「大丈夫ですか、母さん?」
ガイアに教えられた衛兵の巡回経路を避ける形で、マークは母の手を引いてイーリス城外を目指していた。
後ろを何度も振り返り、歩みが遅くなりがちな母を気遣い小さく声を掛ける。底が薄くて柔らかい、絨毯が敷き詰められた室内用の布靴では、どうしても石畳や土がむき出しの地面は歩きづらいし、冷気が伝わって冷えるに違いない。
一度返されてしまった自分の外套は、久々の外気に触れた母がくしゃみをしそうになったので、どうにか言いくるめて再度進呈したのだけれど……。
本当はずっと抱きかかえるか、背中に乗ってもらう形で移動したほうが母に負担がないのは分かっていても、いざという時、唯一荒事に対応できるマークの両手が塞がってしまうのは悪手だ。
「ごめんなさい、マーク……。私、足手まといで……」
「何言ってるんですか。本当はまだ安静にしていなくちゃいけない時期なのに、無理をさせてるのはこっちですよ。母さんが謝る必要なんてないですから。……あとちょっとで城の外に出られるので、もう少しだけ頑張ってください」
気持ちを解すように笑いかけながら、眉根が寄らないようにするのは苦労した。
マークの想定より、母の体力は落ちている。産後の女性の身体は、見た目以上にぼろぼろで無茶は厳禁というのは知識として知っていたものの、原因は別のところにある気がしてならない。
(母さんの身体にあった痕……あの人が視察に出発して数日経つのにまだくっきり残ってた。お腹の中に<マーク>がいたときも、ほとんど毎晩母さんの部屋に来ていた、なんて……下衆な人たちが面白おかしく噂しているだけだと思ってたけど……)
元々、クロムは王子時代から男性王族としてある方が自然な女性との艶聞の類が一切なく、即位後妃を娶っても臣下に強く進言されなければ同衾しなかったことから、色事に興味がないものと思われていた。
しかし今になって、人々はその認識を急速に改めつつある。聖王妃に代わり――否、彼女とは比べ物にならないほど、聖王の夜を独占する女性が現れたからだ。……女性が望むと望まざるとにかかわらず。
その執愛が母の身体と精神を蝕んだのだと、じわじわと砂地に水が染み込むようにマークは理解せざるを得なかった。
何故今になって、と思う。
母を愛しているのなら、もっと正しく、誰も傷付けないやり方で愛してほしかった。鳥籠にその意志を無視して閉じ込めるような、一方的に奪うような愛し方ではなく。
もし、例えば……脳裏をよぎる様々な選択肢。だがどれも遅すぎる。何もかもが。
それからは時折言葉を交わすのみで、沈黙のまま歩みを進めた。今夜は新月。常より深く、濃い周囲の闇はマークたちを隠してくれる夜の女神の恩寵であるはず。
しかし黒々とした闇にじわじわ包囲網を狭められているような、何かに急き立てられるような焦燥感はどんどん強くなっていった。
振り返る度、母の姿が闇に飲み込まれていくようにさえ見えてしまって、神経質になっているだけだと自分に言い聞かせて強く手を握る。この手を離してしまったら、取り返しがつかないと誰かが囁くから。
……そしてそれが起きたのは、警備の手薄な城壁の近くまで迂回しながらやっとのことで辿り着き、もうすぐ城外に出られると安堵しかけた時だった。
「――――――――ッ?!」
城壁の上に点在する篝火が遠くでぱちりと爆ぜたような気がした刹那、ぞくりと全身の皮膚が粟立ち、マークは咄嗟に母を抱え込んで真横へ身を投げた。本能的な回避行動。ほとんど同時にヒュッ、とすぐ近くで何かが空を切る音がして、頬に焼け付くような痛みが走る。
「マークっ!?」
押し殺した悲鳴。悲痛な母の声が自分を呼ぶのを聞きながら、体勢を低くして周囲の気配を素早く探る。
(今のは、弓矢での攻撃……? でもどこから……!)
警戒は怠っていないつもりだった。もうすぐ城外だ、という安堵で無意識に気を緩めてしまったのか。矢が飛んできたと思しき方角から母の盾になるよう位置取り、上衣の隠しにある魔導書に手を添えて詠唱の準備もしながら、違和感を覚える。
侵入者を発見した兵士ならば、立て続けに二撃、三撃と打ち込んできてよさそうなものだ。それに、応援を求める声でもっと騒がしくなるのが普通だろう。
何らかの手段で遠ざけられていた見張りが戻ってきたのだとしても、今の一撃だけで様子を見るようなことはしないはず。
襲撃者の意図が読めず、頬に大きく走った傷口から滲む血を拭うことさえせずに矢の主を探すマークの耳が、草を踏む微かな靴音をとらえた。
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