失が、彼の母への強すぎる恋着へ拍車をかけたことは疑いようがない。
母には伝えていなかったが、マークは怪しまれないよう、そう頻繁には訪れることができなかったサーリャが館に姿を見せる度、イーリス国内の様子を聞き取っていた。一度は取り戻した軍師が姿を消したことで、クロムは相当荒んでいるらしい。政務の時は平静さを保っているが、奥向きに戻って一人になると、王を幼少時代から知っている人間ですら近寄りがたいという。それは一度目の喪失、母が自分の存在と引き換えに邪竜を消滅させた時の、すべての感情が失われてしまったような表情とはまた違っている、と。
サーリャからそんなクロムの様子を聞く度、マークは強い不安に襲われた。彼女の生家での日々はまるで眠ったように穏やかで、ずっとここにいられたらどれだけいいだろうと何度も思ったけれど。
(やっぱり、あの人は母さんを諦めてなんかいなかったんだ……)
それを思うと、鉛を飲み込んだような気持ちだった。この身に流れる血の半分は彼のものだが、母がどれほど傷付いてきたか、そして今も傷付き続けているのか知っているから到底歓迎する気にはなれない。もうひとつ、別な理由もあるが……浮かびかけた面影を、かぶりを振ってマークは無理矢理脳裏から消し去った。
馬車はまだ舗装されていない悪路を走り続けている。がたがたと揺れる車内で、母の子どもを一人産み落としたばかりとは思えない華奢な身体を自分の方へもたせかけたままじっと、まだいくらか青白い顔を見つめる。
追っ手の存在に、クロムがまだ自分を探し続けているのだと悟った母は怯え、慄いていたが、淡い色合いの瞳には異なる色も浮かんでおり、人一倍他人の感情の機微に敏いマークはその正体を察してしまった。
……母は、まだ心の奥底では自分の半身を、クロムを求めている。
その事実を突き付けられて、情けないくらいに動揺した。母が自分を、自分達を愛してくれていることは十分に伝わってくる。柔らかな微笑み、優しい声。慈しむように頭を撫ぜてくれる仕草。そのすべてが母の深い愛情を表していた。マークもやはり同じように母を深く愛していたし、そしてそれ故に彼女と小さな<マーク>を守るのは自分だと自負してもいたのに。
(……僕じゃ、僕と<マーク>じゃ駄目なんですか……かあさん)
あなたの幸せは、あの人なしではあり得ないんですか。
尋ねる代わりにきつく唇を噛む。それを口にしては、今ぎりぎりのところで均衡を保っている母の心に剣を突き刺すようなものだ。けれど、と堂々巡りをしそうになる思考を重いものが風を切るような音と共に、一際大きい衝撃が遮った。揺れるというよりは回転しながら揺さぶられているような動き。悲鳴のような馬の嘶きが聞こえるが、御者の声はしない。
「きゃっ?!」
「……っ、母さん!」
咄嗟に母と、彼女の腕の中の<マーク>ごと両腕できつく抱き寄せる。乗り心地がよいように作られていても、壁や支柱にぶつかれば当然痛い。肩や背中に走る衝撃に眉を顰めながらそれでもマークは母を離さなかった。
「……いたたた……」
「だ、大丈夫ですか、マーク?!」
「ええ、まあ……なんとか。母さんも、<マーク>も怪我はありませんか?」
揺れが収まり、体勢を何とか元に戻して呻くと、母は涙に濡れた目で勢い良くマークの顔を覗き込む。それに答えてどうにか鈍い痛みを堪え笑みを浮かべれば、ようやく安心したように母は身体の力を抜いた。
しかし異変から今まで、一度も馬車を操っていた御者の声がしないのが気に掛かる。同様に、この普通に走行していてはありえない揺れのことも。強盗か、追っ手か。どちらにせよいきなり扉を開けることは危険だ。その前にまずはと周囲の気配を探りだしたがすぐに得心がいった。
明らかにこちらに悟らせる為に放たれた気配は、ひどく馴染みのあるものだったからだ。
