Under the Rose第二部【サイト連載版】 - 13/22

 

 星を見に行きませんか、とマークから誘われたのは、潮の香りがする宿に逗留して何もしないまましばらく経ち、そろそろルフレが焦れ始めたある日の晩だった。
 水揚げされたばかりの新鮮な魚介類をふんだんに使った夕食は、常ならばルフレも感激して残さず平らげたのだろうが、追われている身であるという意識があってはあまり食も進まず、結局すぐに部屋へ戻ってしまった。ぐずり始めた<マーク>に母乳を飲ませてやって――もう泣き声やぐずり方で、お腹がすいたのか、おしめを替えて欲しいのか、ある程度判別できるようになっていた――ぼんやりとしていると、しばらく階下で話し込んでいたらしいマークが戻ってきて、穏やかに微笑み「少し外に出ませんか」と声を掛けたのである。
「……いくらここがペレジアでも、夜は寒いですよ?」
 それに第一、呑気に星座観察などしていていいのだろうか。
 クロムの命でルフレたちを追って来たガイアにとうとう追い付かれたのはつい先日の話だ。けれどガイアとマークとの間では何事か取引が交わされたらしい。この宿にひとまず落ち着いた時、しばらく二人だけで話していたかと思うと、聖王国の密偵の姿は消えていた。
 それから今まで、ガイアが戻ってくる気配はなく、兵がルフレを引き立てに来ることもなかった。ならば早く移動した方がいいのではないかと言っても、マークは曖昧に微笑んだまま「大丈夫ですよ」としか言わず。
 今夜も今夜で、まるで気楽な旅の途中であるかのように星を見ましょうと誘った我が子に、ルフレはここしばらくの不安を言外に滲ませて応じたのだが、あっさりと流された。
「外套を着込めば大丈夫です。<マーク>のことも暖かくしてあげれば平気ですよ」
「でも……」
「いいからほら、行きましょう」
「え、ま、マーク?」
 口調や表情こそ穏やかなのに、今夜の彼はやけに強引だ。有無を言わさずこれでもかと厚着をさせられ、同じく大袈裟なほどに防寒対策をした<マーク>を抱いたルフレは、そのまま袖を引かれて外へと連れ出されてしまった。
 ……もし、この時直接マークの手に触れていれば、彼のそれが一瞬、本当に小さく震えたことに気付いたかもしれない。だが突然の彼からの申し出に戸惑っていたルフレは、腕に抱いた小さな我が子を落とさぬようにと必死で、そんな余裕もなく。
 ただ彼女の目に、もう並んでも到底親子には見えなくなった息子はひどく無邪気に映った。いっそ、わざとらしいまでに。

 ***

「まあ……星がとっても綺麗……!」
「そうでしょう、そうでしょう。今日は新月ですからね、月がない分、星がすごく綺麗に見えるんですよ」
 後ろからルフレを自分の外套の中へ包み込むようにして腰掛けたマークは、満点の星空に歓声を上げる母親へ、どうだと言わんばかりに得意そうな声で告げた。その響きがやけに子どもっぽく、思わず笑ってしまう。
「……でも、星を見るだけなら何もこんな波止場まで来なくてもよかったんじゃありませんか?」
「分かってないですねえ、母さんは。街中だと雰囲気が出ないじゃないですか。夜の海と星空を同時に眺めてこそ浪漫があるんですよ!」
「ふふ、あなたの浪漫はよく分かりませんけど……。薔薇を見ていた時みたいに、夢中になり過ぎてまた風邪をひかないで下さいね」
 今の自分が置かれている状況を忘れてしまいそうになる軽妙な応酬に、ついルフレも口が滑ってしまった。自分を抱き竦める腕にぎゅっと力が篭ったことでそれに気付き、自分の迂闊さを呪ったが今更もう遅い。
 以前、まだイーリスにいた時分のこと。滅多に体調を崩したことがないマークが、高熱を出して寝込んだことがあった。多少なりとも回復し、起き上がれるようになってから尋ねたところ、へらりと笑って『いやー、あんまり薔薇が綺麗だったのでつい見惚れちゃって。雨が降り出したのは分かってたんですけど、何となくずるずると……』と、何でもないように説明してくれたのだが、ルフレには分かっていた。
 王の庭。先代の女王エメリナがとりわけ愛したそこは、ちょうどその頃薔薇の時期で。ルキナと、この時代のクロムと聖王妃の間に生まれた、まだ幼い王女を連れて彼が美しい花園を訪れていたことを後から知った。
 ルキナ。未来から来たもうひとりのクロムの娘。聖痕を戴く神剣の王女。
 そして……半分だけ血の繋がった、マークの実の姉。
 彼女にマークが出逢った時からずっと恋していることを、ルフレは随分前から気付いていたけれど、それは彼の与り知らぬことなのだ。なのに息子の決して叶うことのない想い人を、今また思い出させるような発言をしたことに強い後悔に襲われたが、かと言って取り繕ったり、急に話題を変えては訝しがらせるだけだろう。ああ、けれど。

