「————座ったらぁ? 危ないわよ」
車の後部座席の背もたれに張り付くようにして中途半端に腰を浮かせ、あっという間に小さくなっていくクロムを焦燥と共に見つめていたルフレへ、声が掛かった。
どこか甘えたような、鼻にかかった声だ。慌てて振り返ると、運転席にはタイトスカートの黒いスーツを着た女性が座っている。
褐色に近い小麦色の肌に、背中の中ほどまであるよく手入れされた銀髪。妖艶な美女、という形容詞がぴったりなその女性は、ルームミラー越しに面白そうな表情を浮かべてルフレを見ていた。
「置いてきちゃったカレが気になるのは分かるけどぉ、ファウダー社長がちゃんと『オハナシ』してくれるから大丈夫じゃなぁい?」
「…………」
どことなく含みを感じる口調である。自分の口で何も事情を説明できないまま、置き去りにしてしまったクロムへの心配は消えないものの、今更車を戻してはくれなさそうだ。
仕方なく、無言でそろそろと高そうな座面に座り直したルフレは、女性が父を『社長』と呼んだことに驚きと同時に納得を覚えていた。
執事がいるような家に住んでいて、別邸を所有し、こんな高級車を気負うことなく足代わりに使っているのである。普通の勤め人ではまず無理だ。
(ということは……この人は父さまの部下の方、でいいんでしょうか。確か先程、すごく早口で事情を説明しながら私のことを頼むと言って、名前を呼んでいたような……)
「あの……」
「インバースよぉ。ファウダー社長の秘書を務めさせてもらってるわぁ、よろしくね」
「は、はい。よろしくお願いします……」
反射的に頭を下げて挨拶をし返すと、何故か吹き出された。それでもハンドルを操る手は乱れない。秘書という話だが、父の運転手のような役割も務めているのかもしれない。免許を持っていないルフレにも、非常に運転が手慣れていることが分かる。
「社長に娘さんがいたなんてねえ……今日はお墓参りだけのはずだったのに、世の中何があるか分からないわぁ」
しみじみ呟くインバースからは、悪意のようなものは感じない。あるのは純粋な驚きと、好奇心……だろうか。そう警戒しなくてもよさそうだ。
ようやく、よく知らない相手と密室空間で二人きりという状況に感じていた緊張が、少し緩む。
となると気になるのは、やはり置いてきてしまったクロムのことだ。
ルフレは、車窓から見える外の景色に視線を移した。見覚えのない風景が次々と窓の外を流れていく。
車が向かっているのは、出発前に聞かされた説明によるとファウダーが所有する別邸のひとつらしい。
ファウダーは今日初めて存在を知った娘が、いつの間にか人妻になっていると知ってしばらく処理落ちしていたが、復活するや猛然と、ルフレの結婚相手について質問をいくつも投げ掛けてきた。
その様子はほとんど詰問と言っていいくらいで――――そしてルフレの答える声は、父からの圧迫面接めいた数々の質問に、徐々に覇気がなくなっていった。
何しろクロムとは昨夜、諍いとも喧嘩とも呼べない気まずい出来事があったばかり。
朝は憤慨して、彼の分までフレンチトーストをやけ食いしてきてしまったものの、今は泣きたいような、大声でわめきたいような、自分の何が悪かったのかぐるぐると考えて思考が暗い方向へ向かってしまいそうな……とにかくいい精神状態でないことだけは確かで。
意気消沈していく娘の反応に思うところがあったのだろう。ファウダーは小さく唸り、難しい顔でしばらく考え込んでしまった。
それから何故か、若い頃の母が愛用していた品々が僅かだが取っておいてあり、それをルフレに譲りたいから別邸に寄っていかないか、と申し出があったのである。
クロムと再び顔を合わせるまでもう少しだけ猶予が欲しかったルフレは、迷いながらもその申し出を受けることにしたのだが――――。
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