「マーク……?」
不安げな面持ちでこちらを見上げる母は気付いていないのだろうか。これほど分かりやすい気配なのに。知略に優れ、マークの何よりの目標、優秀な軍師である彼女があからさまなこの気配を察知できない筈がない。それだけクロムのことで頭が占められているのかと思うと、また重苦しい感情に思考を支配されそうになる。天才軍師と呼ばれ、普段は理知的で思慮深い母を、あの王はここまで変えてしまうのだ。
「……母さん、ちゃんと<マーク>のことを抱いていて下さい。今から馬車の外へ出ますけど……絶対に、僕から離れないで下さいね」
乱れる思考を鎮めるために小さく一度息を吸い、ゆっくりと吐き出してから懐へと手を伸ばした。取り出すのは炎の魔道書。基本的な威力としては下から数えた方が早いが、鍛え上げた使い手が用いれば何倍もの力を発揮する。久々に目にした武器に母はさっと身を強張らせ、やがて静かに頷いた。
その様を見届けてから、音を立てぬよう慎重に馬車の扉を開く。気配の主が誰かは察していたし、その通りの人物であればこちらを害する意図はないだろうが……伝え聞いたクロムの今の様子であれば、力づくでも連れ戻すよう命を下している可能性があった。
不意を突かれることを警戒し、そろそろと探るように、最後は勢い良く地面へと足を下ろしたが想定していた攻撃はなかった。しかし油断なく、見せつけるように魔道書を掲げたまま周囲を窺う。
御者は一見外傷はなさそうだったが、力なく突っ伏していた。眠り薬を塗った吹き矢あたりでやられたのかもしれない。そして車体へと目を走らせると、がっしりと絡みつく荒縄がすぐ目に入った。先刻の衝撃の原因は、どうやらこれであったらしい。動きを拘束するような荒縄の先は、近くの樹の幹や枝に繋がっている。
更にあまりに分りやすすぎる気配を探って行き着いた先は――――――。
「よ、久しぶり」
散歩のついでにばったりと出会ったような気安さで、マークの視線の先、太い木の枝に腰掛けた橙色の髪をした男は片手を上げた。背に庇った母が息を呑む気配が伝わってくる。やはり、母にとっては想定外の事態だったのかもしれない。だがマークにはある意味予想通りだった。
天馬騎士団長のティアモは新人時代から将来を嘱望されていた天才肌の騎士だ。優秀だが、正攻法ではないやり口ではその動きも鈍る。いっそ狂おしいまでに母を求める聖王が、いよいよと目星をつけた場所へ差し向ける追っ手を彼女だけにすることなどあり得ない。
血の繋がりの為なのか、マークにはクロムの思考が手に取るように分かる。母を激しく愛し、けれど『半身』という言葉に惑わされてか、恋を知らぬ所為か己が抱く感情を見誤り、別の女性を妻に迎えてしまった彼。
一度喪ってようやく気付いた時には既に遅く、母が戻って来ても、どうしようもなく二人の関係は捻れてしまった。
そうして二度目の喪失を経て、やっと掴んだ愛しい女性を取り戻す機会にクロムが取るべき手段は。
「お前達の捜索任務にあたってるのが、ティアモだけだと思ったのか? ……甘いなあ。甘すぎるぜ」
まずは正面から一人を陽動として向かわせ、相手が逃げ出したところを別行動をしていたもう一人が突く。疾走する馬車を足止めするのは困難だが、盗賊として後ろ暗いことも数多くこなした、こうした追跡に最適な人物をマークはよく知っている。
国宝を納めたイーリス城の宝物庫、厳重な警備で守られたその場所へやすやすと侵入を果たした男。しかし依頼を破棄してイーリス軍に身を寄せ、戦後は聖王に仕える密偵となった彼――――ガイアは、これでチェックメイトだと言わんばかりに片手で飴玉の包みを弄びながら不敵に笑った。
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