(マーク……あなたは……まだ、ルキナさんのことを……)

 赦されない相手を想う苦しさは、ルフレが一番良く分かっている。彼女自身もまた、聖王国の王子、長じては即位して妻を娶り、子どもまで生まれた男への恋情をひた隠しにし続けて苦しんだ。
 せめてマークには、想う相手にまた想われ、誰にも祝福されて結ばれるような、そんな幸せな恋をして欲しかったのに。……彼の幸福を壊したのは他ならぬルフレだ。己の罪深さを改めて突き付けられたようで、顔を上げられず俯いてしまう。

「……母さんがこうしてくれてれば、寒くないですよ」
 だが耳元でそうそっと囁くと、マークはより強く縋り付くようにしてルフレの髪にそのまま顔を埋めた。だから風邪なんてひきっこないです、と優しく優しく続ける。その優しさはイーリスを去ったあの日、彼が誓いのように繰り返し告げてくれた言葉に含まれていたものとまったく同一で、別の意味で顔を上げられなくなった。
 未来でも、そして今も自分がいい母親だとは到底思えない。未来の世界での彼が父親が誰か知っていたのか、それは分からないが、どちらにせよ他の子どもたちが当たり前のように持っている、何ら陰のない幸福な家庭を与えてやれなかったことは明白だ。
 今の時代でも、恋う相手も友人も捨てさせた。それなのに、どうして彼はこんな自分を母親として慕い、何者からも守ろうとしてくれるのだろう。
「ほら母さん、せっかくここまで来たんですから星空を満喫しましょう! あの星は何ていう星なんですか?」
「……え、ええ。えっと、あの星は……」
 沈んだ空気を察したのか、殊更明るく発せられた問いに目を何度か瞬いて、急いで笑みを浮かべる。ひとつ答えるとまたあれは、あっちは、と矢継ぎ早に質問が浴びせかけられるので、それに答えている内気持ちもひとまず落ち着いてきた。マークは本当に、人の心の動きをそれとなく読み取るのが上手い。
 星座の話を思い出しながら流れ星が流れればいいのに、とルフレは思った。

(そうすればあなたの……あなたたちの幸せを願うのに……)
 

 ***

 ひとしきり星に纏わる逸話や伝説を話し終わった後、気が済んで宿に戻るのかと思ったのに、ルフレを外套で包み込むようにしながらマークは動く気配も見せなかった。
 ただ時間が経つにつれてどんどん口数が少なくなっていき、背中越しに感じる身体は強張ってひどく緊張しているようにも思えた。それが何故なのかまったく見当もつかない。ただ息を詰めて何かを待っているような彼の様子を不思議に思いながら、ルフレはぼんやりと月のない夜空を見上げていた。
 腕の中に抱いた<マーク>はもう随分と前に夢の中で、今はあどけない寝顔を見せている。優しい眠りを妨げないよう、身体をほんの少し揺らして一定のリズムを刻みながらこれからどうすべきかと、思考はここしばらくずっと気掛かりだったところへ立ち戻った。

(……諦めて、くれたんでしょうか……)

 イーリスを出奔して半年以上経っても、因縁深いペレジア領まで天馬騎士団長、聖王の影の私兵ともいうべき密偵を送り込んでルフレを探し続けたクロム。愛しているのだと、幾度も繰り返し注ぎ込まれた、熱っぽい囁きは今も耳に残っている。全身に所有の印のように朱い痕を付けて回った唇と舌の熱さも。
 その彼が、そう簡単に諦めてくれるのだろうか。そしてガイアは<マーク>の存在を、自分の主へ伝えないでくれたのだろうか。それが「取引」の内容なのか。疑問は尽きない。
 けれどもし、クロムが聖王として、ルフレの祈った通りに皆の光としてあることを選んでくれたのなら。この約束を破り続けた薄情な女を忘れてくれたというのなら。

