私はその手を振り払わない - 3/8

 そんな出だしで始まった青年――マークの話は、主にルフレが知っていることと、現在の状況の確認で推移していった。
 マークが質問し、ルフレがそれに答える形だ。怪我の原因、今の体調、屋敷の使用人について、記憶を失くす前の自分のことはどの程度分かっているのか。その他、質問は多岐にわたった。
 彼は始終笑顔で、高圧的だったり横柄な感じは少しもなく、尋ねる口調も丁寧なのに、ルフレがクロムから『事実』として聞かされていたことを答える度に、得体の知れない不安が足元から這い上ってくるようだった。
「――――それじゃあまとめますけど、師匠はクロム様のところへ馬車で向かっている途中で事故に遭って、その時の怪我が元で記憶がない、と。幸い、クロム様が時間になっても現れない師匠を心配して探しに来てくれたおかげで救助が間に合いましたけど、それでもしばらく高熱が出て意識が戻らなかったくらいの大怪我だった。師匠は天涯孤独だから誰も家族はいなくて、恋人のクロム様が自分の屋敷に運び入れて面倒を見てくれている……ってことでいいですか?」
「は、はい……」
 萎れた花のように頭を垂れながら力なく頷く。マークの質問にひとつずつ答えていく中で改めて認識したのは、今のルフレを取り巻く世界が、いかにクロムの言葉のみによって成り立っているかだった。
 天涯孤独だという自分の素性。記憶を失う前は何をしていたのか。事故に遭った時の状況。その他にも、ルフレが知っていることの根拠はすべて、城に武官として勤めているという恋人の話だけ。
 ……そして、クロムが自分の恋人だと説明した時の、マークの反応。変わらず柔らかな笑顔だったけれど、「……クロム様がそう言ったんですね?」とその時だけ念押しするように確認したのは、考えてみればおかしな話だ。

 ――――…………俺が、お前の恋人だと……そう、言ったからか…………?

 視界がぐらぐらと揺れている気がする。足元から世界が崩れ落ちていきそうな感覚。
「うん。師匠の状況は、分かりました」
 耳元で誰かがしきりに何かを囁いている気がして、耳を塞ぎたい衝動に駆られていると、ぽん、とマークが軽く両手を合わせて頷いた。それでやっと、少しだけ意識が引き戻される。
 ルフレのことを師匠、と親しげに呼ぶ青年は、やはり物柔らかな、他の感情を覗かせない笑みのままだったが、考えをまとめようとするようにしばらく黙り込んでいた。
 そういえばルフレの話ばかりで、この青年が正面玄関から客人として訪ねて来るのではなく、窓から現れた理由をまだ聞いていなかった。

(全部は、覚えていませんけど……私を連れて、ここから出ていくようなことを言っていましたよね……? 今すぐにでも、という口ぶりで……でも、私の怪我のことを知らなかったからどうしようかと迷っている様子でした……)

 ルフレが一緒に行くことを、まったく疑っていなかった態度。随分探した、と言っていた。クロムを介して知り合ったようだが、彼はルフレの怪我をマークには伝えていなかったのだろうか。
 それに、クロムからは一度も弟子と名乗るこの青年の話を聞いたことがない……。

(……そう、マークさん、だけじゃなくて……。他の人のこともほとんど話に出なかったです……。今までずっと、私のことを誰も訪ねて来ていない……手紙だって……。私の記憶がないから、落ち着くまで待ってくれているのかもしれない、って思っていましたけど。お医者様は毎回違う人で……クロムさんは優しい人なのに、ユーラは何だかいつも萎縮していて……それで……)

 冷たい石の塊を飲み込んでしまったみたいに、胃の腑の辺りが苦しい。心臓がどくどくと早鐘を打ち、嫌な汗が吹き出す感覚があった。何かを口にしたいのに言葉が出てこなくて、喘ぐような呼気を吐き出すと、そっと手を握られる。
「……実は僕、元々師匠から相談を受けていたので今日ここに来たんです」
「わたし、から……?」
 不思議だった。記憶がないルフレにしてみれば今日初めて会った青年なのに、ほんの少しだけれど嫌な感覚が弱まって、呼吸が楽になった。
 彼曰く、師匠と弟子だったという関係性の真偽はさておき、以前のルフレにとって親しい存在であったのは確からしい。
 マークは神妙な顔つきになって、何と言えばいいのか考えているように視線を彷徨わせながら続ける。
「以前から師匠とクロム様は……お互いのことを、とても大切に想い合っていました。比翼連理、なんて言葉じゃ足りないくらい……そう、お互いがお互いの心臓みたいな、かけがえのない存在だったんですよ。でもお二人には……ちょっと今は詳しく話せませんけど、色々……うん、色々、込み入った事情があって。師匠は、自分がクロム様の側にいない方がいい、って考えてたんです」
「……っ」
 心臓が、また嫌な音を立てて跳ねた。
 込み入った事情、なんて。マークは、言葉を濁したけれど。

(クロムさんの手……指輪の、痕……みたいな……)

 強張った表情で動揺を察したのか、握っていた手の片方を離して、マークは落ち着かせるようにルフレの背中を優しくさする。
「でも、クロム様は師匠がいなくなるのが耐えられなくて……絶対認めなくて。お二人は何度か、それで衝突してました。師匠はずっと悩んでいたんですけど、やっぱりクロム様のためには離れた方がいい、って決心して。クロム様には知らせずイーリスを出ていくことにしたから、手伝ってほしい……そんな風に僕に連絡がありました。まあ、その矢先に師匠が行方不明になっちゃったんですけど」
「…………そう、だったんですか……」

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