クロムが呼んでいるよ、と言い難いことを口にする時の癖である、収まりの悪い跳ねた髪をしきりに触る仕草をしながら夫が告げたのは、サーリャがそろそろ予定日を迎える筈のルフレの出産に間に合うよう、イーリスを発とうとしていた、その前日のことだった。
小さな<ノワール>を寝かしつけ、未来から来た娘の方であるノワールも寝室に下がった夜半過ぎ。夫婦二人だけとなって、いつもなら穏やかな顔でホットミルクを差し出して他愛ない話をしてくれる夫のソールが、椅子に座ったままなのを不審に思って尋ねた(というよりは問い詰めた)結果であった。
(……気付いたのね……)
内心でそっと呟いて、きゅっと唇を僅かに噛む。時期が悪かった。サーリャとて、何も永遠に隠し通せると思っていたわけではない。いつかは知られるだろうと覚悟していた。けれどせめて、ルフレが産後しばらくして落ち着くまでは、自分の生家で安全に過ごして欲しかったのに。
「わわっ、サーリャ、髪がぐしゃぐしゃになっちゃうよ!」
サーリャは無言で癖のある髪をやや乱暴に撫で付ける。さらさらと流れるような彼女のそれとは違って、夫の髪は柔らかくはあるものの、なかなか頑固だ。上がった抗議の声を諫めるように、彼女は抑えた低い声で情けない顔をしたソールに向けて口を開く。
「……一応あなたの主君でしょう、陛下と呼ぶべきなんじゃないの……もう自警団にいた時とは違うのよ……」
「そ、それはそうなんだけど……でも……」
「でも? 何……?」
鸚鵡返しに問うてみるが、夫は目線を彼女から逸らし俯けてしまった。サーリャ自身には、世界を救った英雄と謳われるこの国の聖王クロムに対する敬意も友情も、聖王が彼女の友人にした数々の行為によって既に失われ、微塵も存在していない。だが騎士である夫にとってはどんな男であろうと主君は主君。まして以前は形式上代理となっていたが、覚醒の儀を執り行ったことで、戦後は名実ともに聖王となっているのだ。
それなのに、王がまだ王子であった頃、自警団で共に祖国の平和の為駆けずり回っていた頃のように気安く名を呼ぶソールに、首を傾げずにはおれない。ソールは人当たりがよく、また周囲の規範に自らを合わせるということを知っている。そんな性格の彼であれば、至尊の座に就いて久しい王を、いくら昔からの顔なじみといえどきちんと敬称を付けるか、あるいは陛下と呼びそうなものだが。
深く嘆息すると、卓の上で両手を組み黙したままの夫を置いてサーリャは居間から台所へと入った。昼間に買い求めていた牛乳を瓶から鍋に注ぎ、適温に温めて二人分のカップへ取り分ける。
それを持って居間へ戻ると、ソールはまだ視線を卓の上へと落として何かを憂いているような顔をしている。けれどどうせ悩んでいるのは自分自身のことではなく、他人のことなのだ。それは夫の美点であり長所だが、夫婦となって数年が経った今でも理解はし難い。
「話したくないなら……無理に話さなくてもいいわ……」
「……ありがとう、サーリャ。君は優しいね」
ことりと目の前に置かれたカップに、ソールは破顔した。
「優しくなんて……ないわ。優しいのはあなたの方でしょう……」
サーリャが行動するのはすべて自分の為だ。今こうしてホットミルクを持ってきたのも、夫の様子がいつもと異なるのが嫌だからであって、決してソールの為ではない。優しい、と評すべきなのはむしろ彼だろう。ソールは当然のように誰かの為に頭を悩ませたり、心を砕いたりする。
「いいや、優しいよ君は。……あのね、サーリャ。僕がクロムのことをずっと名前で呼んでいるのは……何て言えばいいのかな、願掛け、みたいなものなんだ」
「……願掛け?」
「うん。ギムレーが消えてから……いいや、ルフレが消えてから、クロムはどんどん昔のクロムじゃなくなっていくみたいで、僕は怖かった。まるで『王様』っていう役割を果たすだけの人形に変わっていくような気がして……」
囁くように小さな声で、ぽつぽつと続けてきた言葉はそこで一旦途切れた。再び落ちた沈黙と、カップから立ち上る湯気だけが二人の間に横たわっている。
確かにサーリャが戦場で出会った頃の聖王は、眩しいばかりの光だった。呪術を生業とする彼女には人の心の有り様が視えるが、その時彼の心は清廉で、曇りひとつなく。そして当時は常に傍らにあったルフレを見つめる眼差したるや、甘味好きの、今では盗賊から足を洗った男でも裸足で逃げ出すほどの甘ったるさだったのだ。
