イーリスに帰還すると、息をつく暇もなく王城へと招喚された。行きはティアモの天馬に乗せてもらえたので大分楽だったが、帰りは地道に陸路を使ったのでさすがに休みたいと訴えてみたところにべもなく斬り捨てられ、薄汚れた格好のまま主の前に出ることになった。それだけでなく、いつもならばクロムの時間が空くまで多少は待たされるのが普通なのに、その日は今までにない早さで聖王の執務室へ通される。
それだけ、ガイアの報告が――ルフレを連れ帰ることができたのか、事の成否が待ち遠しかったのか。本来ならば自分の足で己が半身を追いたかったであろうクロムは、焦れるような気持ちで待っていたに違いない。
ガイアが姿を見せるや、座していた椅子から勢い良く立ち上がり彼の名を読んだのもその証拠だ。深い藍色の瞳には、ルフレというひとりの女性、クロムの戦友、軍師として長い間彼を支え続けた彼女への切愛とでも言うべき感情が溢れている。聖王として一国を背負うべき者が持つにはあまりに危うく、狂おしいまでのその色。
(まったく……どうしてこうもお前たちは、救いようがないくらい歪な関係になっちまったんだ?)
ガイアは今でも覚えている。クロムとルフレ、当時から既に分かち難い絆で結ばれていた二人の、互いに互いを見る時に瞳へ宿る親頼と、それ以上のものを覗かせる思慕の情を。だからこれは自分なぞ割り込めはしないと、早々に尻尾を巻いて逃げ出したというのに。
クロムの婚約が発表された時、遂に来るべき時が来たかと覚悟したが、未来の聖王妃として挙げられたのは見ず知らずの女の名で。本当にそれでいいのかと尋ねても、ルフレは完璧な――完璧過ぎるほどの笑顔で微笑むばかりだった。
その時の微笑みと、つい先日見た、生後間もない赤ん坊を抱いた彼女の今にも消え入りそうな、怯えを隠しきれない表情が交互に脳裏へ浮かぶ。その怯えは連れ戻されることへの恐怖よりも、決して離すまいときつく抱き締めた我が子の存在をクロムに知られること、そして即位以後、側室を一切持たなかった彼が妻以外の女性を孕ませたことで、聖王家と、王権に近付くことを目論む一部の貴族家間の均衡が崩れることへの恐れだ。
「ガイア……! ルフレは、ルフレはどうした?!」
「おい、落ち着けって」
一向に無言のままのガイアに焦れたのか、クロムは政務の際の取り繕いもかなぐり捨ててにじり寄る。既に執務室は人払いがされており、室内にはクロムとガイア、そして騎士団長となっても常に主君の側近く控えるフレデリクの三人だけ。
だからこそのこの状態なのだろうが、やはり危ういことには変わりない。どうにか宥めようと声を掛けるが、密偵ごときの言葉では効果はないようでますますいきり立つ。
彼から下された密命の結果を報告したいのはやまやまだが、今すぐこの場でとはいかない理由があった。懐に収めたある物の存在がずしりと重く感じられる。
成長したことで、親子と言うよりはむしろ夫婦のようにさえ見える母親と、生まれたばかりのこの時代での自分自身を必死に庇うようにしていた青髪の青年。彼から提示された「取引」に、ガイアは応じた。そうして託されたのが懐にある物だ。クロムに直接、渡して欲しいと。内容は訊かなかったが大体の想像は付いた。そして、その為にはここにいてまずい人物がひとりいる。
「今、報告はする。するが……その前に人払いをしてくれないか」
「……既にこの部屋にはクロム様と私、そしてガイアさん、あなたしかいませんが」
「悪い、フレデリク。今回ばかりはお前も駄目だ」
きっぱりと告げたガイアに、主君に忠実な騎士の眉根が寄る。それも当然だろう。これまで各地での隠密行動の結果集めた情報を報告する時も、クロムの傍にはほとんど例外なく彼がいた。フレデリクは騎士団を束ねるのに相応しい武官だが、政務を執る際の細かな調整役として、また王の側近としても優秀で、クロムの元に集まる情報は彼の耳にも入れておく必要があったのだ。
だが、今度ばかりは。
「お前が不安に思うのも分かるが、俺はクロムに害を及ぼしたりしない。少し、外してくれないか」
