約束の新月の夜に間に合う為には、今夜がぎりぎりの刻限だという。マークがルフレと一緒に待っているという港街の場所をクロムは詳しく知らないから、ガイアの案内だけが頼りだ。夕食前、彼とガイアしか知らない方法でようやっと決断したことを伝えると、皆が寝静まってから指定した場所まで来るように言われた。
フレデリクと話したことでファルシオンを執務室に置いてくる訳にはいかなくなったので、結局寝室に戻って旅装に着替え、剣もありふれた鋼のものへと替えていたら少し時間を喰ってしまった。
その為やや足早に、巡回の兵士の目を掻い潜って目的の場所へと急ぐ。そうして城内のあちこちに配置された庭の内のひとつに出た。ここまでくればもうあと少しだ。夜警の兵もこの周囲は少ない。見上げた夜空に浮かぶ爪月は消え入りそうなほど細く、もう新月が迫っているのだと思うと気は急いた。
だが。
「まだお休みになっていらっしゃらなかったのですか。……クロム様」
「……っ!」
クロムが逸る気持ちのまま一歩、整然と整えられた庭園内へ足を踏み出すのとほぼ同時に、耳に慣れ親しんだ――そして先刻も語らった記憶の新しい、穏やかな低い声がしんと静まり返った周囲へ響く。
はっと視線を走らせれば、微かに草の茂みを揺らして現れる騎士の姿。鎧こそ簡易な胸当てだけになっていたが、もう夜も大分更けたというのにフレデリクはまだ帯剣していた。ただの散歩というにはあまりに静かで、何か決意を秘めたような鳶色の瞳に見据えられ、クロムは思わず息を呑む。
今のクロムは室内着ではなく、荷袋も背負った完全な旅装、しかも防寒の為に分厚い外套を羽織っている。その下も彼が聖王家の関係者であることを如実に示す、右腕の聖痕を覆い隠すような両方とも袖が付いた上着を着用しているのだ。とても、そろそろ休むと言い放った男の服装には見えない。
「ファルシオンはどうされました」
フレデリクは主の腰に視線を移すと、やはり静かに、静かに重ねて問う。イーリスの国宝、初代聖王より千年の永き時を経て受け継がれてきた神剣。この国を守護するナーガの力が凝った光の刃。十六で成人すると同時に正式に継承者となり、以来常にクロムの傍らにあったファルシオンは今彼の手元にない。代わりに吊るしているのは、何の変哲もない鋼でできた剣だ。
今までクロムに仕えてきたフレデリクだからこそ、この異常さが分かるだろうに。忠義心の篤さから騎士の鑑と褒め讃えられる男の口調は、変わらず動揺の欠片もなく、その静けさがいっそ恐ろしいまでに思える。
(何故……こいつがここに……)
まるで始めからクロムを待っていたように。清廉な月の光を浴びて佇む男の瞳を直視することができない。もはや愛しいたったひとりの女の為にイーリスを、聖王の座を捨てると決めていたのに、既にクロムの中にはない、彼が王道を往く未来を望んだ、己にずっと忠実であった騎士へ嘘をついた負い目が視線を逸らさせる。
「お答え下さいクロム様。それとも……あの方のところへ行かれるのですが」
「なっ……?!」
自分の顔色が血の気を失うのが分かった。手紙を持ち帰ったガイアは別として、自分以外誰にもマークが持ちかけたこと、そのことに対する自身の決断を話していないというのに、何故。声には出せずに目線の動きと表情だけで問うと、フレデリクは物言いたげに微笑んだ。
「あなたは本当に……嘘が付けない方ですね。ガイアさんが帰還されてからのここ数日、ずっと悩んでいらしたでしょう。彼の報告に――更に言うならあの方、ルフレさんに纏わる何かが原因だということくらい、すぐに分かります。そして悩みながらも、溜まっていた仕事は綺麗に片付けていらした。……まるで遠征や外遊に行かれる前、しばらく戻らない時のように」
「フレデリク……」
その通りだった。決定的な決断こそぎりぎりまで躊躇ったものの、もう生まれ育った祖国へ戻らないだろうという意識は常にどこかしらにあって、王の決裁がなければどうにも動かない急ぎの案件は今日までにすべて処理してしまった。すべてを捨てて行こうとしているのに欺瞞だが、できる限り混乱を招きたくなかったのだ。
だがそれが、逆に彼を訝しがらせてしまったのか。
