Under the Rose第二部【サイト連載版】 - 3/22

 

 しかし母の祖国だというペレジアは、本当に温暖な気候なのだなと思う。
 もうイーリスでは冬といってよい時候なのに、館の中でなら厚着をして着込まずとも快適に過ごせる。勿論、この国でも指折りの呪術師の名門一族の館だ、防寒の工夫はされているのだろうが、それにしても聖都とは随分違う。
 サーリャに連れられて、彼女の生家であるこの館へ来たばかりの頃は外へ出ると照り付ける日差しの強さに辟易したが、室内は意外にも涼しかった。夏の暑さも、冬の厳しい寒さも母子ともに負担になることは違いなく、それを思えば、却って母の身体の為にはよかったかもしれない。使用人達は皆手馴れていて、悪阻が酷かった母の面倒をよく見てくれた。数日前、赤ん坊が生まれてからも何くれとなく世話を焼いてくれるので、女性の出産についてまったく無知のマークは心底ほっとしていた。
 しかし完全に任せきりという訳にもいかないので、できる限りは手伝おうと決めて、今も洗濯が終わって乾いた産着を取りに行っていたところだ。赤ん坊の自分が着るものを、もうあと数年経てば二十歳になるマーク自身が手に持って歩くというのも、何やら奇妙な感じがする。だがまあ、それはあくまでマークの感傷であって、周囲には関係のない話だ。

「――――あら、マーク君」
 そう急がずともよいのだが、何とはなしに洗いたての産着を抱えて小走りになりながら館の中を進んでいたマークが、ちょうど別館と本館を繋ぐ連絡通路のような場所に差し掛かった頃。背後からここ数カ月ですっかり慣れ親しんだ、おっとりした声で呼び止められる。
「あ、ソーニャさんこんにちは!」
 振り返ればこの館の主、今は復興の道を歩む新生ペレジアで、規模は縮小されてしまっているが魔法兵団を束ねるソーニャが愛猫のレテと共に相変わらずの笑顔で佇んでいた。年の頃はマークの母であるルフレとそう変わりないように見えるがこう見えて一男三女の母。しかもその娘の内のひとりは何とあのサーリャなのだ。聞けば、彼女が物心ついた頃からこの姿らしい。一部ではペレジアの魔女と呼ばれているというのも頷ける。
 だがソーニャは、ほとんど身一つで娘に連れられ現れた身重のルフレと、彼女と変わりない年に見えるのにルフレを母と呼ぶマークという、訳あり以外の何者でもない二人組――しかもひとりは、因縁のあるかつての敵国イーリス、その聖王の片腕とも言うべき人物だ――を、何も問い質すことなく自らの館へ迎え入れ、今日の今日までイーリスへ知らせることもせずに「自分の家だと思って過ごして頂戴ね」と信頼のおける選りすぐりの使用人まで付けてくれた。
 当初はいくらサーリャの母とは言え、ペレジアの要職に就いている彼女を警戒していたマークだったが、家族のように温かく自分達に接してくれるソーニャへ今ではサーリャと同じくらい気を許していた。
「まあまあ、今日もお手伝いをしているの? アニーったら、サーリャちゃんの大事なお客様に仕事を頼むなんて、まったく仕様がないわ」
「そんな、僕が頼んだんですよ! 母さんも僕も、本当にお世話になりっぱなしですから、少しでもできることがあればと思って……」
「ふふ、気にしなくていいのに。ねえ、レテ?」
 ソーニャが切れ長の瞳をますます細めて柔らかく微笑んで同意を求めると、彼女の肩で丸まっていたレテは尻尾を丸めにゃあ、と応えるように鳴いた。このレテも黄金色に輝く瞳と整った毛並みが美しい黒猫だが、やはりサーリャが幼い頃から変わらず主人と共にいるらしい。

(うーん……ソーニャさんって、いったいいくつなんでしょう?)

