「――――威嚇とはいえ、もう少し手傷を負わせるつもりだったんだが……腕が鈍ったか」
城壁近くに点々と立つ大木。その後ろから、どろりとした濃い闇を従えるように現れた人影とその人物が発した声に、腕の中の母が身を震わせた。
「クロム、様……」
絶望的な思いでマークは男の名を呼ぶ。
二つの大陸に名を轟かせて久しい英雄。
母の想いに気付かず彼女を苦しめ、傷付け、今でも荊棘で苛むが如き痛みを与え続ける男。
(どうしてここに……! 視察から戻るまであと三日はあったはずなのに……っ)
事前にガイアを通じ確認していた日程では、すべての視察を終え王城に帰還するのはまだ先だった。
月のない夜、そして母に執着するクロムの不在。その二つの条件が揃ったからこそ、計画の実行に踏み切ったのだ。
予想だにしていなかった事態に、次の行動を決めかねて動けないマークを——否、マークの腕の中にいるルフレを凝視したまま、クロムが弓を手にゆっくりと近付いてくる。
陽の光の加減によっては晴れやかな蒼穹を思わせた濃紺の髪は、今や背後の漆黒に塗りつぶされたように昏い。
絶望の闇が具現化したような姿は呼吸さえ憚れる緊迫感の中、弓の間合いとして近過ぎないぎりぎりと思われる場所で足が止まった。
「嫌な予感がしたから急いで視察を切り上げて戻ってみれば……どこへ行くつもりだった、ルフレ?」
「…………っ……」
囁く低い声音はむしろ静かだった。だが母は名を呼ばれ、怯えたように身を縮こませる。
人が何もかも差し出し、平伏して許しを請わざるを得ない圧倒的な威圧感。クロムを取り巻いているのは激しい怒気だ。
口元にはうっすらと笑みすら浮かんでいるが、何もかも飲み込んでしまいそうな深淵を思わせる昏い濃紺の瞳は、その一瞥で人さえ射殺せそうに鋭い。
「お前が約束を破ったのは……これで三度目か。俺との約束は、お前にとってそれほど守るべき価値がない、屑石同然の軽いものらしいな」
「ッ、そんな……!」
そんなこと、あるはずがない。
母がどれだけクロムのことを想い、王であるこの人のために、敬愛する姉から受け継いだイーリスをより良い国にしようと困難な道を行く半身のために、どれだけ我が身を擲ち、すべてを捧げ尽くしてきたか。
その献身を、想いを、当然のように受け取っておきながら、その裏でどれだけ母が苦しんできたか気付きもせずそんなことを言い放つ傲慢さに、痛みも忘れて立ち上がりかけたマークの反論を、クロムは冷たい瞥見ひとつで封じた。
氷の手が背中へ差し込まれたようで、思わず喉の奥が音を立て、動きが止まる。
それは、かつて共に数多の戦場を戦い抜いた仲間へ向ける眼差しではなかった。
己の半身が未来で産んだ息子という存在を扱いかねていたのか、それとも既に無意識の妬心があったのか。多少の距離があった以前でさえ、年少の者へ向ける庇護者めいた情や、一定の兵を預けてもらえるだけの信頼は確かに存在していた。
なのに、今のクロムからはそれらの感情を一切感じない。冷然とこちらを睥睨する眼差しは、マークをただ己のものを盗み取ろうとする許さざる略奪者、排除すべき敵としてしかとらえていなかった。
「……いくらマークが優秀でも、ここまで完璧に見張りを避けられるわけがない。誰か、協力者がいるな? 大体検討はつくからまあ言わなくてもいいが……ルフレ、選択肢をやる」
おそらく、未来の世界でもマークの『父』であった人から、完全に切り捨てられた。その衝撃でまともに頭が働かない。
クロムの戦い方はずっと見てきた。立ち回りの癖も間合いも完璧ではないにせよ把握している。他の兵士の気配は感じないから、今のうちに目眩ましの術でも何でも詠唱して逃げなくてはと思っても、自分の手足が急に役立たずの棒になってしまったようだ。
そんなマークの様子に頓着せず、クロムは淡々と続ける。
「もし、お前が自分の意志で俺のところへ戻ってくるなら……マークは、今だけは見逃してやってもいい。もちろん、今後城に足を踏み入れることがあれば容赦しないが。だがあくまで逃げ出そうというなら……分かるな?」
「っ、駄目です母さ――――ッ?!」
「マーク……!!」
クロムのいっそ優しげな呼び掛けにふらふらと立ち上がった母を見て、ようやく自分を取り戻したマークは手を伸ばし引き留めようとした。
そこへ再び響く、乾いた鋭い音。伸ばした右の手の甲が灼熱のような熱さを覚え、一拍遅れて鋭い痛みに襲われる。
まるでこれ以上触れることは許さないと言わんばかりの一撃を放ったクロムは、こんな状況でなければ惚れ惚れするほど美しい構えで弓をつがえたまま、「今のは威嚇だ。次はこの程度では済まさない」と言い捨てた。
「……お前次第だ、ルフレ。お前は俺との約束を一度も守ろうとしないが……今ここで、これから逃げ込もうとしている男でなく、俺を選ぶなら。マークを見逃すという約束は守ってやる」
(まさか、この人は……)
信じられない思いで夜闇を震わせるクロムの声を聞く。
まさか。まさか本当に、この人は。
未来の世界でのマークの父親が、自分ではない別の男だと、母がその男を愛しているのだと信じているのか。これだけ己の半身から想われておきながら。
半身を奪われまいと、常軌を逸しつつある振る舞いの理由の一端をうっすらと悟り、マークは目眩がした。
どうしようもない。どうすることもできない。ねじれて、雁字搦めになってしまった二人の絆を解きほぐす唯一の方法は真実を明かすことだが、それだけは決してできない。絶対に。
唇を強く噛み、マークは覚悟を決めて隠しに入れた魔導書を探り当て、詠唱を始めようとした。おそらく矢を射る速度の方が早いが、クロムの魔術に対する耐性はからきしだ。多少傷を負ってもこちらの攻撃を当てられれば、母を連れて逃げる時間は稼げるはず。……だが。
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