私はその手を振り払わない - 7/8

 どこかで、赤ん坊が泣いている。
 目蓋の外に光を感じたルフレがぼんやり覚醒し始めた時、最初に意識したのは誰かが手を握ってくれているあたたかな感触と、何かを求めるようにわんわんと泣く赤ん坊の甲高い泣き声だった。
 生死の境を彷徨うほどの大怪我を負ったルフレの療養のため、クロムの屋敷は常日頃、些細な物音ですら響いてしまうほど静寂が保たれている。
 だから住人には赤ん坊どころか幼児ですらいなかったはずだが、たまたま使用人の子供でも連れて来ているのだろうか。
 もしかしたら、また夢を見ているのかもしれない。そんなことを思いながら、やたらと重い目蓋をのろのろと持ち上げる。
 何だか目元が腫れぼったいし、頭もぼんやりするから泣いていたという可能性もありそうだ。

(でも……そんなに泣くようなこと、何かありましたっけ……?)

 どうも、寝起きの所為か記憶があやふやだ。確か夢を見て、大事な人に貰った大切なものを失くしてしまった気がする、とクロムに話したら彼の様子がおかしくなって、それで……。

「……クロム、さん……?」
 
 光に慣れていなかった視界が徐々に鮮明になっていくにつれ、窓から室内に差し込む朱い夕陽の輝きをまともに受けても微動だにせず、ルフレをじっと見つめる青年と視線が絡んだ。
 鮮烈な朱い光と混じり合っているが、見慣れた濃い青髪と、深い青の瞳。恋人のクロムだ。
 幻だろうかと一瞬思う。目隠しをする手の隙間からこぼれ落ちるように少しずつ蘇ってきた記憶では、ルフレが『大切なもの』を失くしてしまった話をした翌日、明らかに普通でない様子で突然この部屋を訪れた後、ぱたりと彼の来訪は絶えていたはずだった。
 もしかしたら逢えない恋人に焦がれるあまり、彼が逢いに来てくれたという夢か、幻でも見ているのかもしれない。
 そう思ったものの、ルフレの掠れた囁き声で、寝台の近くに腰掛けていた青年は泣き出す寸前のような、何かを必死に堪えているような、初めて見る顔をして、やっと「……ルフレ」と、それだけ口にした。
 本物だ、と理由も分からないままにそう感じたルフレの胸へ、心の奥底から突き上げるような、一方でじわりと噛みしめたいような、途方もない歓喜が、多幸感が、押し寄せてくる。
 その圧倒的な強い感情の動きが、それと意識する前にルフレのまだ白い面に微笑みを浮かべさせた。

「よか、った……逢いたかった、です……とても。とても、逢いたかった…………」

 それは言葉ではとても言い表せないほど、様々な想いが、感情が、凝縮された笑みだった。
 逢いたかった、と。そう告げた男への曇りのない恋情、傷だらけになってなお、輝きの褪せない宝石のような愛が隅々まで満ちた微笑み。
 千の抱擁よりも万の言葉よりも雄弁に、あなたを愛していると語りかける微笑を浮かべ、ルフレは手を伸ばした。
「……っ、ルフレ…………!」
 ずっと握ってくれていたらしい左手だけでなく、差し伸べた右手もひしと握り締めたクロムは、そのままルフレの両の手を捧げ持ち、額につける。まるで罪人が懺悔を求めるような深い悔恨を滲ませて。
「すまない……すまない、ルフレ……っ。俺は、俺…は…………!」
 震える声でクロムは何度も何度もすまない、と繰り返していた。何を謝ることがあるのだろうと、未だぼんやりする頭で考える。
 最後に逢った日の強引な振る舞い? 一週間以上、逢いに来られなかったから? それとも……それとも、ルフレに隠していることがあるから、なのだろうか……。

(でも……それでも、いいんです……)

 常にうっすらとまとわりついていた、クロムに触れられる度疼く罪悪感は消えていない。恋しい人の体温を感じれば、甘く震える胸は同時に荊で締め付けられるような痛みを訴える。
 けれど、もうこの温もりを失えない。
 どれだけ愚かしく、狡く、自分の恋情だけを優先させる度し難いほど身勝手な選択であろうと、彼の側にいたい。
 毒々しいほどに紅い洛陽が照らす室内。ルフレは静かに嗚咽を漏らし始めた恋人をずっと、長く見つめ続けていた。

 

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