「どうしても、フレデリクがいてはできない話なのか?」
「……ああ」
フレデリクが、目の前の男のことを幼い頃から見守り続けていること、不敬だと決して口にはしないだろうが、弟のようにも思っていることは知っている。だが彼も聖王家に仕える騎士だ。聖王としてのクロムと、ただのクロム。どちらが彼にとってより大切なのか。未だ見極めきれぬ以上、危険は冒せなかった。
しばらく、無言のままに見つめ合う。だが結局折れたのはクロムの方で、彼は己の騎士の名を短く呼んだ。それだけで付き合いの長い男には分かったらしく、「……承知いたしました」とやや不服そうではあったものの、完璧な騎士としての礼の後、音も立てず退出する。
静かに扉が閉まり、規則正しい足音が完全に遠ざかったのを確認してからようやくガイアは口を開いた。
「……ルフレは、今ペレジアの港街にいる。マークも一緒だ」
「何っ?! 何故、連れて来なかった……?!」
気色ばむクロムを再び落ち着けと宥めてやりながら、一瞬躊躇う。取引には応じたものの、これを渡すことが果たしてクロムとルフレ、二人の友人の為になるのか。今更ながらに迷ってしまったからだった。そして、心の奥底ではこの男のことを血の繋がった家族として慕いたいのであろう青年。彼はルフレにはこのことについて何も告げていなかった。何も話さず、ひとりで抱え込んで。もしクロムの選択が望まぬものであったなら。
しかしそれらの懊悩を振り払って、ガイアは懐から取り出した一通の手紙をクロムの手に押し付けた。自分が悩んで解決する話ではないのだ。それならば、後はもう天の采配に任せるしかなかった。神様、というやつを正直あまり好いてはいなかったのだが、ガイアにできることはただ祈るだけだ。
今度こそ、この男が選択を誤らぬように。
「これは……」
「マークから預かった。とりあえず、何も言わずに最後まで読んでくれ」
「マークから? いったい何が、」
「いいから読めって」
しばしの押し問答の後に、クロムは手紙の封を切る。その時、ひとつの世界を救った男の手は僅かに震えたようだった。部屋にはゆったりとした長椅子も、彼が先ほどまで腰掛けていた椅子もあったが、二人とも座らず立ったままだ。
手紙の中身を、ガイアは知らない。取引に応じると答えた後、部下を散じさせて彼だけがルフレやマークと共に近くの街へ赴いた。その時には既に辺りは暗くなっていて始めは分からなかったのだが、意外にも海が近かった。潮の香りのする宿で落ち着いた後、マークは相当急いで書き上げたようだが、何と綴ったのだろう。
息を詰めて見守っていると、クロムの顔色は次第に蒼白になっていく。信じ難い事実を突き付けられたように両の手は今やはっきりと分かるほど震え、口元からは声にならない喘ぎが漏れた。
「そんな……まさか」
「……っ、クロム?!」
やがて呆然と掠れた声で囁くと、力なくクロムは崩れ落ち床に膝を付く。そんな彼の様子を目の当りにするのは、ルフレが自分の存在と引き換えに邪竜を消滅させたあの時以来だ。慌てて傍らに跪き、身体を支えてやる。その拍子に手紙に書かれた文字が視界に飛び込んで――――ガイアはクロムの混乱と動揺の理由を悟る。
(やっぱり、な……)
乱れた筆致で記されたそれ。未だ彼は知らぬとはいえ、血の繋がった正真正銘彼の子である青年が、救国の英雄として讃えられる男へ突き付けたのは。
――――――あなたが母を、母だけを選んでくれるのなら。次の新月の晩、港の波止場でお待ちしています。
王として等しく国へ、民へ注ぐべき愛か、人として唯一の女性へ捧ぐべき愛か。そのどちらかを選べと……どちらをも望むことは赦されないと迫る、もはや誤ることはできない選択だった。
***
今も友好関係が続くフェリアと比べれば温暖とはいえ、やはりこの時期の聖都は寒い。だがクロムが感じている震えは、辺りを包む空気の身を切るような冷たさばかりの所為ではない。外した剣帯と、成人してからはずっと傍らにあったイーリスの国宝、神剣ファルシオンを執務机の上に置き、クロムは息の詰まるような静寂の中にいた。