淡々と語るフレデリクの名を呟き、クロムはきつく拳を握り締める。その後に落ちた、二人の間に横たわる沈黙は押し潰されそうなほどに重かった。今更取り繕ったところで、長い付き合いの彼を欺けるとは思えない。だがこうしている間にも刻一刻と時間は過ぎてゆく。まるで砂が落ちるのが目に見えるようだ。そしてその砂が落ちきった時、クロムがルフレを再びこの腕に抱く機会は失われる。……そう、おそらく永遠に。
――――――あなたが母よりも玉座を、イーリスを選ぶというのなら。もう二度と母に相見えることは叶わないと思って下さい。そうなれば僕は逃げます。たとえ地の果てまででも……あなたから、母を連れて。
手紙の中でマークは固い決意を感じさせる、強い筆致でそう書き綴っていた。ルフレが戻るまで、と彼女の仕事を任せていたマークの優秀さはよく知っている。母親譲りの鋭敏な頭脳と手腕を持つ彼がこう記してきたなら真実、そうなるだろう。文字通り地の果てまでも、どこまでも逃げ続けるに違いない。
だから今宵が本当に最後の機会なのだ。ルフレに再び逢う、最後の。
逢ってどうするのだとまたもうひとりの自分が囁く。
彼女へした仕打ちが到底赦されるものではないことは、十分過ぎるほど分かっている。マークの父親の存在もクロムの心へ影を落とすもののひとつだ。けれど、どうかもう一度。もう一度ルフレに逢いたい。逢って、あの最低で下劣な行為を詫び。そして赦してもらえずともいい、傍にいさせて欲しいと跪いて請いたい。
何と引き換えにしても、二度と彼女を喪いたくはなかった。もしそうなれば、今度こそ王ではない「クロム」は死ぬ。生きて、息をしていても心が。最愛の女性の三度目の喪失は、クロムの心を完全に殺す。
「……っ、頼む、何も訊かずに行かせてくれ」
全身に纏わり付く重い沈黙を振り払うように、クロムは震える声で告げる。懇願とも言える響き。けれど返された言葉には苦いものが滲んでいた。
「そして、私にあなたを失えと?」
これまでずっと静かだったフレデリクの表情には、隠しきれぬ苦渋の色がある。それを見るだけでクロムもまた心が二つに引き裂かれそうな痛みを覚えたが、かと言ってここで引くことはできなかった。
口元を引き結んだまま一言も発しない主をじっと見つめ、騎士は再び唇をゆっくりと動かした。
「それほど……それほどあの方のことを愛しておられるのですか」
「ああ」
「……奥方様よりも?」
「ああ」
「……ルキナ様よりも?」
「……ああ」
「……エメリナ様から受け継がれた……この国よりも?」
「――――――…………ああ」
絞り出すようにして囁かれた声音はいっそ悲痛だった。あなたが王道を歩く様を見守らせて欲しいと彼は言った。彼が王としてのクロムを誇らしく思ってくれていることは知っている。聖王国の騎士として、またクロムを幼い頃から知っている近侍として、聖王クロムに仕えることに喜びを見出していることも。
クロムとて、姉から託された祖国をより良き国へと導くこと、その為に心砕いてきた想いに偽りはない。永遠に捨て去ると決めた今でさえ、未だイーリスを、この国に住まう人々を愛している。
だが、たとえどれほど身勝手だと罵られようと喪いたくない女(ひと)がいるのだ。
痛いほどに拳を握り締め、クロムは血を吐くように叫ぶ。
「そこをどけ! フレデリク……っ!!」
「いいえ、どきません。どんなにお叱りを受けようとも、この場を退くわけにはまいりません。どうしても行くとおっしゃるのなら……私を斬ってからになさって下さい!!!」
応じるフレデリクが上げた叫びもまた悲鳴のようだった。逸らされることのない視線の強さは、彼も引くつもりがないことを示している。焦燥と絶望とで目の前が暗くなるような心地がした。
これもまた、神がクロムを試しているのか。一度喪うまで自らの想いに気付かなかった愚かな罪人。その自分が、何を犠牲の祭壇に捧げてもいいほどの覚悟があるのかと。
唇を強く噛み締め、クロムは腰に佩いた剣を引き抜いた。月の光を返す鈍い輝きに、無言のまま騎士が目を瞠る。……生じる、一瞬の隙。
それを見逃さず、地面を蹴って勢い良く打ち掛かる。致命傷を負わせずとも、刀背打ちで一時的に気を失わせればいいのだ。だが騎士団長の地位は飾りではなく、フレデリクはすんでのところで愛剣を手にクロムの刀身を防いだ。宵闇に響く鈍い音。鍔迫り合いの最中どちらも譲らずぎりぎりと押し合いながら、険しい表情で彼は囁く。
