数日前、絶え間なく襲う陣痛の尋常でない痛みに喘ぐルフレですら鮮明に記憶しているほど星が綺麗だった晩、彼女が産み落とした青い青い髪と瞳をした、この時代では初めてのルフレの子ども。
……そして、今は遠く離れたイーリスにいるクロムの子。
けれど彼はそれを知らない。それを、それだけは知られたくなくて、傍にいると、クロムがあの冬の一夜を忘れる代わりにした約束すら反故にしてルフレはイーリスを出た。彼女の愛する男が治める美しい、聖なる王国を。
まだ首も据わっていない赤ん坊の瞳に、姉に当たる少女にあるような聖痕はない。額、手の甲、首筋、胸元、足の裏。全身どこを見ても同じだ。この子が生まれる前まで、クロムとの血の繋がりを明確に示してしまう聖なる印が、我が子に顕れてしまうことを何より恐れていた。けれど予定では出産に立ち会うことになっていたサーリャが戻らず、慌てふためくばかりのマークは役に立たないからと別室へ追いやられて、アニーと他に数人の侍女だけが詰めていたこの寝室。
そこに新たな命の誕生を告げる泣き声が響いてからしばらくして、抱いてごらんと差し出された生まれたての子どもをこわごわ腕に抱いた時、そんな不安も何もかもすべてが一瞬で遠ざかって霧散した。熱があるのじゃないかと思うくらいに高い体温、ルフレの小指ほどしかないのにきちんと整った手、しわくちゃで真っ赤になった顔。それらすべてが愛おしく、気が付くと声を上げて自分の方が子どもみたいに泣いていた。
クロムが神の前で生涯の愛と誠実を誓った相手はルフレではなく、この子は本来許されない存在だ。誰より愛する男に道を誤らせた、何よりの罪の証。それなのに、ただただ愛おしいという感情だけが尽きることのない泉のように湧いてきた。
――――マークと、この子がいればきっと生きていける。
たとえもう二度とクロムと会うことがなくとも、彼と彼の王国の幸いだけを祈って。
「ところで、もう名前は決めたのかい?」
アニーに問われてはっとした。いつの間にか微笑みの形を作っていた唇をもごもごと動かして「実はまだなんです……」と告げるとほとほと呆れたような顔をされた。
「そろそろ決めておやり。呼ぶのに名前がないと不便だろう。何より、名付けっていうのはその子の『かたち』を方向付けてやることだから。早く名前を付けてやらないと、その子も自分がどこへ行ったらいいか不安だよ」
「ペレジアではそんな風に考えるのですか?」
「まあ、あたしが喋ってるのはお館様の受け売りだけれどね。何にせよ名前は大事だから」
そうしてアニーは、ちょいとすっかり夢の世界へ旅立った赤ん坊のふくふくとした頬をつつく。彼女は何も訊かない。彼女だけでなくソーニャも、館の他の人間も、何も。サーリャが言い含めていったのだろうか。
ルフレを母さん、と呼ぶマーク。二人の年齢差からいって、実際にルフレが産んだというのはありえない。養子と考えたのだと思うこともできるが、生まれたばかりの赤ん坊の父親の存在をちらりとも口にしないルフレに、しかしこの館の人々は問い質すこともなくただ優しい。
「そう、ですね……。マークとも相談して早く決めるようにします」
「うんうん、それがいいよ。じゃあそろそろあたしは戻るけど、呼べばすぐ来るからね」
まるで幼い子どもをあやすような仕草でアニーはルフレの頭を撫ぜた。実際、彼女にとってルフレは先ほどの言の通り子どものようなものなのだろう。くすぐったいような、けれど泣きたいような不思議な気分に包まれる。
アニーが出ていくのと入れ違いに、マークがばつが悪そうな顔で室内に入ってくる。抱えていた産着の替えを近くの棚に置くと、椅子を引いて寝台の傍らに腰掛けたが、まだいくらか頬が赤い。申し訳ないと思いつつも、やはり可愛らしいと感じてしまった。
「……その、すみませんでした……」
「ふふふ、構いませんよ。でも今度からノックはしましょうね? 私はいいですけれど……他の方の着替えなんて覗いたら大変ですから」
俯いて消え入りそうな声で囁くマークの頭を、アニーがしてくれたように撫でてやりたかったが、まだ両腕で抱いていないと赤ん坊を取り落としそうで不安だったので、微笑んでそう告げるだけに留めた。背丈は随分伸びたけれど、それでもマークは自分の子どもだという意識がルフレにはあるので、授乳の場面を見られても他の男性にそうされるより抵抗はない。しかし年頃の彼には衝撃だったのか、まだまともに目線を合わせてくれなかった。仕方がないので意識をそこから離してやろうと、おあつらえ向きの話題をふる。
「ところで、ねえマーク。アニーさんにも言われたのですけれど……この子の名前は、何にしましょうか」
「え? 名前……ですか」
問を投げかけられたことでマークは思案顔になった。これで思考は先刻のちょっとした事件から離れてくれるだろう。すやすやと小さな寝息をたてる赤ん坊の身体を軽く揺すってやりながら、ルフレも思考の縁に沈む。
名前。この子の、名前。
邪竜が消滅した後、かつて共に戦った仲間達は故郷に帰ったり、旅に出たりと思い思いの道行きを歩み始めた。その大半が伴侶を得て、中には子どもが生まれた者もいるが、終焉の闇に包まれた未来から来た子供達と性別は同じだった。別の名を付ける者、同じ名にする者、それぞれ様々な思いがあるのだろう。