(ナーガ様、ナーガ様……お願いします)

 無数の星屑が散りばめられ、そのひとつひとつが美しい光を放つ夜の空を見上げ、ルフレは祈った。

(どうか、どうかあのひとに、あなたの永久の祝福を……)

 ここはペレジア領で、神竜ナーガの加護が及ぶ地ではないけれど、それでも祈らずにいられなかった。たとえ遠く離れても、彼がルフレを思い出にしたとしても。ルフレにとってはクロムが出逢った時から唯一の存在だ。彼を傍で支えることはもうできないが、彼がいつまでも幸福であるように祈りたい。今夜だけでなく、自分の命が続く限りずっと。

 ……ふとその時、生温かい雫がひとしずく、ルフレの手の甲に落ちた。
 雨かと始めは思ったが、そのひとつきりで後に続くものは何もない。それ以外の可能性――もしやマークが泣いているのではと案じて彼の方を振り向こうとしたのだが、その前にまたきつくきつく抱き竦められ叶わなかった。
「マーク……?」
 もう大分長い時間、ここに留まってしまっていたような気がする。正確な時間は分からないが、おそらく既に日付が変わってしまったのではないだろうか。だがそれよりも、我が子の様子の方が気掛かりだった。
 そっと名を呼ぶと、肩に流れた髪の隙間に顔を埋めたまま、くぐもった小さな小さな声でマークはぽつりと呟く。
「ねえ、母さん。……ヴァルムに、行きましょうか」
「ヴァルム、ですか?」
 予期しなかった地名にルフレは目を瞬かせた。かつては覇王と呼ばれた男の下、帝国による一国独裁体制に飲み込まれようとしていた大陸は、今では解放軍の旗印であったサイリが女王として治めるソンシンや、ヴィオールが治めるロザンヌ領を始めとして、幾つかの独立した領国が緩やかに連合した地域といった風に、ある程度のまとまりを見せ始めていた。
 そうは言ってもまだまだ不安定な地域であることには変わりなく、生まれたばかりの赤ん坊を連れて行くのは躊躇われ、ルフレの中では選択肢から除外されていたのだ。けれど出会ったばかりの頃にまだ少し残っていた幼さがすっかり抜け、落ち着いた低い声音で囁く息子はぽつぽつと続ける。
「ヴィオールさんのところでも、ソンシンでも……どこでもいいです。この大陸を離れて……母さんと、僕と、小さなマークと、三人で暮らしましょう……?」
「三人で……」
「母さんも<マーク>も、僕が守りますから。絶対に、絶対に守りますから……だから……」
 だから一緒に行きましょう、と。
 いっそ懇願するように耳元で告げられ、そのあまりの悲痛さに冷えた唇から言葉が上手く紡げない。けれど心は。海を渡ってヴァルムへ、という選択へ急速に引き寄せられていった。
 考えてみれば、この大陸にいる方が危険なのだ。ルフレはイーリスの天才軍師としてあまりにも知られ過ぎている。名前も、姿も。どんなに隠れて暮らそうとしても限界があるだろう。そして巡り巡って、イーリスの元軍師が赤ん坊を連れていたとの噂が、もし聖都にも――クロムにも届いたら。
 せっかく諦めてくれたのであろう彼の胸の熾火を、再び燃え上がらせてしまうかもしれない。それならば、帝国との戦いの間だけ行軍したヴァルムの方が、ひっそりと親子三人生きていくにはいいのではないか。
「……分かりました。ヴァルムへ、行きましょう。落ち着き先をどこにするかは向こうへ渡ってから状況を見て、決めましょうか」
 そう答えると、あからさまにマークはほっとしたようだった。痛いほどだった腕の力が僅かに緩み、ルフレもそれを感じて安堵の息を吐く。
 けれど……ルフレは少しも気付けなかった。
 突然、別大陸へ行こうと言い出した我が子。この時代で生まれた小さな自分に相応しい名はやはり『マーク』なのだと、クロムから一字取っているのであろう名前を付けるよう告げてくれた彼。
 そのマークがルフレにも聞き取れぬほどの微かな声で囁いた言葉。そして踏みにじられた願い故に、逃れようのない血の絆で繋がった男を生涯許すまいと、絶望の中誓ったことを。ルフレとクロム、二人を繋ぐ運命の糸が密かに音もなく断ち切られてしまったことを――――――最後まで。

 (あのひとは来なかった。……来なかったんだ、あのひとは)

 

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