 サーリャを産んだ年を考えれば、いくら若く見積もっても四十には手が届こうかという年齢の筈。それなのに身体の線がはっきりと出るような黒装束を纏っていても少しも見劣りせず、むしろ鷹揚と構えているようでありながら、艶麗とした佇まいをより一層引き立てている。
「あらあら、マーク君どうしたの? 君みたいなかわいい子にそんなにじっと見つめられたら、困ってしまうわ」
「あ、すみません。ソーニャさんがいつ見ても綺麗なので、思わず見惚れちゃってました!」
「相変わらず上手ねえ、うふふ。何か不自由していることはない? うちのアニーはよくやっているかしら」
 娘と同じ濡れたような、背中まで届く漆黒の髪を揺らして、ソーニャは微笑んだ。マークを見る眼差しは優しい。それはこの館の、他の人々も同じだ。サーリャの姉妹、従姉妹、叔母等一族の人間、そして使用人達。何故か女性ばかりだが、皆何かから逃れるようにして来た当主の娘の友人二人を、母鳥が雛をその翼で包み込むが如く大事に大事に守ってくれている。
 母のルフレが、もうどうしようもなく捻れて歪になってしまった半身という絆の片割れ、聖王クロムの子を身篭っていることに気付いて、イーリスを出奔してから半年余り。マークと身重の母、二人だけであったなら、たとえ上手くやって偽造の通行証を買い求められたとしてもここまで逃げおおせはしなかったに違いない。
 先だってのイーリスとの開戦後も、好戦的なギャンレル王と一定の距離を置くことができたほどの実力者の館に滞在したからこそ、血眼になって母を探しているであろうクロムの捜索の手から数カ月もの間、隠れていられたのだ。
 まるで眠ったように穏やかな時間。
 けれどそれもそろそろ終いかもしれないと思う。数日前、星の綺麗なある夜半に上がった聖なる血を受け継ぐ赤子の産声は、何かの予兆だとマークには感じられた。いつまでもこのままではいられない。そんな予感が、する。
「はい、勿論です! アニーさんを始めとして皆さんほんとにいい方ばかりで、僕も母さんも何てお礼を言ったらいいか……」
「マーク君もルフレさんも、サーリャちゃんの大切なお友達ですもの、当然よ。……あら。ごめんなさい、引き止めてしまったわ。ルフレさんのところへ行くのでしょう?」
「あー! そうでした、僕これを持って行かないと。ソーニャさんごめんなさい、それじゃあまた!」
 ぺこりと大きく頭を下げてマークは再び駆け出した。「ルフレさんへお大事にって伝えて頂戴ね」というソーニャの柔らかな声に、みゃうみゃあとレテの高い鳴き声も重なる。おそらく主人と同じことを言っているのだろう。誰とでもすぐ打ち解けてしまう母は、やはり動物からも受けがいいのだった。

 別館でも奥まった一角に、母の寝室はある。マークの部屋もその近くだ。本館にも客室はあるが、人の出入りや不意の来客も多い為、館の人間以外は立ち入らない別館の方がよいだろうと気を使ってもらった経緯がある。
 イーリス城で母が与えられていたものにはやや見劣りするが、それでも今や何の身分もない親子が寝起きするには十分過ぎるよい部屋である。扉からは、母と侍女頭のアニーの和やかな話し声が漏れ聞こえてきていた。マークは安心して産着の束を抱え直し、だが生まれたばかりの赤ん坊が眠っていた時のことを考え、一応小声で「母さん、僕です。入りますねー」と呼びかけながらなるべく静かに扉を開く。
 そして――――――言葉を失い、完全に硬直した。
 母子の為に完璧に整えられた室内。その中の寝台の上に、母はいた。青い髪は結わずに背中に流したまま、ほっそりした腕には真白い産着に包まれた赤子を抱いている。生まれたばかりの小さな自分は、はだけられた胸元から溢れるまろやかな乳房の先端を含んで一心に吸っていた。我が子を見つめる母の顔は穏やかで……そんな彼女を、大きな窓から差し込む午後の日差しが照らす。陽光を受けて輝く長い髪の青色と、掛布や産着の白の対比が眩しい。慈愛すら感じさせる表情で稚児を抱き上げている姿は、まるで一枚の絵のようだ。
「……あら、マーク?」
 思考が停止していたのはほんの数瞬だったと思う。扉を開いたままの体勢で固まっているマークに気付いた母は、柔らかな表情を崩さずもうひとりの息子を見遣り、優しく微笑む。そのことで、止まっていた頭の回転は猛烈な勢いで動きだした。
 見た。見てしまった。
 彼女は気にしていないようだったが、自分の母の素肌を視界に収めてしまったことは、ここ数年で一番と言ってよいくらいマークを激しく動揺させた。他のどんな女性の肌を見るよりもずっと。
「――――す、すすすすみませんっ!!!」
 いつ何時でもその場に合わせた都合の良い、もっともらしい言葉を紡ぐのはお手の物である筈なのに、冷静沈着な軍師を目指す口がようやく吐き出せたのはそれだけで。それを情けないだとか恥ずかしいだとか感じる余裕すらなく、勢い良く踵を返すと目をつむったまま扉を閉める。閉まりきる直前、おかしくてたまらないといった風のアニーの笑い声が聞こえてきたが、今はそれに腹を立てるという気も起こらなかった。

