小さな<マーク>が生まれたからには、クロムと母の間に肉体関係があったのは間違いなく、聖王が突如迎えた側室に関する下卑た噂話も耳にしていたから覚悟はしていたつもりなのに、動揺が抑えられない。
ほとんど同年代に見えはしても、母は母だ。母の、情事の直後のように艶めかしく、何とも言えない艶冶な様子は身の置きどころがない思いがする。
「……母さん」
「――――……っ!」
しかし時間は有限だ。頭を振って意識を切り替えたマークは、母の正面に回り、そっと肩に手を置いてもう一度呼び掛けた。
全身が大げさなほどびくりと震え、ひゅっと喉が小さく鳴った。逃げるように後ずさろうとした細い肢体は、長椅子の背もたれに阻まれる。喘ぐように小さく動く紅い唇が、何かの音を紡ごうとして――――その音が空気を震わせてマークの耳へ届く前に、硝子球へ、ゆっくりと光が戻った。
「……ぁ……まー、く……?」
「冬の真夜中にそんな格好じゃ、風邪引いちゃいますよ」
「どう…して……」
自分の羽織っていた外套で、以前より小さく、細くなってしまった気がする身体を包む。緩慢に瞬きを繰り返していた母は、夢から覚めた直後のようなぼんやりした様子だ。聖王以外は女性の使用人しか立ち入りを許されない部屋に何故マークが現れたのか、まだピンときていないようだった。
不寝番の侍女が控えているであろう、続きの間の方を窺いつつ、潜めた声音で続ける。
「詳しい説明は後で。とにかく今はここを出ましょう。外履きの靴はありますか? それと、外は屋内より冷えるので、できれば暖かい格好もしてほしいところなんですが、難しければその外套を貸しますから――――」
「ま、待ってください……ここを出る、ってそんな……外には見張りがたくさんいて……」
「大丈夫、ガイアさんが協力してくれて、見張りの人たちを少しの間だけ遠ざけてもらってます。城を出られれば聖都の外れでグレゴさんも待機してくれているので、あとは母さんが動くだけです」
降って湧いた事態を飲み込めないでいる母に、要点をかいつまんで手短に説明していく。
マークが今日ここに来られたのは、ガイアの手助けによること。短時間だが見張りをある程度遠ざけ、脱出可能な隙を作ってくれていること。
城から脱出して城下へ抜けられさえすればグレゴが待機しているので、彼の手引きでイーリス国外へ出られること。潜伏先も用意してくれているから、しばらくはそこで何も考えず、産後の身体を休めてほしいこと。
「……そんな、状況なんですね。それなら急がないと……でも……<マーク>は? あの子のことを置いて……いけません」
一気に与えられた情報に混乱しながらも、迷っている時間的余裕はないと理解したのか、躊躇いがちに頷いた母に安堵したのも束の間、そう切り出されたことで表情が強張るのが自分でも分かった。
(やっぱり……誤魔化されてはくれない、ですよね……)
生まれたばかりの第一王子――つまりこの時代の小さな自分のことは、マークも最後までガイアとやり合った。
城に残していけば王の子として何不自由なく暮らせるだろうが、様々な思惑を持つ貴族たちに利用される危険性も大いに孕んでいる。
母と一緒に連れていきたいと主張するマークに対し、ガイアは諦めろの一点張りだった。侵入する隙を作れるのは僅かな時間、その短時間で奥向きでも互いに離れた場所にある部屋から、生後間もない赤ん坊と、出産直後の女を両方連れ出すのは無理だ、と。
二人一緒にというのは脱出できる確率がぐっと下がる。どうしてもと言うなら、そんな分の悪い賭けには乗れないから俺は降りる、とまで突っぱねられては我を通し続けるわけにもいかなかった。
どう説明するべきか。逡巡の後、下手に嘘をつくよりはと正直に話すことにする。
「<マーク>は……すみません、今日は一緒に連れていけないんです。僕もなんとかできないか色々考えたんですけど、<マーク>が寝かされている部屋はこことかなり離れていて、ガイアさんが見張りをどうにかしてくれている間に母さんと<マーク>両方を、というのは僕ひとりじゃどうしても無理で。でも、必ず……必ず、<マーク>が母さんと一緒に暮らせるようにしますから。だからお願いです、今日のところは……堪えて、ください」
「マーク……」
沈黙が、冷え切った室内に落ちた。
本当は彼女にこんな、我が子を置いて自分だけが安全な場所へ逃れるような選択をさせたくない。
母はこれまで充分に苦しんだ。己の半身に深く恋い焦がれ、けれど決してそれを誰にも悟られまいと秘密を抱え、笑顔の仮面を被り続けて……とっくの昔に限界を迎えていたのに、それでも愛する男のために荊棘に苛まれるような痛みに耐え続けた。
だからもう、傷だらけになった心を休め、我が子と穏やかな時間を過ごしてほしい。
その願いに、想いに、欠片も嘘はないが、どちらかひとり、と言われればまず母が優先だ。己のかつての軍師を奥向きの一室に閉じ込め、自分以外の男を決して近付けさせないクロムの執着は、明らかに一線を超えてしまっている。今夜を逃せば、母はもう二度とこの鳥籠から出られないかもしれない。
聖痕のある王子として生を受けた、この時代の自分を連れ出すのは母とは別の意味で極めて難しいと分かっている。それでも……どんな困難があろうとも、必ず果たすつもりだった。
時間は刻一刻と過ぎていったが、マークは唇をきつく噛み締めながら母を見つめ続けた。
「………………分かり、ました」
長い、長い沈黙の末に、一度長い睫毛を伏せたあと、母はゆっくりと長椅子から立ち上がった。深い安堵が全身に広がっていくのを感じ、詰めていた息を吐く。
色素の薄い、今にもふと消えてしまいそうな儚さがあった瞳には未だ苦衷の色があったものの、以前の母に近い意志の強さが感じられた。
「外履用の靴はここにはありませんけど、室内用の布靴を何足か替えながら行けば大丈夫だと思います。外套は……すみません、衣装の保管部屋にはあるのかもしれませんけど、私は見たことがないので……ショールを重ねますから、マークもちゃんと暖かくしてくださいね。……脱出は、あの窓から?」
「ええ。僕はロープを使って昇ってきたんですけど、母さんは僕の背中におぶさってもらった方がいいかもしれません。身体がまだ本調子じゃないでしょうし、このあと走ってもらわないといけない場面が出てくるかもですし」
「そう、ですね……」
いったん決断すると、母は早かった。一度だけ何か迷う素振りを見せたものの、それ以外は隠密も真っ青の迅速さだ。
足音を立てないよう静かに寝室内を動き回り、いくつか見繕った布靴をその辺りにあった適当な布で包むと、夜着の上から何枚もショールを巻き付けててきぱきと包みを背負う。
ちぐはぐな格好は、こんな状況でなければ親子二人で大笑いしただろう。ただ、今はそういう余裕もないので、声を潜めてどうやってこの部屋から出ていくか手短に話し合った。
最終的に時間が惜しいということになり、マークが母を抱えて露台から飛び降り、風魔法の応用で落下の衝撃と音を殺すという方向でまとまった。
……深夜の脱出劇は、ここからが正念場だ。
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