(それなのに……あの男は気付かなかった)
己の心の向かう先が誰なのか、はっきりと自覚しないまま、彼は一度も言葉を交わしたことがない貴族の令嬢を妻として迎え――想いを封印して離れようとしたルフレを、半身なのだからこれからも側にいてくれるだろうという、残酷な言葉で繋ぎ止めた。
その頃から少しずつ少しずつ彼の光は曇ってゆき、世界を救うのと引き換えにルフレが身を呈した時、ようやっと求めていたものに気付いて。けれど既にその存在が失われたことで、かつて目を射るほどだった清浄さは絶望の闇に覆われてしまった。
「ヴェイクや、カラム、ソワレ達とも相談したんだけど……。僕らまでクロムのことを陛下と呼んでしまったら……何だかもう、クロムがクロムでなくなってしまうみたいで。ごめん……おかしいよね、こんなの」
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
そう肩を落とす夫の姿は弱々しい。おそらく、まだサーリャが彼等と出会う前、ペレジアとイーリスとの間で開戦する前のことを思い出しているのだろう。屍兵は出没しているといっても、まだその先に待ち受けている危機を知らず、自警団の仲間が和気あいあいとしていた頃。直接は知らないが、楽しそうによく語ってくれたから雰囲気だけは想像できる。
「……戻りたい? 昔に」
傍らに立ってそっと夫の頭を抱え込むと、甘えるように身を擦りつけてきた。背中に彼の手が回る。不思議な手。魔法の手。心臓に近い位置を他人に触れられるのは不快だけれど、この手ならば嫌ではない。
「でもあの頃には、君がいないから」
「…………馬鹿ね」
首を振る夫の、癖のある毛束に差し入れた手を、今度はゆるゆると動かすだけに留めてサーリャは囁いた。同時に、離れた故郷へいる誰より大切な友人には胸中で謝罪を。
(ごめんなさいルフレ……その子が産まれる前には帰れそうにもないわ……)
そして、ソールの温みを感じながら、この半年あまり己の半身を探し求めてきた王と対峙する決意を静かに固めたのだった。
***
ペレジアでも歴史ある呪術師一族の長女として生を受けたサーリャは、母に連れられて何度かペレジア王宮へ赴いたことがある。砂漠の中にそびえ立つ堅牢な佇まいの中で、人々の目も景色も何もかも乾いていたことだけ、鮮明に記憶に残っていた。
この流麗なイーリス城とは何もかも対照的だ。少なくとも表面上は。
騎士ソールの妻だと名乗り、王の招喚を受けたと告げると、あっけなく門番は中に通してくれた。案内は断って、わざわざ人気のない回廊を選んで進んで行く。
逃げるように姿を消した軍師への評価は様々だ。また旅に出たとの言葉少なな聖王からの説明に、城下では仕方がないとの声が多かったが、王宮内ではやや様相が異なる。何処の馬の骨とも知れぬ輩を、王があれほど厚遇してやったのに、何の許しも得ず去るとは、と詰る者も少なくはない。
そんな声を人づてに聞く度に、あなたがルフレの何を知っているのと、自分が知りうるあらん限りの負の呪いを掛けたくなる衝動をサーリャは必死に抑えていた。呪うなら、目の前の事象を深く考えもせずに批評する無知蒙昧な輩ではなく、ルフレがイーリスを去らざるを得なくなったそもそもの原因である、聖王クロム自身を呪うべきだ。
だがそうしてはソールが悲しむ。悲しむ夫を見るのは好きではないので、やはり抑えるほかはなく、消えることのない苛立ちは募るばかりだ。
「……あの、すみません」
壁に誇らしげに掲げられた聖王の絵姿に、思わず表情を険しくしたサーリャを、背後から鈴を振るような声の持ち主が呼び止めた。
「あなたは……ルキナ姫、ね……」
振り返れば、そこにはイーリス王女ルキナ――ただし、ノワールと同じく未来からこの時代にやって来た、既に美しく成長した女性が佇んでいる。未来であればいずれイーリスの女王となるべき筈であった彼女と、因縁あるペレジアを祖国とするサーリャとは交流があまりなかった。だが記憶の中に残る凛とした、いつも背筋を真っ直ぐに伸ばして、迷いのない瞳で相手を見る姿とは明らかに違う、頼りなげな様子に眉をひそめた。