 ***

「あっはっは! 見たかい、マーク坊やのあの顔!」
 腹を抱えて笑う、という表現がまさにぴったりの笑い方で笑いくずれる、髪に白いものが混じり始めたいかにも侍女風の格好をした女に、ルフレは苦笑しながら窘めるように声を掛けた。
「もう、アニーさん。笑い過ぎです」
「ああ、ごめんよ。でも可笑しくって。……ぷ。くくく。真っ赤になっちゃってさ、可愛いったらない。若い子はいいねえ」
 しかし笑いこけながらも仕事の手は休めない。替えたばかりの産着とおしめをそれぞれの入れ物に軽く畳んで入れ、水差しを新しいものと交換し、赤子に乳をやる前、湯浴みのできないルフレの為に身体を拭いてくれていた手巾も洗い物を持ち運ぶ籠へと放る。
 サーリャの実家であるこの家に仕えて、もう随分になるという侍女頭のアニーは館の中、奥向きに関する諸々の仕事を当主から一任されていた。本来身体がいくつあっても足りるということはない、多忙な身である筈なのに、身篭っているにも関わらずイーリスからの長旅を超えて来た「訳あり」の女の面倒を、ほとんど一手に引き受けてくれている。
 現当主のソーニャには、ルフレをここまで連れて来てくれたサーリャを含め四人の子があるが、彼等彼女等を取り上げたのもアニーらしい。赤ん坊の扱いも手慣れたもので、数日前に生まれたばかりの子の扱いに戸惑うルフレに、様々なことを教えてくれた。
「……おや、お腹がいっぱいになったみたいだね。もういいよルフレさん、前を閉めて。でないとマーク坊やがいつまでも入ってこれないからねえ」
 今度はいくらか抑えてくつくつと笑うアニー。彼女は殊の外マークがお気に入りで、よくからかっては反応を楽しんでいるフシがある。この館の住人は女性ばかりで、彼女曰く潤いがないのだそうだ。
 遊ばれるマークには気の毒だが、ルフレは少しほっとしてもいた。イーリスを離れてもう半年余り。自分の為に友人も何もかも捨てさせてしまったルフレの「息子」。始めの内は周囲を警戒するあまり分厚い鎧を纏っているようだった彼も、館の人々の見返りを求めない善意に少しずつ心を溶かしていき、今では無邪気に笑うようになった。先刻のように、年相応の表情を見せてくれたりもする。それがルフレには嬉しくてならない。
「ふふふ、マークはもう坊やって年じゃありませんよ。お酒だって飲めますし、もう立派な大人です」
「あたしからすれば、あの子くらいの年の男なんてまだ坊やさ。……ああ、それはあんたもだよ、ルフレさん。見たところ、サーリャお嬢さんと同じくらいの年のようだけれどね、いくら学があってもまだ人生のひよっこなんだ。いつでも周りを頼ってくれていいんだよ」
「……ありがとうございます、アニーさん」
 ひどく胸が苦しく、やっとのことでそれだけ口にした後ルフレはそっと俯いて、満腹になったことでうつらうつらし始めた我が子へ視線を落とした。

 

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