暖炉に火も入れず、吐く息は僅かに白い。夕食も終えて湯浴みも済ませ、急ぎの仕事も溜まっていない。常ならば寝室に下がるべき時間だ。聖王夫妻の為にと用意された部屋の扉を開いたことはしばらくない。戻るとすれば聖王個人の寝室だが……この国の至尊の地位にある者を安らがせるよう、いつも完璧に整えられた寝台を暖めることももうあるまい。
今夜、とうとうクロムはひとつの選択をした。
誰に話しても非難を免れ得ない選択だ。英雄と讃えられた聖王クロムの名は、今宵を限りに地に堕ちるだろう。
だがどうしても、とクロムは手の中にある手紙を握り締める。読み返す必要はない。今日この日まで、幾度も幾度も繰り返し読む内に中身はすっかり脳裏に刻み込まれてしまった。
思い返すのはあの冬の夜。イーリスを、クロムの傍を何の未練もなく離れて行こうとしたルフレを無理矢理組み敷き、彼女が消えてからというものの、募るばかりだった情愛と昏い劣情をぶつけ犯した。
愛しているのだと繰り返し囁いても、涙を流し続ける彼女は何も応えず。初めて男を受け入れる身体はただただ硬くクロムを拒んだ。そうしてルフレの意志など無視して華奢な肢体を貪り尽くした後、返されたのは当然、戦友として、相棒として信頼していた男に裏切られた怯え。冷たい拒絶の言葉。
それらは何よりも雄弁に、私はあなたのことを男として愛していないのだと彼に突き付けたのも同然だった。
だからこそ、彼女はクロムの傍にいることに耐えかねてイーリスを去ったのだと、ずっとそう思っていた。だがマーク、クロムが誰よりも求める女性の面影を色濃く宿す青年は、この手紙に記したのだ。母は本当は今でもあなたの傍で、あなたを支えたいと願っている、と。けれど息子として、母をあなたに任せられないと思ったから、彼女を説得してイーリスを出たのだ、と。そして、聖王としてのクロムの元へルフレを戻らせる訳にはいかないが、国も、玉座も、何もかも捨てて彼女だけを選ぶのなら、クロムの手に彼女と、もうひとつの希望を返してくれると。
彼の中の冷静な部分、確かに代々聖王家の人間に受け継がれた執政者としての部分はそんなことがあり得る筈がないと否定する。あれだけの仕打ちをされたルフレが、未だお前の傍に舞い戻りたいと思っている筈がない。お前は、お前を愛してもいない女の為に姉から受け継いだ国を捨てるのかと詰る。
だが、クロムは。聖王でもなく、王弟でも、王子でも、神剣の継承者でもないただのクロムは。
(ルフレ……もし、お前が。お前がもし……少しでもいい、俺のことをまだ想ってくれているのなら……)
それは、彼が永い永い間彷徨っていた暗闇に差し込んだ一条の光のようだった。
(俺は……俺、は…………)
後世、愚王との謗りを受けるに違いない、王としてはあまりに愚かな決意を胸に秘めたクロムは、手紙を懐へと収めるとゆっくり立ち上がる。だがすぐに、硬質な響きが夜の静寂の中室内を震わせた。
「……クロム様。そちらにいらっしゃいますか」
「フレデリクか……。ああ、中にいる。……入れ」
「失礼いたします」
騎士団長である多忙な身ながら、未だに何かと自分のことを気遣う男の声に、内心焦りながらも努めて平静さを装って応えを返す。滑るように入室したフレデリクの手には湯気の立つティーポットとカップが乗った盆があった。まるでこれからの行動を見透かされたような時機での訪いに思わず身構えるが、彼の方はいつもの如く穏やかで、暖炉の火も入っていない冷え冷えとした室内に僅かに眉をひそめはしたものの、常と変わったところはないようだった。
「大分冷え込んでおりますが……ずっと、こちらに?」
「あ、ああ……。少し、考え事をしていたら随分と時間が経ってしまってな。暖炉の火が消えたのも気付かなかった。これから戻ろうとしていたところだったんだ」
「そうですか。ですがそのまま休まれてはなかなか寝付かれないでしょう。お茶をお持ちしましたので……よろしければこちらを飲んで少し温まってからになさってはいかがですか」