「たったひとりの女性の為に、すべてを捨てるのですか……?!」
「……っ……!」
「この国は、イーリスには聖王が必要なのです。あなたという王が!! だというのにご家族も、エメリナ様が愛したこの国すら、あなたの未練にはならないと?!」
「……くっ」
「クロム様っ!!!」
フレデリクが語る言葉のひとつひとつが鋭い刃のように心を抉る。彼の問いはそのすべてが何度も何度も繰り返し、自問自答したものだ。クロムの父王が起こした戦で、聖王家の直系と言うべき人間はほとんどが長引く戦禍の中失われた。ここでクロムが姿を消せば、愛する祖国は避けようもなく荒れるだろう。
それでも。
「それでも、俺は……っ!!!」
一際強く刀身を押し、押し返されるその反動で飛び退ってフレデリクから離れた地面に着地する。低く構えて今度は武器を奪おうと、再び打ち掛かる為に身を沈めたクロムだったが――――がくり、と意志に反して膝が地面についた。
「……な…………?」
突然我が身に生じた事態に上げた声は弱々しい。全身が重く、剣を杖代わりにし、両腕で縋って支えねば地に倒れ伏してしまいそうなほどだ。そう、これは……強烈な睡魔。夜、寝台で目を閉じれば訪れる安らかなものとは異なる、あまりに暴力的なそれは異常だった。今のクロムは眠りなど些かも必要としておらず、むしろ落ち続ける時間の砂に焦りすら覚えている。だというのに、容赦なく意識を絡め取ろうとする睡魔に混乱していると、「ようやく薬が効いてきたのですね」とごく近くで囁く声がした。
「くす、り……だと……?」
「ええ……。クロム様は毒に耐性がおありですから、調合する量には随分と苦心いたしましたが。間に合ったようで、何よりです」
爪を立て、きつく唇を噛み締めて睡魔に抗うクロムのすぐ傍に、いつの間にか騎士の姿がある。幼い頃からずっと兄のように思ってきた男は、凪いだ瞳でこちらを見下ろしていた。記憶を辿りながら、執務室で彼に供された香草茶の香りや味が、いつもとどこか違っていたこと、それを飲み干すまで強くフレデリクが見つめていた光景が矢のように脳裏を過ぎった。
「ま……か……」
「ご安心下さい。量は多くとも、身体に害はないものです。ただ夢すら見ずに、深く……深く眠っていただく為だけの薬ですから……」
呟く声はもはや意味ある音となってはいない。少しずつ少しずつ目の前が暗くなっていく。駄目だ。ここで眠っては。約束の新月に間に合わない。
絶望的な気分に襲われながら、それでも必死に抗おうと縋っていた剣の柄から抜き身の刀身へ、手のひらを滑らせようとした。皮膚を傷付ければ、少しはこの強烈な眠気もましになるかと祈るような気持ちで。
だがその前に、察したのかフレデリクによって剣は奪われ、もう手の届きようのない距離へと放られてしまう。身体を支えるものがなくなったクロムは力なく倒れ込むしかなかった。
(ま……だ、だ。まだ……おれ、は……)
ぽたり、と何かが地面に落ちた。しかし視界が暗くなりかけている為、それが何なのか認識することはできない。だがおそらく血だろうと掠れる思考の向こうで、ぼんやりと思う。眠るまいと唇を噛み過ぎた所為で、血が滲んで溢れたのだろう。
しかしそれほどきつく噛んでも睡魔は無慈悲なまでにクロムの意識を浚ってゆく。
『私の手を取って下さい……クロムさん』
気が付けば、手を伸ばせば届きそうな距離にルフレがいた。薄暗がりの闇の中、長い髪を靡かせて微笑む彼女は、あの日、姉の死で失意の底に沈むクロムを毅い眼差しで引き上げた時と同じ言葉で、ゆっくりと白く、たおやかな手のひらを差し伸べる。
それに応えようと、クロムも霞む視界の中、重い身体を必死に動かした。
(ああ……ああ。俺は今度こそ間違えない。今度こそ……お前を…………)
「……る、ふ…………れ」
だが、ほっそりとしたルフレの手に触れようとしたまさにその瞬間、クロムの意識は光ひとつない漆黒の闇に呑まれたのだった。
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