「何か私に用かしら……。あなたの父親に呼ばれているのだけれど……?」
「そ、その……ノワールのお母様、」
「……サーリャよ」
「サーリャ、さん……。あの……お聞きしたいことがあるのです」
「何……?」
胸の前で両手を組み、そこで王女は父親譲りの青い髪を揺らして躊躇うように口ごもる。本当にその先を口にして良いのか、自分でも悩んでいるようだった。聖痕がくっきりと顕れた瞳もやはり深い青。彼女の父王と同じ色彩だが、サーリャはそれと同じ色を持つ人物をあと二人、知っていた。
その内のひとり、もうあどけなさはすっかり消えて、端正な青年らしい顔付きになった「彼」のことが脳裏を過る。瞬間的にこの王女が人気のない場所でわざわざサーリャを呼び止めた理由に思い至るのと、ルキナが縋るような眼差しで口を開いたのはほぼ同時だった。
「マークが……今いる場所を、ご存知ありませんか……?」
「……それを何故私に訊くの」
「それは、お父様がサーリャさんを呼んだ理由と同じだと思います……」
目を眇め、にこりともせず言葉を紡ぐ呪術師の女に気圧されている風でありながらも、王女は一歩も退こうとはしない。
「もし知っていたとしても……私があなたに教えると思うの?」
聖王クロムの娘であるあなたに。
声には出さぬ思いが伝わったのかどうかは分からないが、きゅっと口元を引き結ぶルキナ。ルフレやマークと同じ色彩を持っていても、その姿を見て今まで何の感慨もわかなかった。彼女は、サーリャの大切な友人を苦しめた、そして今も苦しめ続ける聖王クロムの子。彼女自身に罪はなく、むしろ父が自分の母以外の女性に心を奪われていることへ、心を痛めているのは哀れだと思うが、それだけだったのだ。
けれど一瞬、本当に一瞬。
懇願するような王女の瞳に重なったものがあった。
『お願いします、サーリャさん! 母さんを……母さんを助けて下さい!』
半分だけでも、同じ血がなせる技なのか。母が聖王の子を身篭ったと、どうか自分と母が逃げ出すのを手伝ってくれと訪ねて来た青年の、今にも泣き出しそうだった表情と、目の前のルキナの必死さはひどく酷似していた。
「……サーリャ、さん?」
無言で、サーリャは小さく折りたたまれた紙切れをルキナへ握らせる。中は白紙だ。……今は。
「あなたが本当にあの子を追いかけたいと思うなら……その紙を開いてみればいいわ」
「でも、私がこれをお父様に渡すとは思わないのですか」
「あなた以外の手に渡れば燃えて灰になるだけ。あなたが見ようとしても、何もかも捨てて行く覚悟がなければ何も浮かび上がらない……そういう呪いを掛けているから」
「呪術……」
ほんの少し怯えたような顔で、王女は手の中の紙片へと視線を落とす。今すぐにでもと開いてみないのはやはり躊躇故か。らしくないことをしたのは分かっている。酔狂に過ぎる気まぐれだ。それでも、互いに半身と呼び合った二人の、歪んでしまった関係をもしやり直せるとしたら。そんな零に等しい可能性を夢想してしまうのだった。
「……あの子を追いかけるのは、あなたが想像している以上に荊の道。家族も……友人も、立場も……すべて捨てて行く覚悟があなたにはできるかしら……光の王女様」
それだけ静かに告げると、サーリャはさっと身を翻し更に城の奥深くへと進んで行く。最後に一度だけ振り返ると、青髪の王女は微動だにせず手元を見つめたままだった。
あの王女には血の絆も超えるだけの毅さがあるだろうか。それとも彼女の父と同じく自らの想いに気付くことなく、手遅れになってしまうのだろうか――――――。
(あなたは……間違えないといいわね……)
……父親のように。
そっと目を伏せ、今度こそ歩き出す。向かうはこの上階、英雄と呼ばれる男が執務に用いる部屋だ。その呼び名を男が嫌っていることは知っている。けれどそれが何だというのだろう。ルフレはもっとずっと前から苦しんでいたのだ。誰にも悟らせないよう、独りで。
「ルフレの万分の一でも苦しむといいのよ……聖王クロム。あなたにはそれでも足りないわ……」
――――犯してはならない決定的な過ちを犯したあなたには。
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