「おねえさま、まーく! みてくださいきれいです!」
暖かな陽光を浴びながら咲き誇る満開の薔薇。王宮付きの庭師の手で整然と整えられた庭園の、その間に設えられた歩道を足早に駆けて行く幼い姿にマークは眩しそうに目を細めた。
「<ルキナ>! そんなに走ると危ないですよ!」
マークの後方をどこか躊躇いがちに距離を置いて歩むルキナが、前方を見ずに走り回る幼子へ声を張り上げる。さあっと風が吹いて彼女の長い髪を揺らした。立ち上る薔薇の香気。空はどこまでも澄み渡り、ただただ青く美しい。世界には何も不安などないように。
「だいじょうぶで……きゃあっ?!」
「<ルキナ>!!」
案の定、周囲の薔薇の花と後ろから来るマークとルキナばかり見ていたせいで、足元への注意が疎かになっていたらしい。等間隔に置かれた飛び石に蹴躓いて体勢を崩した<ルキナ>に、青褪めたルキナが手を伸ばすよりも早く、マークはさっと幼い身体が地面に激突する前にその身を抱え上げた。急速に切り替わった視界に腕の中の幼子は目を白黒させていたが、やがて歓声を上げてマークに抱き着く。
「……ありがとうございます、まーく!」
「いいえ、どういたしまして。今度はきちんと前を見ていて下さいね」
「はあい」
行儀のよい返事。窘めるマークに大きな青い瞳を輝かせて答える<ルキナ>は、年相応の子供らしい表情をしていた。そのことに少しほっとする。それは背後の彼女も同じだろう。近頃強張ったままだった頬の稜線が、僅かにではあるが柔らかく緩んでいた。包み込むような日差しも一役買っているかもしれない。
やはり彼女には厳しい表情よりも、こうした表情の方が似つかわしいと思いながら、また駆け回りたくてうずうずしているらしい幼い子供をそうっと地面に降ろしてやった。
***
一般の来訪者も訪れることのある他の庭と異なり、今マーク達が散策しているこの場所は完全に王族専用の棟にある。王の庭として知られるここは先代の聖王、つまりは現聖王の姉であるエメリナが、政務の合間に訪れては美しい花々を愛でていた場所なのだ。弟妹達にすらほとんど涙を見せなかったという彼女が、王ではなくただひとりの女性に戻れるのはもしかしたらこの花園だけだったのかもしれない。
やがてペレジアとの戦の最中、エメリナは若くしてその命を散らした。後を継いだクロムは無聊を花で慰めようというような人物ではなかったし、散策して思索に耽るという質でもなかった為に、王の庭はこの数年ほとんど誰にも立ち入れられぬまま眠ったような状態だった。
けれど聖王家に長く仕える庭師の男は手入れを欠かさず、毎年季節ごとに様々な花が咲き乱れて夢のような光景なのだということを彼と親しくなって聞き出したマークは、騎士団長となったフレデリクを通じて聖王に頼み込み今日の散策の許可を得たのだった。
「……本当に、綺麗ですね」
いつの間にか隣に並んでいたルキナは穏やかな顔で色とりどりの薔薇を見つめている。
季節はもうすぐ初夏。ちょうどこの時期、庭園の薔薇は満開となって咲き誇る。赤、白、黄色、橙、薄桃色。実に多様な種類の薔薇達が美しさを競うようにしている様は圧巻だった。
「そうですねえ。さすがは聖王様の為の庭だけありますよ。並の貴族じゃここまでできません」
「あなたがそう言うと何だか皮肉っぽく聞こえますけれど……まあいいです。ふふ、いい香り」
その中でもとりわけ美しい、真白い薔薇の前に来ると彼女は口元を緩めてその花に顔をそっと寄せた。甘やかな香りを楽しむようにしているルキナの薄い花色の唇を、白い花弁が掠める。
それを見て鳥が囀る声と小さな<ルキナ>のはしゃぐ声が急速に遠のいていく。いい香りだと彼女は言ったが、辺りに満ちる匂いはむしろむせ返るようで息苦しさにマークは声もなく喘いだ。眩暈がする。
視線は縫い止められたようにルキナから――否、花びらに触れる彼女の唇から離せないでいる。暴力的なまでのある衝動が身の裡から沸き上がるのを自覚し、些か乱暴に彼女の腕を引いた。痛みにか、顔を顰めたルキナがこちらを振り返る。その表情にようやく周囲の音が戻った。
「……っ、マーク? どうしたんです、いきなり……」
「……いえ、あまり薔薇ばかり見ていると、またちっちゃなルキナさんが転んじゃいますよ」
告げて、先刻までの衝動をへらりとした笑みの仮面の下へ隠す。空々しい笑みだと自分でも思うのだが、ついぞ見破られたことはない。周囲の皆はマークを表裏のない明るい性格だと心底信じている。だがそれでいいと思う。己の中にある重苦しい黒い感情など敢えて知らせるまでもない。何より、彼女には……彼女にこそは、知られたくなかった。