幼い頃から騎士と言うよりは口うるさい教師のように、時には兄のように自分と妹を見守ってくれた男は気遣わしげにそっと微笑んで、手慣れた手付きでポットを手に取った。澄んだ色の液体がカップに注がれていく。それと同時に薬草のような匂いが鼻腔を擽った。いつも彼が気持ちが落ち着いてよく眠れるお茶ですよ、と淹れてくれるものとよく似ていたが、どこか違う気もする。
「火も少し起こしましょうか」
「いや、いい……って、お前は人の話も聞かずに……」
「クロム様がお風邪を召されては大変ですので。ああ、香草茶の方はもう少しお待ちください。まだ少し熱いですから」
止める間もなくフレデリクは薪を放って暖炉に火を入れてしまった。赤々と燃える炎。薪が爆ぜる音が次第に大きくなり始め、少しずつ少しずつ部屋の温かみを増していく。すぐに首巻きやら手袋やらを付けさせようとしないだけ、こいつも落ち着いたのかもしれんなとクロムは思う。
もう少し待てと言われたが、何となく手持ち無沙汰でカップを右の手のひらで包み込んだ。陶器の感触越しに伝わってくる温もりはフレデリクの普段からの心遣いを表しているようで、今夜クロムがした決意はそんな彼をも捨てていくことなのだと胸は痛む。
まだ幼い頃、女王として姉が立ったばかりの時は、姉を支えるのだと意気がってもやはり淋しかった。だがリズの手前強がって見せていると、夜、ホットミルク片手に今よりも年若い彼が部屋の扉を叩くのだ。
そうして今にも泣き出しそうな顔を見られたくなくて毛布を被るクロムの背を優しく叩きながら、他愛のない話をしてくれて。それを黙って聞いている内に段々落ち着いて、毛布の陰から顔を覗かせると、変わらぬ穏やかな笑顔がいつもそこにはあった。
あの時のホットミルクの味を、まだクロムは覚えている。
「なあ……フレデリク」
視線でもういいと言われたので、カップを口元へ運びながら静かに彼を呼ぶ。
「お前とは、もう随分長い付き合いになるな」
「そうですね……かれこれ、二十年近くにはなるでしょうか。早いものです」
「色々苦労をかけたし、世話になった。稽古の相手をしてくれたのもお前だし、自警団を作りたいと俺が無茶を言い出した時も、お前は愚痴らしい愚痴もこぼさず、組織づくりから団員の面接から指導までほとんど一手に引き受けてくれたよな……」
「今だから言えますが、あの時は白髪が増えて大変でした。ですが……まあ、楽しかったですね」
目を細める彼はじっとクロムがカップの中身を飲み干すのを見つめていた。その視線の強さにどこか引っ掛かりを覚えながらも、空になったカップを戻す。机の端に寄せていたファルシオンを手に取り立ち上がる。
「……ありがとう。大分身体も温まったことだし、俺はそろそろ休むよ」
「――――クロム様」
「ん? どうした?」
「私の主は今までもこれからもあなただけです。ずっと……あなたが、あなたの王道を歩く様を傍で見守らせて下さい」
「…………大袈裟だな、お前は。許可なんぞ求めなくても、いつも小うるさいくらい俺の世話を焼くくせに。これからもずっとそうしていればいいさ」
それだけ告げると、クロムは急いで扉の外へと出た。後ろ手で、不自然にならぬ程度の強さで扉を閉める。
「……っ……」
嗚咽が漏れそうになるのを、片手で口元をきつく覆うことで堪えた。嘘だ。嘘を、ついた。両親を早くに亡くし、姉は女王として国のものとなり。肉親の愛情に乏しかったクロムを時に厳しく、けれど常に優しく見守り続けたフレデリク。気恥ずかしく口に出したことこそなかったが、兄のようにも思っていた彼に、最後の最後で嘘をついた。
(すまん、フレデリク……だが、俺はもう……お前の言う王道を歩く資格がないんだ……)
自分はもう、国よりも玉座よりも、たったひとりの女性を選んだのだから。
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