そして、この子だ。
一生父親に会わせてやることのできない息子。確かに聖王家の純血を受け継ぐ王子でありながら、決して王族としての何不自由ない暮らしを与えてやることもできない我が子。
目の前でうんうんと唸っているマークは、図らずも自分の罪咎に巻き込んでしまった。赦されない恋。想いを告げることすらできない、始めから叶わぬと定められていたそれ。恋してはならない相手を想う荊の苦しみを知っていたのに、守ってやらねばならない相手にその苦しみを味あわせてしまったことは、ルフレの生涯背負わねばならない十字架だ。けれど。
(この子の……この子の未来はまだ真っ白です)
何も世界には恐ろしいことなどないかのように、信頼しきった様子でルフレの腕に抱かれている嬰児。この子には何ら曇りのない幸福な未来をあげたい。アニーが言った通り、名を付けることが道行きを方向づける最初の一歩になるのなら。
相応しい名前は……何になるだろう。
「……<マーク>」
ぽつりと、変声期もとうに終わって、近頃一層低くなった声で囁かれたその名を、始めルフレは理解できなかった。思わず聞き返すと、マークはいつも浮かべているものとは違う、静かで穏やかな、凪いだ湖のような笑みを浮かべてもう一度繰り返した。
「やっぱりこの子の名前は<マーク>ですよ、母さん。だって……この子は僕なんですから」
「でも……それは」
「それに一字くらい、あの人の名前から貰っても罰は当たらないと思います」
「あ……」
そういえば、そうだ。
今まで考えてみたこともなかったけれど、マークというのは確かにクロムの名から一字取っている。名をつけたのはおそらく未来の<ルフレ>だろう。ルフレと違って記憶を持ったままクロムの軍師となった彼女。けれどルフレと同じように、クロムを愛しマークを生みながらやはりクロムと結ばれることはなく――――そうしてその手で最愛の相手を殺め絶望に堕ちた、マークの本当の母親。
「未来の世界での母さんが、何を思ってこの名を僕に付けたのかは分かりません。でも、僕は結構自分の名前、気に入っているんです。この時代の僕が、<マーク>って呼ばれないのは何だか変な感じです。……ね、<マーク>。ああ、ほら、<マーク>もうんって言いましたよ」
それは単に寝言だ。そう言おうとしたが、喉の奥に何かつかえてしまったようで言葉にならなかった。
約束を三度破って彼を捨てて来たのに、それでもまだルフレはクロムを愛していた。違う、どうしようもなく愛しているからこそ、これ以上道を誤らせたくなくて離れたのだ。いつだって、ルフレにとってクロムは眩しい。光そのものだ。何より強いその光は、けれどルフレひとりのものではない。クロムは王だった。イーリスの民に必要な。
だがマークが彼に対し複雑な思いでいることも知っている。それなのに、クロムの名が一字入った自分の名を、赤ん坊にも付けるよう言ってくれたことは、まるでクロムを想うことを世界中の誰が赦さなくとも、自分だけは赦すと告げられたようで、思わず眠る我が子を抱き締める腕が震えた。
世界は残酷だ。けれど時に、ひどくやさしくもある。
覚えていない故郷でこんなにも優しい人達と出会わせてくれ、そしてどちらも同じくらい大切な二人の息子を授けてくれた。
鼻がつんとしてじわりと視界が滲みそうになったが、口角を上げて微笑むことでどうにか堪える。
「ふたりとも……マーク、だなんて……ややこしくありませんか?」
「本人達が分かっていれば問題ないでしょう? 少なくとも、僕は呼ばれても間違えませんし……きっとサーリャさんもそうです」
「……そういえば、遅いですねサーリャさん……。この子が生まれる前には来ると言っていたのに……」
ルフレの言葉に、静かなマークの青い瞳が一瞬翳ったようだった。けれどはたと目を瞬いた時には既に穏やかな色を取り戻していて、錯覚かもしれないと首を捻りながらも、ついさっきまで気持ちよさそうに眠っていた筈なのに、急にぐずり始めた<マーク>を慣れない手付きであやそうと奮戦する内に、その疑念はすっかり記憶の底に沈んでしまった。
――――イーリスを出て、はや半年。
ルフレはクロムが一日も早く自分を、約束を破った薄情な女を忘れてくれることを毎日祈っていた。そして近頃では、穏やかで、優しい時間ばかりが過ぎてゆく館での日々に慣らされ、もうクロムにはほとんど忘れ去られたものだと思い込んでいる。
だが彼女はあまりに見くびりすぎた。
恋とはまさしく狂気の沙汰だと、そう言ったのは誰だったか。
その言葉通り、いっそ危ういまでに狂おしく己が半身を求める男の恋着は、たった半年程度で消え失せるものではなかったのだ。
夜を迎える度にその帰還を切望しながら眠り、朝を迎える度に願いが叶えられなかったことを知って絶望する、そんな少しずつ少しずつ正気を削り取られていくような日々を三年、クロムは過ごした。それに比べれば半年など僅かな時間でしかないだろう。
彼は、少しも諦めてなどいない。
それをルフレが思い知る時はもうすぐそこまで迫っていた。
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