マークの言葉に、ルキナははっとして周囲を見渡す。彼女の視界の先で、この時代の<ルキナ>は相変わらず嬉しそうに薔薇の茂みの間を走り回っていた。時折立ち止まっては、目の前の彼女と同じ様に顔を寄せて香りを楽しんでいる。マークが言った通りに、走る時は一応は自分の進む方角を見ているようだ。あれならそう転ぶこともないだろう。
とりあえず安堵したのか、ルキナはほうと溜息を吐く。伏せられた睫毛が随分長いなと、ぼんやり眺めているとふいに彼女と視線が合った。不意打ちだ。咄嗟に表情を繕うと、彼女は怒っているような、泣き出しそうな、不思議な眼差しでマークを見た。何か言いたげだった。身長差はこの三年で随分と広がってしまったので、こちらから見下ろす形になる。薄く開いた柔らかそうな唇がやたらと目についた。……本当に、今日はどうかしている。この薔薇の香りのせいだと、ただ美しいだけの植物にマークは罪をなすりつけた。
「……マーク、その……」
沈黙に耐え切れなくなったのか、常になく覇気のない声で呼ぶルキナ。無言でそれを促すこともさりとて制止することもせずにいると、彼女は諦めたように頭を振った。さらさらと長い髪が揺れる。数度瞳を瞬かせて、今度はいくらか躊躇いを振り払ったように口を開いた。
「お父様と……ルフレさんのこと、なのですが……」
「母さんとクロム様がどうかしました?」
それ以上話題を続けさせぬ為に殊更明るく笑ってみせる。戸惑ったように揺れる青い瞳。ルキナが問いたいことは分かっていたが、このことに関してマークは何も言うつもりはなかったのだ。
この数ヶ月、母と聖王の関係は決定的に変わっていた。
決裂したわけではない。
険悪になったのでもない。
むしろより一層の献身を、母はクロムに対して捧げていた。だが、以前の母が信頼と親愛を浮かべて「クロムさん」と聖王を呼んでいたのに対し、ここ最近の母は彼をただ淡々と「陛下」と呼ぶ。かつての彼女よりもっと完璧な微笑で。けれどマークから見ればその笑みは虚ろだった。そして痛々しい。
母は絶望している。どうしようもなく、深く。
しかしそれはもう、マークにしか分からないのかもしれない。その証拠に、聖王に敵対する者、仇なす可能性のある者を密かに、だが容赦なく、眉ひとつ動かさずに処断していくようになった彼女を氷のようだと評する者こそおれ、痛々しいなどとマークのように語る者などいない。
ルキナも、父王とその軍師の間にあるものの変化だけは感じても、理由も何も分からないといったところだろう。直接クロムに尋ねるのは憚られ、けれど委細を知らぬままにはしておけず。近頃ずっと浮かない顔をしていたのはおそらくこの所為だ。だから今日、少しでも気を紛らせられればと思ったのに、結局彼女にまたこんな顔をさせてしまっている。
「おねえさま、まーくっ」
気詰まりな沈黙を破ったのは軽やかな足音と、幼い子供特有の高い声だった。薔薇の茂みの間を縫って<ルキナ>が姿を現す。よほど奥まで入り込んでいたのか、頭のあちこちに緑の葉を付けていた。小さな手には薄紫の小さな花冠が二つ。薔薇ではなかった。棘があるから触れては危ないとルキナが口を酸っぱくして言い聞かせていたからなのか。そういえば庭園の主役は薔薇だが、それ以外の花々も慎ましやかに咲いているのだった。
「あれ、どうしたんですかその花冠」
「るきながつくりました! おねえさまとまーくにあげます」
ぴょんぴょんと腕を懸命に伸ばしているのが微笑ましい。マークは気まずさがひとまずは去ったことに心底ほっとした。そして到底届きようもないのに頭の上に花冠を載せようとする<ルキナ>を抱き上げて自分の肩の上に座らせてやった。
「はい、おねえさま。おひめさまのかんむりです」
「……まあ、綺麗ですね。ありがとうございます、<ルキナ>」
「もしかして僕にもお姫様の冠なんですか?」
「はい!」
上機嫌で差し出される小さな花冠。思わず苦笑するしかない。隣で顔を綻ばせているルキナは女性だから可憐な花も似合うが、背丈ばかりひょろひょろと伸びてしまって可愛げの欠片もない(と、首が痛くなると文句をつけるセレナに言われた)自分では。
「ふう……僕、一応男なんですけどねえ。まあ、姫の仰せには従いましょう?」
「えへへ。だいすきです、マーク!」
「……僕も、ルキナさんが大好きですよ」
子供らしい無邪気な好意への返答に、密やかな感情を織り交ぜてマークは笑った。どうかこの苦い思いが伝わらぬようにと願って。
赦されないことなどもう十分過ぎるほど分かっている。だからせめてこれくらいはとかの女(ひと)と同じ色彩の深い藍色を、柔らかな髪を指に絡めながらそっと瞳を閉じた。
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