ちらりともそんな気配はなかったというのに、いつの間にか空は厚い雲に覆われ、大粒の涙を零し始めた。最初は通り雨かとも思ったが、雨音は激しさを増すばかりで一向に弱まりそうにない。庭園内の四阿で雨が上がるのを待つより、城内へ戻ったほうが懸命だと判断したマークは、ルキナを促し小さな王女をいつも身に着けている黒い外套で包むと足早に回廊まで駆け戻る。
ほんの僅かな距離だが、大分濡れた。<ルキナ>はマークの方で抱き込んでいたからさほどでもないが、額に張り付いた髪を払っている彼女が問題だ。これは早く服を着替えて暖かくしてやった方がいい。風邪をひいてしまう。
慎重に幼い身体を回廊の床の上に降ろす。巻き付けていた外套を外しそっとルキナの方へと押しやった。
「さ、早く部屋に戻って二人とも服を変えて下さい。明日熱を出して寝込むことになっちゃいますよー。苦いお薬飲まされますよー」
「……るきな、にがいのいやです……」
「大丈夫ですよ、今日は暖かくして早く寝ましょう。……あら、マーク、あなたは戻らないんですか?」
せっつかれ、小さな手を引いて歩き出したルキナが不思議そうにこちらを振り返る。てっきり一緒に戻るのだと思ったのだろう。呼び掛けにひらひらと手を振る。マークも外套を雨避けに貸してしまった所為で、三人の中では一番濡れ鼠具合が酷かったがそこはにっこり笑って躱した。
「僕もすぐ戻りますよ。ただもう少し、薔薇が見たいなあなんて思いまして」
「薔薇を……? こんな雨なのに、ですか?」
「雨だからこそ、ですよ。天の慈雨に濡れる薔薇なんてなかなか乙な眺めでしょう?」
彼女はしきりに首を捻っていたが、くしゃみをした<ルキナ>にマークがもう一度強く促せば「早くあなたも着替えて下さいね」と不安げな顔で言い残し、長い髪を揺らしながらルキナは去って行った。手を振る幼い王女に、笑顔で別れの挨拶を返しながらその瓜二つな後ろ姿を見送り――やがて回廊の奥に完全に二人の王女が消え去ると、すとんと何かが抜け落ちたようにマークの表情からは一切の感情が失せた。
かつてルキナが父と同じだと感じたそれ。ここに姿見でもあったなら、マーク自身も確認できたかもしれないがあいにくここは回廊だ。そんなものがある筈はない。故に己の表情をつぶさに観察することなく無言のままマークは先刻通った道筋を逆に辿り返し、再び雨の降りしきる庭へと降りた。
外套は羽織ったが、雨具としての用途はないのですぐに止まない雨の雫で濡れそぼり重さを増した。しかしまったく頓着せず、泥が跳ねるのも構わずに歩みを進める。誰か……別れたルキナでも誰でもいい、その光景を見ていたなら気でも触れたかと思っただろう。そして、更に次のマークの行動を目にしたなら。
頬を伝って滴り落ちる雫を拭おうともせず、薔薇の回廊を進んでいたマークの足はとある場所でぴたりと止まる。真白い薔薇の茂み。先刻、ルキナが愛でた美しい花。
暫しその前で佇み、やがてマークはのろのろと雨に打たれても咲き誇る凛としたそれに手を伸ばした。
「……っ!」
マークを拒むように棘が手のひらに刺さり血が滲んだが、走る鈍い痛みを無視して一輪、花を手折る。雨は一層激しさを増した。まるで、マークの心情を写したように。
(母さん……母さんもこんなに苦しかったんですか? ……くるしいんですか?)
許されぬ相手というのは、どうしてこうも狂おしいまでに密心(みそかごころ)を煽るのだろう。出会った時はまだ知らなかったのだと抗弁したかったが、母のことと自分のこと以外欠片も覚えていなかったのに、あれほど懐かしく慕わしく感じた時点で気付くべきだったのだと、もうひとりの自分が嘲笑する。
けれど疑念を抱いた頃にはもう取り返しのつかないところまで来ていた。そして今やその疑心はほとんど確信に変わっている。
数ヶ月前――ちょうど母と聖王の関係が変化した頃と時を同じくして、マークはある存在をこのイーリスの城内に感じるようになっていた。自分と、同じモノがいる。それが何を意味するのか分からぬマークではない。
遠からず、母はイーリスを去るだろう。否、去るしかない。
まだ彼女は気付いていないが、事実が明らかになった時、素知らぬふりで城に居座り続けることができるようなひとではない。
母が何より望むのは、祈るのはかの王の幸い。ただ、それだけなのだから。
たとえ、彼女の心に幾度も剣を突き刺し流させた血に気付かぬ男……母が薔薇の下に埋めた秘密の上でのうのうと暮らす男であっても。
曇天から振り注ぐ雨の雫は一向に止む様子を見せない。既に全身はすっかり冷え切っていた。戻らなくては、と遠くで誰かが囁いていたが足は縫い止められたように動けない。ああ、でもきっと、こんな馬鹿な真似をするのは今日が最後だ。母がイーリスを出て行くのなら自分も同行するのだから。
だから、その前にこの凛と咲き誇る薔薇の茂みの下にこの想いを埋めてしまおう。さあ、薔薇よたおやかな薔薇よどうか己の許されぬ密心を糧に咲き誇れ。そしてどうか、忘れさせて欲しい。
願うように、祈るようにマークは手折った白い花弁に唇を寄せた。捨てて行こう。これからは母を、母だけを守って生きるのだ。その為に不要なものはすべてここに。秘密を湛える美しい花の下に。
「……さようなら。――――――……さん」
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