「マーク、さん……私――――」
一緒に行きます、と。
おそらくクロムの為を思うからこそ、離れるという決断をしたであろう以前の自分のように、そう言おうとしたはずだった。なのに――――。
――――心配するな。何も不安に思わなくていい。……俺が、側にいる。
「か――――師匠……?!」
急に、視界が滲んだ。それまで真摯な表情でルフレの答えを待っていたマークが、取り乱したように腰を浮かせ、けれど中途半端な体勢でどうしたら良いのか迷うように固まっている。
「あ……」
ぽたり、と。上掛けを握り締める手に熱いものが落ちた。
ルフレの瞳は、いつの間にか大粒の涙を次々と溢れさせていた。止めようとしても、涙腺は主の意思を無視してとめどなく透明な雫を流し続ける。
自身でさえどうにも制御できない突然の落涙。それは、想い人から離れることを激しく拒む心が上げた、痛切な悲鳴だった。
いかに理で説き伏せようとしても、離れることがクロムの為になるのだと言い聞かせても、そちらを選ぶことが正しいのだと理解していても。
彼への想いを自覚してからずっと、長きに渡って押さえつけられ、心の奥底へ厳重に鍵をかけて閉じ込められていた恋情は、思いがけず与えられた泡沫の幸福を手放したくないと、悲痛な声を上げて抵抗している。
「……ご、め…なさ……わた、し……わたし……どう、して……」
だがルフレはそれに気付けない。何故自分が泣いているのか。魂が引きちぎられてばらばらになりそうなほど苦しいのか。何ひとつ分からない。
――――おもいだして……。はなれるの。はなれないといけないの。そばにいてはだめ。だって、だって……あのひとは……。
遠くで……あるいはすぐ近くで? 誰かがしきりに囁いている。
ルフレに何かを訴えるように。
目を開いて、耳を澄ませて、真実から逃げてはいけないと。
……そう、クロムを本当に愛しているのなら。彼の幸福を、願っているのなら。けれど。
「――――……いいんですよ、師匠。いいんです。もう、充分です……」
掠れた囁きとともに、涙で霞んでいた視界が暗くなった。少し冷たい、骨ばった大きな手の感触。マークが労るように、縋るように目元を覆ったのだ。
そして目元を覆われたまま、上半身をもたれさせる支えにしていたクッションをどけて、丁重に寝台へ寝かせられる。
「……すみません、酷なことを聞いて。さっきの質問は忘れてください。もう充分……充分、分かりましたから……」
マークの声も手も、少し震えていた。泣いているのだろうか。そう思うと何故か胸が痛くて、切なくて、抱き締めてあげたい、と思った。
泣かないで、と手を伸ばしたかったのに、ふわ、とまた誰かに二重で目隠しをされでもしたように視界がより一層暗くなる。
――――……あのひとのそばに、いたいなら。わすれたままでいて。おもいださないで……。だれがないていても。
「大丈夫、大丈夫ですよ、母さん。……言ったでしょう? 僕は母さんがどんな選択をしても、絶対に母さんの味方だ、って。心配しないでください。クロム様の側にいることが母さんの幸せなら……僕がその幸せを守ります。母さんの一番大事なものは、ちゃんと戻ってきますよ。だから……それまで少し、眠っていてください…………」
また、呼び方が母さんに戻っている。そう思ったけれど、もう指摘するために口を開くことすら億劫だった。
強烈な睡魔がルフレを引きずり込もうとしていた。ここで真実から遠ざけようとするかのように目隠しをする手を振り払わなければ、きっともう、二度とルフレの弟子と名乗り、随分慕ってくれているようだったこの青年には会えない。そんな予感がする。
無茶苦茶な言い訳で誤魔化されてしまった、ルフレのことを『母さん』と呼ぶ理由も。彼とルフレの本当の関係も、何も分からないまま。
待って、と抗いたかった。
あなたは、いったい誰なんですか。
どうして私が覚えていないと知って、一瞬あんなに傷付いたような顔をしたんですか。
どうして私のことを母さん、と呼んだんですか。
どうして……そこまで私の幸せを願ってくれるんですか。どうして……。
問いたかったのに、意識は急速に遠のいていく。
――――どうか、しあわせに。
小さな、まるで泣いているかのような囁きが耳朶を震わせたと思ったのを最後に。
ルフレの意識は真実を閉ざす暗闇へと攫われていった。
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