彼はいつも、もっと真っ直ぐに人の目を見て話す。もちろん照れたり気まずかったりすれば視線は逸れるけれど、今はそうではないように思われた。
無断侵入で騒ぎを起こしたことに対する反省、だけとは思えない気落ちぶりに、にわかに不安が沸き起こってくる。
よく見れば、よれよれのワイシャツもズボンも、昨日と同じもの。さすがにヴェイクかガイアに泊めてもらって休みはしたのだろうが、着替えず午前中から走り回っていたなら、いくら体力自慢のクロムだって体力の限界を迎えてもおかしくない。
うなだれたままのクロムが心配で、おずおずと近付いて手を伸ばそうとしたら、彼は気配を察知したのか顔を上げた。ルフレと距離が縮まったのを認識して——ほんの少し、身体を後ろにずらす。
……今、明らかにルフレに触れられるのを避けた。胸がぎゅっと苦しくなり、彼と向き合おうと決意した心が萎えそうになるが、母の言葉を思い出して自分を叱咤する。
「……大丈夫ですか? 大きな怪我はないみたいですけど、どこか痛みますか?」
不可解な態度はいったん無視することに決めて、気付かなかった怪我があるのではと、ルフレはぺたぺたとクロムの全身を点検し始めた。
彼はしばらくされるがままになっていたが、やがて何かを堪えきれなくなったように声を絞り出す。
「…………ルフレ」
「はい? 痛いところ、ありますか? あ、お茶も飲んだほうがいいですよ。喉、乾いてますよね?」
「いや……その、俺は……お前に謝らないといけないことが、あるんだ」
ゆっくりゆっくり、躊躇いがちに紡がれる言葉は弱々しい。これも、いつもの彼なら考えられないことだ。
出逢ってから今まで、クロムはルフレにとって優しくて頼りになる、大人の男の人だった。もちろんいくつか苦手なものがあるのは知っているし、正直過ぎてお世辞が言えない不器用なところや、真面目な性格なのでからかわれて慌てふためく、結構可愛い一面があるのも理解している。
でも、これまではルフレの一歩も二歩も先を歩いていて、そこから手を差し伸べてくれる――――ひたすら優しくルフレを甘やかして、守ってくれる側面の方が強かったのだ。
なのに今、目の前で塩をかけられた青菜のようにしょぼくれて小さくなっているクロムには、頼もしくて安心するような、けれど少し遠くて、もどかしく思うようないつもの感覚がない。
そのことに不思議な衝動を覚えつつ、黙って彼の言葉の続きを待つ。何か、大事なことを言おうとしてくれているのが、分かったからだ。
「……まずは、昨夜のことを謝らせてくれ。その……いきなり押し倒して、だな……お前の同意も得ずに色々して……悪かった。酔って……歯止めが効かなくて……お前に、触れたいという気持ちが……抑えきれなかった」
「え?」
途中まで何か口にしようとしては、声にすることなく飲み込むのを何度も繰り返し、ようやく紡がれたのは、ルフレにとって意外すぎる言葉だった。
だって、クロムがこの一月あまりルフレにくれたのは、いつも優しい、でもただそれだけのキスと、抱擁のみで。
よく眠れる『おまじない』をして欲しいと、遠回しにねだっても、決してそれ以上の行為に及ぶことはなかった。
唯一の例外が昨日の夜で、なのに彼は途中でルフレを置いて出て行ってしまった。
だからクロムは、ルフレのことを大切にはしてくれていても、夫婦らしい行為をするほど『大人』だとは思っていないのだと————。
「……クロムさんは、私が子どもだから何もしてくれないんだ、って……思ってました……」
「違うっ!」
予想外のことに動揺を隠せずもれた呟きに、間髪おかず返された否定は力強い。
彼はルフレに触れようとして躊躇い、行き場のない手を膝の上できつく握り締めた。
「……俺にとって、お前は子どもじゃないし……そう思っていたら、結婚していない。もちろん、守ってやりたいと思ってはいるが……。お前は、俺にとって誰より魅力的な……その、大切な、女性……だ」
「じゃあ……じゃあ、どうして……今まで何もしてくれなかったんですか……?」
いけないと思いつつも、尋ねる声が思わず責めるような響きを帯びた。
クロムの言葉をすんなり受け入れて、ああよかったと納得して終われるほど、単純な話ではないのである。
結婚して、新居となるアパートに引っ越した日。大好きなひとと家族になれた喜びを大事に抱き締めながら、初めて迎えた二人だけの夜に高鳴る恋心は肩透かしを食らわされて。
考えすぎかもしれないと思ったけれど、優しい彼は一度だってキス以上のことをしてくれなかった。
クロムの家族になれたのだから、それ以上を望んでは罰が当たると自分に言い聞かせて、必死に期待すまいと努めて、でもまだ諦めきれずにいたところに起きた、昨夜の一件。
あれでルフレの乙女心はぼろぼろである。ようやく冬から暖かい春になったと思ったら、一瞬でまた凍えるような真冬へ蹴り飛ばされたようなものだ。
……ちゃんと、説明が、欲しい。
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